「エキサイト公式プラチナブロガー」スタート!
ここ数年、8月後半には音楽祭を聴くために松本を訪問しており、その度に松本の近隣を観光するものの、通常の松本観光の中心である松本城やその裏手にある旧開智学校等には、久しく足を運んでいなかった。それらメジャーな場所は以前に観光しているので、長野において未だ自分の知らない面白い場所を探訪したいと考えたがゆえである。だが、このブログでも既に姫路城と彦根城を採り上げた。城シリーズではないが、自然な流れとして、このあたりで松本城を記事にしてみようか。そう思い立ったのである。そして松本市街に遊んだ一日は、様々に新たな発見に満ちた充実の一日となった。やはりここは懐の深い街である。

音楽祭期間中ということで、街中にはセイジ・オザワ松本フェスティバルの看板も見える。ザルツブルクのようだと言うと言い過ぎかもしれないが、音楽祭が街の風物詩になっているとは、素晴らしいことだ。
e0345320_21170462.jpg
そして私のこの日の松本散策は、この場所から始まった。
e0345320_21093459.jpg
な、なんだこれは。松本にはもうひとつ城があるのか??? 実はこれ、松本城の正面に続く道沿いにある古本屋さんなのだ。このミニ松本城、建てるのも結構費用がかかったであろうが、維持管理も大変に違いない。だがこの堂々とした佇まいはどうだろう。建てられてから少なくとも数十年は経っていよう。古本屋好きの私としては、ここを素通りするなんてできっこない。入り口の様子。
e0345320_21142907.jpg
店内を見てみると、場所柄を反映して山の本が多く、また、格調高い文学書や歴史・地理などの専門書が並んでいる。横光利一や、地元出身の臼井吉見の本など手に取って見てみたのだが、正直、お値段はなかなかの水準で、また次回と自分に言い聞かせて店を出た。

そして、いよいよ松本城だ。
e0345320_21225906.jpg
戦国時代に信濃国の守護であった小笠原氏の命により、深志城として建造されたのが最初と言われる。その城はその後落城し、再建された。今の城の築城年代には諸説あるようだが、戦国時代か、あるいは遅くとも大坂の役の頃、1615年前後に建てられたとされる。日本に5つしかない国宝城郭のひとつで、まさに日本をを代表する城である。スタイリッシュな黒を身に纏い、均整の取れたこの美しい姿。
e0345320_21465902.jpg
e0345320_21475585.jpg
ところがさすが人気の観光地、私が訪れた10時30分頃には既に天守閣への入場制限がなされていて、30分待ちとのこと。とはいえ、いろいろな気配りがなされている。入場を待つ人たちはテントの下のロングベンチに腰かけることになる。これで日差しもよけられ、足も疲れないので30分くらいは大丈夫だ。また、待ち時間に城の説明の紙が配られたり、昔の城主とお姫様の恰好をした人たちが出て来て愛嬌をふりまいたりしている。
e0345320_22031832.jpg
e0345320_22035002.jpg
これらの心配りに穏やかな気持ちで待っていると、お、目の前に興味深いもの発見。松によく似たコウヤマキの幼木であるが、あの松本にとって重要な人物のお手植えである!!1992年に当時のサイトウ・キネン・フェスティバルが最初に開催されたときにマエストロ小澤が植樹したものであろう。これは、もし混雑がなくてそのまま天守閣に入っていれば気づかなかったもの。旅先では、このような偶然も楽しいものだ。どんなときも常にキョロキョロしていよう(笑)。
e0345320_22060055.jpg
さて天守閣の中というものは、存外どの城も同じようなもので、火縄銃やほかの城の写真など飾ってあっても、あまり面白くない。だが、やはり400年前の、今は何もない空間には何か不思議な重みがあるのも事実。寺社建築ではないので、滑らかに磨かれることもない、削り痕も生々しく荒々しい柱に、この城が送ってきた長い年月を感じる。
e0345320_22122982.jpg
e0345320_22251426.jpg
このように立派な松本城であるが、もちろん明治の激動期を乗り越えてその秀麗な姿が現代に残っているのは偶然でもなんでもなく、他の古い城と同様、必死に城を守った人たちがいたからである。これは城内に展示されている明治35年(1902年)頃の写真。明治の大修理の直前とのことだが、今にも崩れ落ちそうだ。
e0345320_22233231.jpg
尚この城には、3代将軍家光を迎えるために増築されたと言われる箇所がある。天守閣正面の向かって左側の突き出た赤い手すりのある部分、月見櫓である。内部に入るとよく分かるが、ここは三方を開け放つことができるようになっている。この場所で実際に月でも眺めると、風流だろうなぁ。戦乱の時代から平和の時代に移り変わった象徴のような部分に思われて、なにかよい気分になる。
e0345320_22291777.jpg
e0345320_22303501.jpg
さて、松本城域内には松本市立博物館があり、夏ということもあってだろう、戦争に関する展覧会を開催していた。その中にひとつ、最近発見された中国に従軍した兵士の記録があって、そこで見つけたこの落書き。「馬じゃあるまいし こんなに背わせてと不平言った頃」とある。戦中に書かれたものであれば、これは上官に見つかったら大変である。でも人間の正直な心情が表れた、よい遺品ではないか。いかに戦争中であっても、人間の思いはただがむしゃらな自己犠牲だけではいられまい。私ももしその時代に生きて従軍していてば、多分ふざけてこんなことをして、上官にこっぴどく殴られていたかもしれない(笑)。平和のありがたみを噛みしめよう。
e0345320_22334752.jpg
次に向かったのは、日本で最初期にできた小学校である、重要文化財、旧開智学校である。
e0345320_22384978.jpg
e0345320_22200595.jpg
一昨日、佐久市についての記事で、同市にあるやはり重要文化財の旧中込学校が、日本に現存する最古の学校建築であると述べたが、この両者の竣工時期の差はわずかに数ヶ月。この開智学校は1876年4月の完成。今から実に140年も前である。もともとほかの場所にあったものをここに移築して来て、彩色や細部の彫刻には復元された箇所も多いようだし、現在残っている校舎は当時のものの数分の一のようだが、いやそれにしても、昔の小学校はなんともモダンで鮮やかで、しかも東洋風の意匠も取り入れられているユニークなものだろう。近代教育の黎明期にここで学んだ人たちは、来るべき新しい時代に胸を躍らせたことであろう。現在は通行禁止になっている廻り階段も面白いし、校舎の端にあって2階に続く階段は、人々の往来によって、いい感じにすり減っている。2階の講堂も、なんとも懐かしい雰囲気を漂わせている。
e0345320_22442036.jpg
e0345320_22454475.jpg
e0345320_22530120.jpg
それから、明治天皇ご夫妻がここに滞在されたこともあるとのこと。当時は神様だから、両陛下が滞在された部屋は、その後も使わずにそのままにしてあったのだろうか。
e0345320_22571545.jpg
興味深いのは、この学校を設計した立石清重(たていし せいじゅう)の写真だ。なんとも昔の日本人の顔であるが、この方、地元の大工さんであるそうだ。ということはこの学校は、西洋人が上から目線で作ったものではなく、日本人の日本人による日本人のための施設であったわけだ。素晴らしいことではないか。松本という土地柄がこの学校の建築を可能にしたのである。
e0345320_22501440.jpg
この旧開智学校のすぐ正面に、現在の開智小学校がある。建物上部の八角形の部屋は、旧開智学校の上部の鐘楼のかたちを模しているのだろうか。さすが、140年前に開校した学校は、今でも進取の精神を脈々と伝えているのである。
e0345320_22582900.jpg
尚、旧開智学校のすぐ隣に、旧司祭館という建物がある。1889年にフランス人司祭が作らせたアーリーアメリカン調の建物。ちょっと軽井沢風というべきか。こじんまりしているがシャレた建物で、復元に際しては、暖炉も使える状態にしたらしい。松本市、いちいちやることが気が利いている!!
e0345320_23025452.jpg
e0345320_23032552.jpg
さて次に向かったのは、これも松本を代表する教育施設の遺構、旧松本高等学校である。現在でも市民の文化活動などに使われていて、一般公開されているのはごく一部であるが、1919年に完成した本館と講堂が重要文化財に指定されている。なおこの一帯はあがたの森公園という名称の、大変美しい公園になっている。ここにもセイジ・オザワ松本フェスティバルの旗がたなびいている。
e0345320_23055881.jpg
e0345320_23062700.jpg
e0345320_23070844.jpg
旧制高校と言えばバンカラなイメージがあるが、現代では失われてしまった風情がこの建物には漂っている。内部を見学できるのは、復元された校長室と教室だ。文教都市松本の面目躍如たるものがある。その時代に生きていなかったのに、懐かしいのはなぜだろう。
e0345320_23125001.jpg
e0345320_23131987.jpg
この旧制高校の建物のすぐ横には旧制高校記念館という小さな博物館があり、旧制松本高校出身の北杜夫に関する資料などが展示されているが、以前見たことがあるので今回はパス。公園を少し奥に進むと、おぉなんとそこは素晴らしく整備された日本庭園だ。真夏の日差しは強かったものの、公園の木陰に入ると涼しく、そこのベンチに座ってしばしうたたねするという、最高の贅沢を楽しんだ。その間も、旧制高校の建物の中で練習する市民合唱団とおぼしき人々の歌声が遠くから流れてきて、夢幻的であることこの上ない。なんと心地よい。
e0345320_23173336.jpg
昼寝から覚めて次に向かったのは、松本市美術館。山岳画の展覧会を開催していて、それも足早に見たが(最近展覧会が日本を巡回しているらしい吉田博という画家の作品もいくつかあった)、それよりも松本と言えばやはり草間彌生である。1929年にこの地に生まれ、早くから世界的アーティストとして成功。未だに現役で活躍中だ。美術館の入り口には彼女の手になる巨大な作品が。
e0345320_23213723.jpg
平常展示の中にも彼女の作品コーナーがあって、大規模なインスタレーションをいくつか体験できて楽しい。また、一部のコーナーでは作品の写真撮影も可能とのことで、遠慮せずに何枚か撮らせて頂きました。
e0345320_23235690.jpg
e0345320_23244713.jpg
e0345320_23251885.jpg
ニョキニョキキラキラの不思議なヤヨイワールドのほかにも、地元に関連した多様な作品を見ることができるこの美術館、広々としていてなんとも気持ちがよい。

さて、この日の夕方にはファビオ・ルイージ指揮サイトウ・キネン・オーケストラの「復活」の演奏会が控えていたので、このあたりで観光は終えて、残る時間でしばらく街を歩きたいと思った。お目当ては、古い町並みが残っているという中町通りである。その前にまず、四柱神社(天照大神等4人の神様をご神体とする)にお参りする。ここはやはり明治天皇の御座所であったらしい。それほど古い神社ではないが、落ち着いた佇まいだ。
e0345320_23293924.jpg
この近辺に流れているのは、女鳥羽(めとば)川。ちょっと金沢の犀川を思い出す風情ではないか。
e0345320_23342502.jpg
上の写真の左側、川に沿って建物が軒を並べているが、これがなわて通り。なんとも庶民的な通りで、思わずたこ焼きを買い食いしてしまいました・・・。
e0345320_23370561.jpg
この通りから女鳥羽川を渡った反対側に、中町通りがある。蔵が立ち並ぶ風情ある通りだ。次回はこのあたりのよさげな飲み屋でちょいと一杯と行きたいものだ。
e0345320_23400221.jpg
e0345320_23403180.jpg
そんなわけで、今回の長野滞在もあれこれ発見に満ちたものとなった。まだまだ訪れていない素晴らしい場所があるに違いない。夏の音楽祭の時期を中心に、またこの地域を探訪する機会を楽しみにしよう。

# by yokohama7474 | 2016-08-24 23:42 | 美術・旅行 | Trackback | Comments(0)
長野の旅。海は見えないが、雄大な日本アルプスの山々の眺望や数々の歴史遺産を楽しむ旅だ。昨日の記事に引き続き、車窓からの雄大な浅間山の写真から始めよう。あっ、ここでは前項の写真と異なり、邪魔な電線は写っていないではないか。最初からトリミングすればよかった(笑)。
e0345320_20533265.jpg
さて私はこの日、松本から一旦万座温泉に移動、そこで家族と合流したのだが、この機会にどうしても行きたい場所があった。その場所の名は、小布施町(おぶせちょう)。8月17日付の大妖怪展の記事で、高井鴻山の妖怪画を紹介しながら、「小布施に行きたい」と呟いた私であったが、思ったらすぐに実行すべし。たまたま松本に行く用があるからと言って、小布施はそこからさらに何十kmも、あるいは100kmも北上した場所で、決して近くはない。だが高速道路が完備しているので、その気さえあれば余裕で日帰りできる場所なのである。

だが、小布施に行く途中に少し寄り道をした。高山村という村である。そこで目にしたこの表示。
e0345320_21052403.jpg
なに、福島正則といえば、秀吉の子飼いの部下ではないか。こんな長野の山の中で荼毘に付されているのか???荼毘に付されたということは、当然ながらこの地で亡くなったということである。ということで、車に乗ったままこの火葬の地を探したのであったが、残念なことに見つけることができなかった。よく地方のマイナーな観光スポットにはある話だが、少し離れた場所にはやたら沢山案内板が出ているのに、近くに行くと途端にその数が減ってしまうという、あのパターンだ(笑)。実はこの近くには、福島正則の屋敷跡というのもあって、後で本で知ったところによると、一部当時の遺構が残っているという。残念ながら、そちらも時間の関係で見ることができなかった。また改めて探しに行きたいと思う。だが、本当にあの福島正則がここにいたのだろうか。この謎が後になってきれいに氷解しようとは、このときは未だ知る由もない私であった。
e0345320_22001526.jpg
さて、しばらく行くと、このように面白そうな看板を発見。字がかすれて読みにくいが、高山村歴史民俗資料館だ。
e0345320_22021566.jpg
なになに、「必見! 7000年前の湯倉人骨」とある。この湯倉というのは、その下に「湯倉の洞窟遺跡」とあるので、洞窟の名前であることが分かる。だがそれにしても、「湯倉人骨」と、ひとつながりの名詞にしてしまうというのは、それだけ歴史的な価値が世間で認められているのか、あるいは世間の評価とは関係なく、自分たちが自信満々でそのように謳っているのだろうか。興味津々だ。高山村の歴史民俗資料館はこのような建物。おぉ、これはモダンな建築だ。誰が見ても、ル・コルビュジェのロンシャンの教会を思い出すではないか!! 先に、群馬県立近代美術館が磯崎新の設計と知らずに眺めていた愚か者の私である。ここでも誰か高名な建築家の作品と遭遇したのかも・・・と思って後日調べたが、どこにも設計者の名前は見当たらない。でも、なかなかスタイリッシュな建築であると思う。
e0345320_22091929.jpg
我々が近づいて行くと、炎天下の資料館の前で何やら清掃作業を行っていた男性が、作業を停めて案内して下さった。ご多忙のところ、誠に恐縮でした。これが高山村全体の模型。敷地の2/3が山だそうである。さすが信州。
e0345320_22125705.jpg
そして、必見の湯倉洞窟に関する資料が展示されている。見よこの墨痕鮮やかな達筆を。
e0345320_22140726.jpg
高山村に存在するこの洞窟は縄文時代初期、7,000年ほど前のものとされており、学術的に非常に重要な遺跡と認定されているとのこと。食料とされた様々な動物の骨や土器のほか、石を抱いて埋葬された女性の骨が良好な保存状態で発掘されたとのこと。ここに展示されている人骨は複製だが、雰囲気は大変よく分かる。石を抱いているのは、いかなる意味があるのだろうか。
e0345320_22203642.jpg
e0345320_22210579.jpg
なるほど、太古の昔からこの地には人間の営みがあったわけである。この資料館にはその他、既に窯が閉鎖されてしまった藤沢焼という磁器についてや、このあたりの昔の暮らしについての展示がある。そんな中、私の目を引いたのは、このキリスト教禁止の高札。慶応4年とあるので、1868年、すなわち明治元年のものだ。そんな時代でもキリスト教が邪宗門という扱いとして、わざわざ高札まで出されているのは面白い。山深い信濃には品格の高い社寺が多くて、それらへの人々の信仰が篤いことと関係しているのだろうか。
e0345320_22234770.jpg
さて、この高山村、ほかにも見逃せない場所がある。それは、一茶ゆかりの里 一茶館。そう、あの小林一茶ゆかりの地に建てられた資料館だ。これも非常にモダンな建築である。設計者は、今度は判明したのだが(笑)、岡田新一。調べてみると、なんとあの最高裁判所を設計した人だ。また、以前コンサートを聴いた、東京藝術大学の新しい奏楽堂もこの人の設計。その他多くの公共建築を手掛けている。
e0345320_22280673.jpg
小林一茶(1763-1828)が信濃の人であるという知識はなんとなくあったものの、一般に知られている俳句以上に一茶について何か知っているわけではない。ましてや、この場所が一茶といかなる由縁のある場所であるのか、全く知識がなかった。館内の説明によると、一茶は47歳のときにこの高山村の俳人、久保田春耕を訪ね、その父である久保田兎園の自宅の離れ家を逗留先として提供される。それがきっかけで一茶は、65歳で他界するまでこの地を頻繁に訪れ、20人ほどの門人に俳諧指導を行ったとのこと。そのため、これらの家には一茶直筆の遺品の数々が残されたとのこと。一茶が晩年を過ごした家(火事で焼け出されたので小さな土蔵に住んでいたらしい)などは野尻湖近くに残されており、そちらにも資料館が建っているようだが、この高山村の資料館はそれに劣らず貴重な場所である。館内には一茶の生涯をアニメ風に紹介するビデオも流れており、その飄々とした庶民的温かさを感じさせる作風とは裏腹に、幼時から親族との死別を様々に経験して来た気の毒な境遇の人であることを知った。それゆえに、館内に展示されている様々な書や絵画に、この人独特の生きる力を感じる。
e0345320_22460850.jpg
またこの場所には、一茶がしばしば逗留したという離れ家がそのまま残っている。そう思って見るせいか、大変風流だし、この手の建物にしては珍しく中に入れるので、本当に一茶たちの息吹きを感じることができるようだ。
e0345320_23020591.jpg
このように、借り切って句会もできるようだ。なんと風流な。でも飲酒は禁止ですか。ま、やむないですが・・・(笑)。
e0345320_23032164.jpg
さて、それから本来の目的地であった小布施町へ。この町が有名なのは、あの葛飾北斎(1760?-1849)が老年に至ってから何度も江戸からやって来て、大規模な作品を含めた多くの肉筆画を残したことによるのである。私は随分以前に一度行っているが、今回久しぶりに再訪して、観光地としてよく整備されていることに驚いた。

北斎は言うまでもなく日本美術史上最大の画家のひとり。その画業の幅広く力強いこと、ほかに類を見ないし、見る人の度肝を抜くような大胆な視覚イメージを数々創り出した天才である。彼の人生で特筆すべきは、数えで90歳という、当時としては異例の長寿を全うしたことであるが、誠に驚くべきことに、この小布施に初めてやってきたのは既に83歳!!それから江戸との間を何度か往復しながら、足掛け4年をこの小布施で過ごしたという。しかも江戸と小布施の往復は徒歩であったらしい(確か、片道4泊?だったかと聞いた)。うーん、現代、高速道路を車で行くだけでも充分遠く感じるのに、どうすれば老体でこの道を歩いて往復できるのか。超人である。
e0345320_23083555.jpg
そしてここにもうひとりの重要な登場人物がいる。小布施の豪商で、儒学者でもあり、自らも絵をよくした高井鴻山(たかい こうざん、1806-1883)である。彼こそが北斎をこの地に呼び寄せた張本人である。
e0345320_23174546.jpg
江戸時代も末期に近づき、かつては盤石であった幕藩体制が揺らいでいた頃、絶好のパトロンを得た北斎は、この山深い小布施の地で、いかなる作品を残したのか。これが小布施に残された北斎の肉筆画を所有・管理する美術館、北斎館である。つい最近リニューアルオープンしたばかりらしい。道理で中は非常にきれいだ。
e0345320_23211261.jpg
ここではちょうど、安藤広重の東海道五十三次のすべてが展示されていた。実は広重の作品に先立って北斎が同じ東海道をテーマとして発表した連作も数種類展示されている。だがここでは、北斎の作品は明らかに単なるガイドブック代わりで、なんとも手抜きの仕事ぶりであり、広重の傑作には及びもつかない。なので、広重の絵を見て「ほぅー」と唸りながら足を進めることになるのだが、そのうち、なぜに北斎館で広重に感嘆しているのか分からなくなって来た(笑)。だがその後、かなりの数の北斎の肉筆画の展示に大満足。これは「富士越龍」。絶筆に近いと思われる、88歳のときの作品だ。素晴らしすぎる。神韻縹緲たるとは、まさにこのような作品に使うのであろう。
e0345320_23282924.jpg
だがここの目玉は、なんといっても、北斎が二基の祭屋台に描いた天井画である。
e0345320_23315063.jpg
1基には龍と鳳凰、もう1基には男浪と女浪。ここでは鳳凰と女浪をご紹介する。因みに男浪・女浪(おなみ、めなみ)は、北斎のデザインに基づいて、高井鴻山が彩色したと伝わっているらしい。いずれも、人を呑み込まんばかりの生命力だ。
e0345320_23351046.jpg
e0345320_23363061.jpg
さて、この北斎館のすぐ近くには、その高井鴻山の旧居が現存しているのだが、残念ながら現在リニューアル工事のため閉館中。残念だが、開き直って、また将来小布施に来る理由ができて有り難い!! と思うことにしよう。せめてここでは、先の「大妖怪展」の記事から、鴻山の妖怪画を採録して渇を癒すこととします。
e0345320_22585651.jpg
小布施で北斎の作品を鑑賞するのに必須の場所が、もうひとつある。岩松院(がんしょういん)というお寺だ。北斎はこの寺の本堂に、実に畳21枚分もある天井画を描いているのである。このようなこじんまりとした佇まいの、曹洞宗のお寺である。
e0345320_23444516.jpg
e0345320_23452865.jpg
ここに北斎が描いたのは、八方睨みの鳳凰、つまり、天井下のどの位置から見ても自分の方を見ているような巨大な鳳凰の絵である。
e0345320_23474557.jpg
e0345320_23481951.jpg
鴻山が提供した潤沢な資金のおかげで大変質のよい絵の具を使うことができ、そのために、描かれてから170年を経ても、大変鮮やかな色彩が見事に残っている。やはり優れた芸術が生まれるには、経済的な余裕が必要な場合が多い。もちろん、カネがあるだけではダメなのであり、鴻山と北斎のようなパトロンと芸術家の関係は理想ではないか。

実はこの岩松院、この巨大な天井画だけでなく、実はほかにも見どころがあるのだ。まず本堂に向かって右手にある、蛙合戦(かわずがっせん)の池。
e0345320_23531596.jpg
随分と草深くて分かりにくいかもしれないが、さほど大きくない池である。春には多くの蛙がここで産卵するため、あたかも合戦の様相を呈するという。江戸時代に、この場所で蛙合戦を見ながら俳句を詠んだ人がいた。もうお分かりであろう。「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」。そう、あの小林一茶である。この句は、一茶54歳のときに授かった病弱な長男、千太郎への激励の意味で読まれたらしいが、千太郎は生後1ヶ月足らずで他界。その後一茶はできた子供のすべてと、ついには妻まで失ってしまうのだ。

岩松院の本堂にはまた、福島正則の遺品も展示されている。それもそのはず、彼の遺骨はこの寺に葬られているのだ。そうするとやはり、途中で通りかかった荼毘の地というのは本当だったのである!!本堂に向かって左手奥には霊廟がある。行ってみると、古い石塔を覆うように小さな堂がその周りに建てられたものだということが分かる。
e0345320_00021341.jpg
e0345320_00031733.jpg
福島正則は、関ヶ原の後、その功績によって50万石弱の広島藩の藩主となったが、江戸時代に入ってから城の改修をしたところ、幕府のお咎めを受け、石高わずか4万5000石の信濃の地に転封されたという。やはりもともと豊臣の中心的な家臣ということで、徳川から疎んじられたものであろうか。武将の運命も人様々である。だが、死後400年近く経っても、終焉の地でこれだけ手厚く祀られていることは、素晴らしいことではないか。

岩松院には多くの観光客が訪れるが、文化財好きはここだけで満足してはいけない。ほんの数百m歩いたところに、観光客があまり訪れない、だが絶対お薦めの寺があるのだ。その名は浄光寺。地名を取って雁田薬師とも呼ばれる。仁王門のところから見上げるとこんな感じ。鬱蒼とした山の雰囲気だが、寺の名前の通り、心が浄化されるような気がする。
e0345320_00124780.jpg
このお寺が面白いのは、仁王門で案内用のスイッチを押すと、境内何ヶ所かに設置されたスピーカーから録音された音声が流れ始め、この寺の歴史や文化財についての説明をしてくれるのだ。それがかなり長いので、門から本堂までえっちらおっちら登って行っても、また先の方にある別のスピーカーで説明を聞けて、移動時間を大変効率的に活用できる。私も全国いろんなお寺に詣でてきたが、このような効率的なアイデアは初めてだ(笑)。

そして石段の先に見えてくるのは、重要文化財の薬師堂。1408年の建立である。檜皮葺で、ギュッと上部を絞ったプロポーションがなんとも洗練されている。この山の中、静かに風雪に耐えてきた建物である。きっとこの景色、600年間変わっていないのではないか。あっ、よく見ると後ろに避雷針が立っていますね。あれだけは600年も経っていないと思う(笑)。
e0345320_00195909.jpg
e0345320_00214720.jpg
このように、それほど多くの人が訪れないものの、本当に素晴らしい文化財は、日本のあちこちにある。そのすべてが、本当に貴重な歴史の遺産である。我々が21世紀の社会を生きて行くためにも、歴史に学び気持ちをリフレッシュすることは必要なことである。

川沿いのラプソディ長野編、次回は松本の街歩きです。乞うご期待。

# by yokohama7474 | 2016-08-24 00:26 | 美術・旅行 | Trackback | Comments(0)
前項でご紹介した群馬県立近代美術館での鴻池朋子展を見たあと、長野県に入り、同県東部に位置する佐久市を訪れることとした。長野県の地図やガイドブックを見ていると、ここには山や川(海はありませんが 笑)といった豊かな自然だけではなく、数々の興味深い歴史遺産が存在していることに気づく。強烈な個性を持つカリスマ領主がいて文化を奨励したというイメージではないが、諏訪大社や善光寺という全国でもほかに例のないユニークな社寺がある上、太平洋側と日本海側を結ぶ交通の要所でもあり、古くから文化が連綿と続いてきた場所である。近代に入ってからも教育に力を入れ、その流れが今日も息づく。それゆえ、長野県には何度行っても新しい発見があって楽しいのだ。今回私がこの佐久市を選んだのは、ここに五稜郭があると本で読んだからだ。な、なに?五稜郭と言えば、幕末に榎本武揚が立てこもった、あの五稜郭ではないのか。あれは函館であって、長野県ではないはず。一体どういうことだろう。いぶかしみながら現地に到着した私の目には、このような表示が映った。
e0345320_21282170.jpg
そうなのだ。五稜郭とは要するに五角形の星型城塞のことを言うのであって、それは函館とこの佐久の龍岡城と、日本に二か所存在したわけである。駐車場の脇に「五稜郭であいの館」という休憩所があって、そこに少し資料が展示してある。往年の様子を復元した模型も見ることができて、大変に興味深い。
e0345320_21365768.jpg
e0345320_21363123.jpg
この城を建てたのは、三河奥殿藩主の松平乗謨(のりかた)。なぜ三河の殿様がここ信濃の地に城を建てたかというと、この龍岡という土地も奥殿藩の領地であって、実は領地面積はこちらの方が三河より大きかったという。江戸時代も押し詰まった1863年、幕府から信州への移転と陣屋(いわゆる本格的な城郭ではない)の建設について許可を得た松平乗謨は、西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいたため、この五稜郭を作ることにしたとのこと。1867年4月に御殿などの完成を見たが、ここで時間切れ。時代は明治へと移って行ったのである。なので、「日本で作られた最後の城」であるらしい。なるほど、昭和以降には古い城の復元はあったし、マニアックな趣味人が個人で小さな城を作った例も私は知っているが(笑)、本物の殿様が作らせた本物の城となると、なるほどこれが最後なのだろう。因みに函館の五稜郭の竣工は1864年、完成は1866年なので、この龍岡城はほぼ同時代の建造。立派なものだ。
e0345320_21592201.jpg
往時の遺構はほとんど見ることができないが、その鋭い角度から一見してすぐ分かる堀だけは、かなりの部分が残っていて、なんとも情緒がある。
e0345320_21554841.jpg
e0345320_21565842.jpg
入り口にある古い説明板にも、地元の人の誇りが感じられる。青く塗られた部分が堀の現存する箇所であろう。全体の半分以上である。
e0345320_21574820.jpg
城の敷地内に入ってみると、なんとそこは小学校。ちょうど夏休みなので閑散としていたが、ここで学ぶ子供たちは、いやでも歴史に敏感にならざるを得ない。さすが教育熱心な長野県。城址の有効な活用方法を知っている。でも、堀に囲まれていると、少し圧迫感があるかな(笑)。
e0345320_22020079.jpg
なんでもこの学校の校章は、星型城郭であるそうだ。なるほど。あっ、よく見ると、鳥小屋まで五角形だ!!(笑)
e0345320_22024680.jpg
実はこの場所には当時の遺構がひとつだけ残っており、それは台所と称する単純ながら比較的大きな櫓なのであるが、この日は日差しが強く、時間も限られていたので、校庭を横切ってその建物を見に行くことはしなかった。このような建物で、予約すれば内部の見学もできるという。また次回トライしたい。
e0345320_22235048.jpg
尚、この龍岡城五稜郭を築城した松平乗謨は明治の世になって大給 恒(おぎゅう ゆずる)と改名し、日本赤十字の前身である博愛社の設立に尽力したという。進取の気鋭に富んだ立派な人であったのだろう。
e0345320_22294711.png
さてこの龍岡城五稜郭からほんの数百メートル進んだところにも、文化財好きには見逃せない素晴らしい場所がある。新海三社神社(しんかいさんじゃじんじゃ)。佐久地方の総社であり、古来、源頼朝や武田信玄といった武将たちの信仰を受けた由緒正しき神社である。境内は森閑として訪れる人も少なく、心の底まで澄んで行くような思いに囚われる。
e0345320_22311521.jpg
e0345320_22342520.jpg
e0345320_22345636.jpg
ここには2棟の重要文化財の建造物がある。まず、東本社社殿。小ぶりだがなんともかたちのよい建築で、室町時代のものとされている。
e0345320_22383794.jpg
そしてその真後ろに聳えるのが、三重塔だ。神社に三重塔とは奇異にも思われるが、日本は明治まで神仏混交であり、神社と仏閣の明確な区別がない場所が多かったし、いわゆる神宮寺というものが存在した。だが明治の神仏分離、廃仏毀釈の嵐の中で、多くの文化財が失われたと聞く。この三重塔は神社の宝庫として利用されたので、破壊を免れたのだそうだ。村の人たちの素朴な信仰が貴重な文化財保存の原動力になったのだろう。これも室町時代の建築で、美しいかたちをしている。
e0345320_22425896.jpg
e0345320_22433360.jpg
そして正面からこの二つの堂塔を見るとこんな感じ。何百年もコンビを組んで来た歴史の生き証人だ。
e0345320_22443963.jpg
本当に心が洗われるような場所なのだが、近隣には「ラジオ体操 朝6:30から 場所 : 新海三社神社」と手書きの貼り紙がしてあったりして、地元の人々から親しまれている神社なのだなと思う。夏の早朝、オゾンを胸いっぱいに吸い込んで室町時代の建築の前でラジオ体操をする。素晴らしいではないか。

と、このような素晴らしい場所を2ヶ所訪れた後、私は松本に移動したのだが、実は本当はこの場所でほかに見たいものもあったのだ。佐久市にあるもうひとつの重要文化財、旧中込学校校舎である。調べてみるとここは1875年末の竣工なので、あの有名な松本の旧開智学校よりも数ヶ月早く、現存する日本最古の小学校であるらしい。学生発布が1872年なので、これらの学校は本当にその直後にできているわけで、日本の近代教育の本当に最初期の遺産である。このあたりにも長野県の高い教育レヴェルが見て取れる。そのほかにも、やはり重要文化財指定の、六地蔵を刻んだ石灯篭や、境内で発掘された武田信玄の遺骨を埋めた墓所がある(その真贋を争って国との間で訴訟沙汰にもなったという!)寺など、佐久市にはまだまだ興味深い場所がいっぱいだ。また日を改めてそれらの場所も巡ってみたい。あ、それから、佐久市には、「日本で最も海から遠い場所」というのがある。看板の写真は撮りそこねたが、海から遠く離れた山の中、歴史が息づくのが佐久市なのである。

高速道路に向かう私たちの現前に、浅間山がその雄大な姿を現す。様々な人間の営みは、このような雄大な景色のもとで展開されてきたのだ。でもちょっと、電線が邪魔だなぁ(笑)。長野の旅は続きます。
e0345320_23084498.jpg

# by yokohama7474 | 2016-08-22 23:10 | 美術・旅行 | Trackback | Comments(0)
e0345320_20424503.jpg
別項で採り上げた演奏会を聴きに松本まで出向く際、これも毎度恒例のことなのであるが、せっかくだからどこかほかの場所にも寄って行こうと思い立った。そしてまず最初の行き先として決めたのは、高崎市にある群馬県立近代美術館。そこで開かれている鴻池朋子(こうのいけともこ)の個展を見たいと思ったものだ。鴻池は1960年秋田生まれ。現在国際的にも注目を集めているアーティストである。
e0345320_20513890.jpg
私は2009年に東京オペラシティで開かれた彼女の個展、「インタートラベラー」を見て、その独特の世界、つまり、一種不気味かつ呪術的でありながらも、決して難解でない旺盛な生命力の表現に、大変興味を持ったものであった。その後個展に接する機会はなかったが、ちょうど去年、神奈川県民ホールのギャラリーで鴻池の新しい個展が開かれているのを知った。だが残念なことに、そのときには出かけていくタイミングがなくて結局見逃してしまい、残念な思いをしていた。ところが最近調べて分かったことには、群馬県立近代美術館で現在開催中である。しかも、よく見ると副題が、横浜ではただの「根源的暴力」であったものが、今回はそこに「Vol.2 あたらしいほね」と加わっている。ということは、横浜での展覧会からも少し追加・変更があるのかもしれない。いずれにせよ、会期は8/28(日)までで、今回を逃したら次はいつ個展を見られるか分からない。というわけで、高崎まで出かけることとした。

群馬県立近代美術館は、高崎市の中心からは南に外れた場所にある。群馬県立公園・群馬の森という広大な緑地の中だ。すぐ隣にはつい先月リニューアルオープンした群馬県立歴史博物館がある。駐車場から美術館に向かう道は、このように緑と水が気持ちよく整備されている。また展覧会の看板も戸外に立っていて、色彩の乱舞で被写体が何であるのか判別しがたいが(笑)、一体なんだろうと思わせてくれて、よいではないか。
e0345320_20295974.jpg
e0345320_21081551.jpg
この美術館がいつできたものか予備知識なく訪問したが、非常にモダンかつ広大な建物であり、大変に贅沢な展示空間を持っている。このような現代アートに接するには最適の場所であろうと思う。日本の地方には、立派な美術館を持っているところが多いが、ここはまた素晴らしい美術館だ。これがコンクリート打ちっぱなしの内部の様子。奥の段には既にして鴻池の作品が並んでいるが(ここまでは無料観覧できてしまいます 笑)、展覧会場は左の壁の奥に入ったところである。
e0345320_21114162.jpg
この展覧会で嬉しいのは、フラッシュなしであれば展示作品の写真撮影が可能であること。以前、村上隆の展覧会の記事でも書いたが、ネット社会の現代においては、芸術作品といえどもイメージの複製や、場合によっては一定の加工を避けられない。であれば、オリジナリティの尊重方法に対する考え方を変え、鑑賞者が芸術作品の写真を撮影して、自らの感性でアートを反復して楽しむことを認める方が、アーティスト自身にとっても得策なのではないだろうか。と勝手に整理して、写真をパチパチ撮らせて頂いたので、せめて鴻池芸術の一端でも、この記事でお楽しみ頂ければと思う。

2009年に見た展覧会の記憶で、鴻池の創り出す世界の不思議な魅力には、ある程度のイメージがあった。そこでは動物が闊歩し、大地がその存在感を示し、生きとし生けるものの持つ命が、時にはグロテスクなかたちを取りながらも、躍動しているのである。今回も会場に入ってすぐにそのイメージが立ち上がってくる。そこにはアーティスト自身の言葉もあちこちに展示されていて興味深い。まず、「ゆっくりと停止」という文章だ。

QUOTE
もし仮に再び元に戻ったとしても
同じものではいられない
四年半前のある日 地球の振動を感じた私の体は
そうつぶやいてゆっくりと制作を停止していった
あれもこれも違うと全感覚が否定しはじめたからだ
しばらくすると 私の目はなにも見なくなり
手はまるで描かなくなった
元の生活をトレースするには
まったく違う体になってしまったのだ
これには驚いた
UNQUOTE

ここで述べられているのは言うまでもなく、2011年の東日本大震災の際にアーティストを襲った無力感であろう。今回の展覧会には、この散文に対する補遺というべき文章が展示されていて、昨年の横浜の展覧会からも展示内容が変化していることが明記されている。またこれは、アーティストが自身の言葉で語る最上の作品解説である。
e0345320_21311000.jpg
今回展示されている作品には、つなぎ合わせた牛革を使用したものが多い。それについての理由等も作者自身の言葉で説明されていたが、私の見るところ、上の鴻池の文章の最後にある「美術館の本性とは狩りのような場」という言葉が、革という有機物のイメージとぴったりで、いつも死と隣り合わせの生が巧まずして表現されていると思う。牛革に魚を描いてしまうこの生々しい感性。
e0345320_21395542.jpg
これは地球の奥から覗いている不思議な顔。2009年の展覧会でも、銀色に輝く大きな顔があったのを思い出す。目も鼻も口もあり、ということはつまり生命を示す「表情」が出てくるべきものが「顔」であるのに、この顔の無表情なこと。地震という、自らにとってはほんのちょっとした活動によって、人間に甚大な損害を見舞った地球の、茫然とした表情であろうか。
e0345320_21433382.jpg
彼女の創り出す空間はこのように、決して暗い情緒的なものではない。だがそこにはまぎれもなく、何か人間の根源的なものに訴えかける不思議な力があるのだ。狼をはじめとする動物たちは彼女のメジャーなモチーフであるが、これらのイメージは「可愛い」と言いうる一方で、死んでいるのか眠っているのか分からない点、仮想の死を生きているという逆説的言辞で形容したくなる。
e0345320_21485931.jpg
e0345320_21491443.jpg
彼女自身、冒頭の言葉の中でインスタレーション触れているが、会場ではプロジェクターによって壁に映される冬の映像や、テント状の空間の中に投影される狐らしき動物の影絵などが、ノスタルジックな思いを誘う。
e0345320_21533226.jpg
e0345320_21534641.jpg
そしてメインの大きな展示室には、このような巨大な垂れ幕状の作品が。これも牛革を利用した巨大キャンバスである。ここで描かれた毒々しい生命活動は、圧倒的な力で見る者に迫ってくる。
e0345320_21550231.jpg
この展示室にはほかにもいくつも中規模の作品が並ぶ。本物の鳥の羽の塊を大量に使ったり、巨大な和服をかたどった牛革キャンバスに、滝のような、あるいは血管のような模様を描いたり。素晴らしいヴィジョンに圧倒される。
e0345320_21571224.jpg
e0345320_21573051.jpg
そして最後の展示室には、鉛筆で描いたデッサンや版画が並び、小型鴻池ワールドを展開する。実在の動物であれ空想の動物であれ、いずれも確かな存在感に溢れている。展覧会全体のタイトルである「根源的暴力」とは、最初は地震のことかと思ったが、ここまで展覧会を見てくると、生きることそのことも意味しているのではないかと思われてくる。動物は生きるためにほかの命を奪うが、それこそ根源的暴力。人間世界ではそうはなっていないものの、彼女の作品を通して鑑賞者は、人間もその一部をなしているこの世界に存在する「根源的暴力」の恐ろしさと尊さに気づくのである。
e0345320_22000816.jpg
e0345320_22011457.jpg
e0345320_22012730.jpg
e0345320_22014330.jpg
このように鴻池ワールドを堪能したわけであるが、どの作品も強烈な存在感があるのに、不快感を抱かせることがない。説教臭さも皆無である。従って今後彼女の一般的な知名度は上がって行くものと期待しよう。次の個展が待ち遠しい。

ところで東京に戻ってから、なんの気なしに手に取った一冊の本に、面白い情報を偶然見つけた。手に取ったのは、書棚に積んであって未だ読んでいない、磯崎新の建築談義シリーズ全12巻のうちの1冊。イタリア、マントヴァのパラッツォ・デル・テについての巻。私はこの宮殿にあるジュリオ・ロマーノの壁画が大好きで、実際に現地を訪れたこともあるのだが、このシリーズの面白いところは、建築家の磯崎新が、様々な建築と、それに関連することしないことに言及してその博識ぶりを発揮することなのである。この巻の冒頭では、なぜかリチャード・マイヤーという建築家との交流の話になって、そのマイヤーがある公共建築を手掛けていたとき、自分もやはり公共建築を手掛けていたとある。その公共建築こそ、ほかならぬ群馬県立近代美術館なのである!!1974年、実に40年以上前の作品だが、とてもそうとは思えないモダンさである。恐れ入りました。今後地方の美術館を訪れるときには設計者をちゃんと調べることとしよう。
e0345320_22230071.jpg

# by yokohama7474 | 2016-08-21 22:24 | 美術・旅行 | Trackback | Comments(0)
e0345320_23341844.jpg
先般、公開中の映画をざっと調べているときに、この映画のタイトルが目に入った。おぉこれは、J・G・バラード原作の、あの「ハイ・ライズ」ではないか。原作そのままの題名にしてくれてよかった。もしそうでなければ、見逃していたかもしれない。しかも、主演はトム・ヒドルストンにジェレミー・アイアンズ。これは必見だろうと思ったのだが、映画館の予告編やチラシでは、この映画を見た記憶がない。調べてみると、あろうことか、全国で5つの劇場でしか上映されておらず、東京でも単独館上映である。まあ今時J・G・バラードだなどと喜ぶ人もほとんどいないということだろうか。8/6(土)に公開されたので未だ二週間しか経っていないが、危ない危ない、この手の映画には早く行っておくに限ると思って出かけてみたところ、あにはからんやかなりの混雑。もちろん、上映している劇場が小さいせいもあるが、東京の文化度をなめてはいけない。願わくは、もう少し上映を継続して欲しいものだ。

なぜ私がこの映画の原作を知っているかというと、もう随分前に読んだからだ。なぜ読んだかというと、答えは簡単。同じ作家の原作による「クラッシュ」を鬼才デイヴィッド・クローネンバーグが映画化したのを見て(当時、「裸のランチ」「M・バタフライ」と問題作を立て続けに世に問うていた)、この奇妙な作品世界を作り出したJ・G・バラードとはどんな作家だろうと思い、購入したのがこちらのハヤカワ文庫。もうかれこれ20年くらい前になるわけである。
e0345320_23565943.png
今調べてみると、J・G・バラード(この呼び方が響きがよくて好きだが、本名はジェームズ・グレアム・バラードだそうだ。意外と普通の名前 笑)は、1930年生まれで2009年没なので、「クラッシュ」が映画化されたときには未だ現存作家であったわけだ。「クラッシュ」は、自動車の破壊に性的興奮を覚える人たちの話で、笑えるような恐ろしいような内容。でも、機械に淫するある種のモダニズムをあのようなかたちで表現する点、なんともユニークだと思ったものであった。そしてこの「ハイ・ライズ」は、上記のような超高層マンションにおいて上層階と下層階で対立・紛争が起きるという、これまたシュールな内容で、この原作を読んだときのなんとも言えない居心地の悪さは、絶対に忘れない。細部にリアリティがあるものの、全体が夢の中の話のようである。実は、前項で「都市と都市」という作品を採り上げた1972年生まれの小説家チャイナ・ミエヴィルも、尊敬する作家のひとりとして同じ英国のJ・G・バラードを挙げており、なるほどと理解できる反面、私の個人的な感覚では、やはりバラードの研ぎ澄まされた簡潔さの方が、饒舌なミエヴィルよりも数段上であると思うのだが、いかがなものだろうか。

この小説の発表は1975年。当時でもニューヨークとか香港には超高層マンションは既にあったと思うが、バラードの出身国である英国には、ロンドンですら未だにそれほど高いビルは存在しないし、ましてや住居となると、ほとんど(全く?)ないのではないか。従ってここで描かれる超高層マンションの生活は、何やら近未来じみたまさにSF的な設定であり、それゆえに、生活の場として人々が毎日出入りする場所でありながら、上層階と下層階で違う世界が混在する不思議な場所としての超高層マンションは、シュールな感覚に満たされている。そのような原作のシュールさを、よく映像化していると思う。尚、ここで描かれている時代設定は、車の外見からも、原作が描かれた1970年代のようだ。従ってインターネットも携帯電話も、ここには登場しない。

私が劇場に行ったときには、特典でポストカードがもらえたのだが、そのデザインはこれだ。
e0345320_00293415.png
主人公、医師ロバート・ラングを演じるのはトム・ヒドルストン。このブログでも、彼の出演作「クリムゾン・ピーク」をご紹介したし、「マイティー・ソー」シリーズの悪役ロキでも知られるし、ジム・ジャームッシュの近作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」でも忘れられない演技を披露していた。1981年生まれなので今年35歳。これから様々な役を演じてますます映画を面白くしてくれる逸材であろうと思う。プログラムの紹介欄を見て知ったが、彼は貴族の血筋を引いていて、しかもケンブリッジを首席で卒業しているという!! ご覧の通り引き締まったからだで、オバサマたちの視線を釘づけという感じであろう。だがその一方で、巧まざるユーモアも表現できるし、段々歯車が狂って行く閉鎖社会の中で、その狂気を楽しむかのような達観した態度が、医師ラングの演技としては万全だ。
e0345320_00240944.jpg
一方、このマンションを設計した建築家アンソニー・ロイヤルを演じるのは、今や英国の宝の域に近づきつつある、ジェレミー・アイアンズだ。
e0345320_00304233.jpg
この人も幅広い役を演じているが、以前のカフカ役や「ロリータ」(1997)での演技などから、不思議でシュールなキャラクターを演じる才能はよく知られている。バットマンの執事役よりは、よっぽどこちらの方が似合っている。もちろん1948年生まれだから既に70近い年齢に至ってはいるものの、端正な顔立ちと贅肉のない痩躯は変わりなく、役者の中にも、こんな風に年を取ることのできる人はそうはいないだろう。

この映画には、女優もあれこれ出てはいるものの、正直なところ、あまり印象には残らない。もともと女性の描き方にあまり興味のない原作であり、演出であると言ってしまうと言い過ぎだろうか。そもそも、顔も誰が誰だか時々分からないこともあり、後半で女たちが共同で作業するような部分にも、何か新しい展開というイメージはない。実際この映画は、ストーリーテリングとしてはちょっといかがなものかという点もあり、多くの人が難解で退屈と思うであろうが、それにはこのような女優の使い方も影響しているかもしれない。原作から外れたキャラクターの想像には、作り手はあまり興味がないのかもしれない。

ただ、この映画で提示されるヴィジュアル・イメージは、なかなかに面白い。1970年代の設定ということで、マンションのあちこちも何かガッチリ大柄にできているように思われる。上の写真でもある通り、テラスは荒い模様の石でできていて、ロンドンに実際にあるバービカン・センター(ロンドン交響楽団の本拠地であるホールや劇場、ギャラリー等のある場所だが、居住棟もある)を思い出したものである。なのでこの映画は、ストーリー展開が何を意味しているとか、登場人物たちの行動原理はこうだろうとか、英国の階級社会がどうできているとかいうことはあまり考えずに、シュールな雰囲気とビジュアルを楽しめばそれでよいのではなかろうか。下手にストーリーを深読みすると、大変退屈になるものと思いますよ(笑)。こんなシーンでは、感性が試されるような気がする。
e0345320_00592825.jpg
この映画の監督、ベン・ウィートリーは私にはなじみのない名前だが、1972年生まれで、最近活躍が目立つ英国の監督であるとのこと。また、製作のジェレミー・トーマスは聞いたことのある名前だと思ったが、「戦場のメリークリスマス」や、「ラストエンペラー」「シェルタリング・スカイ」「魅せられて」等のベルトルッチ作品、また「クラッシュ」を含むクローネンバーグ作品や、上で触れた、トム・ヒドルストン出演のジム・ジャームッシュの「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」も製作している。大製作者ではないか。
e0345320_00581414.jpg
最後に、この映画に関連する音楽と美術について。冒頭すぐに髭を生やしたラングがサヴァイヴァル生活を送る様子に使われているのは、バッハのブランデンブルク協奏曲第4番。リコーダーが明るく楽しく、凄惨な状況とのギャップを強調する。この音楽は終結部近くでも、同じ場面に回帰するときにも使われていた。それから、建築家ロイヤルの住まうペントハウスには様々な美術品が展示されていて、詳細映像は出てこないが、ひとつは明らかだ。壁面を飾る大作は、ゴヤの「黒い絵」の中の「魔女の夜宴」である。
e0345320_01085494.jpg
この作品はプラド美術館に収蔵されているので、ここで出てくるのは当然複製ということになるが、ラングが「あれって美術館にある絵だよね」と言うセリフがあり、その意図はよく分からない(ほら、だからストーリーを考えてはいけないと言ったでしょう 笑)。もっともその言葉は、エレベーターのすぐ左にかかっていた作品について出たもののようでもあった。そちらはよく見えなかったが、マックス・エルンストではなかったろうか。もし再度この映画を見ることがあれば、再確認しよう。

J・G・バラードの作品世界に久しぶりに触れることができたことはなかなか楽しかったが、今回調べて初めて知ったことを恥を忍んで告白すると、実はスピルバーグが映画化した「太陽の帝国」の原作もバラードなのだ!! 自伝的な小説らしい。なるほど、なかなか一筋縄ではいかない作家である。短編集でも買って読んでみたくなった。
e0345320_01170625.gif

# by yokohama7474 | 2016-08-21 01:17 | 映画 | Trackback | Comments(0)

川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。


by Crop Stock