セールスマン (アスガー・ファルハディ監督 / 原題 : Forushande)

e0345320_22481050.jpg
最初にお断りしておくと、この記事で採り上げる映画は、もともと大々的に公開されていたわけではなく、私が見たときには既に単館上映となっていたが、それも既に終了していて、今この瞬間は見ることが叶わない映画である。だがそれでも、将来的にはネット配信や DVD / BD などで鑑賞の手段があるであろうから、ここに感想を記しておくのもあながち意味のないことではないだろう。もちろん映画好きの方なら既にご存じの映画であろうし、上のチラシにもある通り、今年のアカデミー賞で外国語映画賞を獲得しており、その前に昨年のカンヌ映画祭で脚本賞と男優賞を受賞したほか、多くの映画祭で様々な賞を得ている作品である。

まず興味を惹くのは、これがイランの映画であるということだ。イランは、国際ビジネスの観点からはなかなかに難しい国。つまり、米国の経済制裁は既に解除されているにもかかわらず、未だドル決済ができず、トランプ政権の態度もよく見えないため、ビジネスを展開するには不安定な要素が多い国なのである。とは言っても、イランからは我々にも既になじみのある大映画監督が輩出している。その名はアッバス・キアロスタミ。惜しくも昨年 76歳で亡くなったが、小津安二郎を心から尊敬すると言っていたこの監督の手腕は、国際的にも高く評価されていた。私が劇場で見ることができたのは「桜桃の味」だけであったが、なかなかブラックな面のある、一筋縄ではいかない大変な傑作であった。あとは、今調べてみて分かったのだが、「カンダハール」という面白い映画を撮ったのも、イラン人であるモフセン・マフマルバフ。なるほど、イランでは既にこのような傑作が生まれているわけで、この「セールスマン」が突然変異というわけではないわけだ。これが、この映画の監督アスガー・ファルハディがオスカーを受賞したところ。
e0345320_00025829.png
題名の「セールスマン」(原題の "Forushande" は、恐らくはこの言葉を意味するペルシャ語の、アルファベット表記であるように思われる) は、アーサー・ミラーの有名な戯曲「セールスマンの死」(1949年作) に由来する。この映画の主人公である夫婦は、ともに地元のアマチュア劇団に所属して、この戯曲の舞台上演に連日出演している。その上演期間中にあるトラブルが起こるので、映画の中では物語の進行とともに「セールスマンの死」の舞台が何度も登場する。その意味で、戯曲「セールスマンの死」はこの映画の発想となんらかの関係があるはずだ。私は若い頃素人演劇にかかわったこともあるので、この戯曲のことは当然よく知っている・・・はずなのであるが、恥ずかしながら、実際の上演を見たことはなく、また、以前手元にあったはずのアーサー・ミラー戯曲集も、今書棚に見つからない。なので、残念ながら「セールスマンの死」について知ったように語ることができない。そこでプログラムに掲載されている監督の言葉をここで要約すると、「セールスマンの死」は、ある社会階級が崩壊して行く時代の社会批判であり、急速な近代化に適応できない人々が崩壊する様子を描いている。その状況は今のイランの状況と似ており、急速な変化における選択肢は、「適応」か「死」である。本作の主人公であるエマッドとラナという夫婦は、舞台上でもセールスマンとその妻を演じていることから、実際の生活においても、セールスマンとその家族に直面して、運命の選択を迫られる。・・・なるほど、そういう発想でできた映画なのである。その点についてのイメージを持たないと、この映画にすっきりしないものを感じて本質を見失うことにもなりかねないだろう。ところでアーサー・ミラーはよく知られたように、一時期マリリン・モンローと結婚していて、彼女のために「荒馬と女」の脚本を書いている。このあたりについて語り始めると、またぞろ順調に脱線してしまうので (笑)、ここではモンローとミラーのツー・ショットだけ掲げておこう。
e0345320_23482586.jpg
この映画の感想を簡単に述べると、登場人物同士のかなり微妙で複雑な関係をなかなかうまく表現していて、面白い映画だと思う。ストーリーそのものだけ見ても、先を読ませない展開であり、その意味でもドラマとしての完成度は評価できる。その一方で、手持ちカメラを多用して動きのある映像が若干雑な作りに思えることもあって、緻密さを感じさせることがあまりない。そのために、せっかくうまく作られたドラマ性が、もうひとつ観客の心をわしづかみにしないもどかしさがあるのではないか。正直、主人公の男が、トラブルから一体何を感じ、それに対してどのように対処したいのか、分かりにくい作りになっていると思う。だが、そのような欠点を認めても、私としてはこの映画を高く評価したい。それは、舞台と実生活の間に存在する共通性と相違性を、生のままに描き出したというその創作態度によって、なにか人間の本質的なところを突いているからである。この夫婦は上の写真の夫婦とは異なり、世界的な意味での地位も名声も富もないが、様々な感情を持ち、自らが属する社会の中における確固たる位置を持っている。
e0345320_23570243.jpg
夫婦の間に起こるトラブルとは、こういうものだ。それまで住んでいた建物が、隣の土地の工事のために傾いてしまい、中古マンションへの転居を余儀なくされる夫婦であるが、ある日夫が帰宅してみると、妻が額から血を流してシャワーで倒れている。彼女がシャワーを浴びている間に呼び鈴がなり、てっきり夫だと思った彼女がロックを解除してシャワーに戻ったところ、入ってきたのは別の人物で、その人物に暴行を受けてしまったのだ。実はそのマンションの以前の居住者は、部屋に男を入れていかがわしい商売をする女性 (その女性は画面に登場しない点、評価したい) で、事件はどうやらそのことと関係しているらしい。二人はつらい思いを抱えながらも「セールスマンの死」への出演を続け、夫は真相解明に向けてひとりで動き出す、というもの。私が評価したいのは、この夫婦それぞれの人間像。夫は実は高校教師であり、生徒からはかなり慕われている。また、最初のシーンでは、傾いたマンションからの脱出の際、寝たきりの人の移動に手を貸すなど、良心を行動で表すタイプ。一方妻の方は、かなりおとなしい性格であり、自分がどんな被害に遭ったのかを語ろうとはしない (よって、彼女の受けた暴行が、ただ殴られただけなのか、性的なものを含んでいたのかは、最後まで明らかにならない)。後半に至って、その優しい性格から神経が参ってしまうシーンも出てくる。そしてこの 2人の間には、お互いへの遠慮に起因する気まずい雰囲気がつきまとい、少なくとも夫婦で揃って犯罪行為を糾弾するということにはならない。ほら、こんな感じで妻はこっそり夫の様子を見るのである (笑)。
e0345320_00175578.jpg
面白いのは、正義感が強く頼りがいのある男として描かれた夫が、犯人憎しの感情にとらわれ、かなり暴走してしまうという点である。これこそ人間の赤裸々な姿であり、これほど極端なケースでなくとも、誰にでも日常生活で起こりうることではないか。そして最後の展開は息詰まるものであり、ドラマは一気に渦を巻く。ネタバレはしないが、私はこのようなシーンを思い出すと、胸が苦しくなってしまうのだ。往々にして悲劇と喜劇が背中合わせになっており、難局を乗り切ったと思ったら次の難局が待っているのが人生。いつ何時、あなたがこの老人のように、ちょっとした過ちから危機的な状況に陥らないとは限らない。心してこのシーンを見る必要があるのである。
e0345320_00225045.jpg
その他印象に残ったシーンを挙げると、子供のいない夫婦が友人の息子を預かって、3人で夕食を取るシーンである。このメガネの少年がなんとも可愛らしく、この陰鬱なドラマの中で、何かちょっとほっとするシーンであるとともに、家族というもののあるべき姿を、疑似家族を通して表現している優れたシーンでもある。この少年がイノセントでピュアであればあるほど、現実世界で起こることの醜さが浮き彫りになる。そのようなことを、陳腐になることなく描き出す監督の手腕は、確かなものであると思った。可愛いでしょ? (笑)
e0345320_00301863.jpg
繰り返しだが、この映画の展開自体は洗練の極という感じではないので、流れの悪い映画だなと思われる方もおられよう。だが、「セールスマンの死」を題材として使用した点を含め、この映画のヴィジョンは非常に明快であるので、細部の不備にとらわれて映画全体の表現力を見ないことになると、大変にもったいないと思う。イランという、我々に日常なじみのない国から届いたこのような人間社会へのメッセージを、真摯に受け止めたいものである。また、小規模な公開であったとはいえ、このような映画を見ることができる東京の文化的環境を、誇りに思いたい。

# by yokohama7474 | 2017-07-27 00:37 | 映画 | Comments(0)

キング・アーサー (ガイ・リッチー監督 / 原題 : King Arthur : Legend of the Sword)

e0345320_10340645.jpg
このブログで映画を採り上げる際には、つまり私が劇場で映画を見る際には、いくつかの見たいと思うポイントがあって、その中でも最大の要素は監督であるということは、ここで映画関連の記事を読んで頂いている方にはご理解頂けよう。例えばこの作品は、監督がガイ・リッチーであるがゆえに、私にとっては必見の作品であったわけである。この監督の作品としては、2015年12月 2日の記事で「コードネーム U.N.C.L.E.」を採り上げ、その際に私のこの監督への敬意を明確に表しておいたのであるが、今自分で読み返してみて、ちょっと興味深い表現を発見した。それは、その映画の入りがよくないことに触れた後の、「この監督の次回作、大丈夫だろうか・・・」というくだり。いや、大丈夫。ガイ・リッチーは無事、この新作を撮って世に問うた。だが。だがである。封切から 3週間くらいでほとんどの劇場からこの作品は姿を消し、現在でも上映しているのは、東京の丸の内ピカデリーと、それから長野の長野千石劇場というところの、全国でもたったの 2ヶ所だけなのである!! ネット上の評価を見てみても、そこそこ誉めているものもあれば、手抜きだの、ストーリーに必然性がないの、本当のアーサー王伝説とは違うのと、手厳しいものも多い。もちろん映画は見る人によって様々な見方があってしかるべきだし、それが映画の面白いところだから、私は他人様の評価をとやかく言う気はない。だが、もし映画を文化的文脈に沿って作家主義の立場で語るなら、ガイ・リッチーこそは現代における代表的な監督と位置づけ、何はともあれ劇場にかけつけるべきであろう。なので私は、どんな映画館か全く知らない長野千石劇場さんの英断を支持するし、東京の方には丸の内ピカデリーに駆けつけて欲しいのと同様、長野及び中部地方の方には、この作品が上映されているうちに千石劇場に駆けつけて欲しいと言わせて頂こう。

さてこの映画についての基本を確認しておきたい。題名の通り、イングランドの伝説であるアーサー王の物語。この伝説はもちろん広く人口に膾炙したものであり、これまでにも様々なイメージが創造されてきた。映画においては、「エクスカリバー」や、クライヴ・オーウェンとキーラ・ナイトレイ共演の 2004年の「キング・アーサー」という作品があったし (あ、もちろん、「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」もありました)、音楽においてはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「パルシファル」がこの伝説と関連している。英国には実際、アーサー王とその妃グイネヴィアの遺骨が掘り出されたとも言われるグランストンベリや、アーサー王生誕の地とも伝わるティンタジェル城など、興味深い場所があれこれある。そのイメージは常になにやら神秘的なのであるが、その一方で、魔術との関係や、円卓の騎士のひとりランスロットとグイネヴィアとの恋愛関係など、アーサー王関連のイメージの神秘性は、輝かしさ一辺倒の英雄の姿でない点にもあると思う。だからまず、アーサー王の人物像とはもともと複雑であるという前提で、物事を考え始めよう。因みにこれが、ほかのサイトからお借りしてきた、コーンウォール半島 (ワーグナー好きにはおなじみですね!!) のティンタジェル城の写真。我が家もロンドンから犬を連れてドライブでこの地を訪れたことを懐かしく思い出すが、なんとも荒涼とした場所であった。なんでも昨年、この地域で 5~ 7世紀のものと見られる遺跡が新たに発見されたとかで、アーサー王伝説もあながち非現実的な話ではないと、専門家もコメントしているという。
e0345320_23124101.jpg
実はこのガイ・リッチーのアーサー王シリーズは全 6作の予定で、今回が第 1作。監督のみならず、製作・脚本もリッチー本人が担当している。ということは、彼としてもこの作品に相当な思い入れがあるに違いないし、今回興行成績がコケてしまうと、この先の製作に暗雲が垂れ込めるかもしれないという由々しき事態に陥る恐れがある。これは、マドンナと結婚していた頃のガイ・リッチー。
e0345320_23232479.jpg
では映画について語ろう。私の見るところ、確かにこれは、誰もが絶賛を惜しまない傑作とは言えないと思う。また、新たなアーサー王像を作ろうという意欲が空回りしている部分も、あるかもしれない。だが、素直に見て、ここにはあの長編デビュー先「ロック、ストック & トゥー・スモーキング・バレルズ」(1998年) から変わりない彼の冴えた映像センスが感じられて、ファンとしては嬉しい限り。もっとも、デビュー時期に比べると CG も当然格段に進化しているし、それをふんだんに使えるだけの予算を取れる監督になっているという事情もあろう。だがこの 360度回転カメラのシーンで、吹っ飛ぶ敵たち、舞い上がる小石、輝く刀身というイメージが時に速く時に遅く、ときにストップモーションとなって目まぐるしく動くのを見るのは、素直に楽しい。最新のオモチャで遊んでいるという印象もあるが、それこそガイ・リッチー。そうして彼の描き出す、まさに「スラムのガキから王になる人物」の成長ぶりは、やはり只者ではない。聖剣エクスカリバーを抜くシーンも遊び心いっぱいで、私はよいと思いましたよ。
e0345320_23434162.jpg
後で知ったことには、このシーンで悪役を演じているのは、あのベッカムなのだ。大根役者と酷評されているようだが、でもこのルックスは悪役でもイケると思う。
e0345320_23391778.jpg
もしこの映画で人々の共感を得られない点があるとすると、話の流れが分かりにくいことと、それから、ナポレオンへの言及などに見られる不可解な時代設定だ。前者の点は確かに致し方ないかもしれない。登場人物が多く、敵なのか味方なのか分からない人もいるし、なぜここでこの人がアーサーを助けるか、という点で納得いかないことも起こるからだ。だが、その一方で、アーサーが度々見る父の映像や、そこに佇む異形の者の姿は極めてイメージをつかむことが容易であり、物語は何かというとそこに返って行くので、細部に惑わされることなくアーサーの言動を中心に見て行くべきではないだろか。その一方、時代錯誤的なセリフについては謎なのだが、ネット上での評価の中に、これは 19世紀の英国に舞台を変えているというのだという解釈があって面白かった。後半に出てくる政府による娼婦の暗殺は、切り裂きジャック事件だというのだ。なるほど、その解釈もありかもしれない (私は切り裂きジャックには随分と興味があり、何冊も本を読んでいるばかりか、真犯人ではないかと言われる画家ウォルター・シッカートの画集まで、しっかーりと持っている)。だが、視覚的にはどう見ても舞台の設定は 19世紀ではなく、中世以前である。なのでこの時代錯誤にもあまり囚われることなく、部分的な設定にリッチーの遊び心が発揮されている例であると私は思いたい。

どうやらひいきの引き倒しの感も否めないが (笑)、私としてはこの小ネタ満載の映画を大変楽しんだということである。大規模な作品においてこれだけ自己のテイストを明確に盛り込む手腕を持つ監督が、現在何人いるだろうかと思うのである。また、上記のベッカムはさておき (笑)、主要な役を演じたのは素晴らしい役者たちである点は特筆できよう。まず主役のチャーリー・ハナム。ハリウッド製の怪獣 vs ロボット映画「パシフィック・リム」の主演であったとのことだが、はて、全く覚えていない。だがここでの役は、まさにスラム街に育った、どこの誰とも知れない男 (決して若者といえる年ではない) が、実は前王の息子であったという設定なので、あまりメジャーな役者でない方がよいし、その一方で、高い身体能力及び、陰のある英雄を演じられる演技力が必要。その意味では適役だったと思うし、身体性に富んだ凄みのある演技を見ることができる。
e0345320_23181664.jpg
それから、亡き父、前王を演じるエリック・バナが素晴らしい。昔ハルクを演じていた若者が、今や悲劇の王を堂々と演じているのは感慨深い。
e0345320_23245960.jpg
それから私が注目したのは、魔術師マーリンの部下として、様々な魔術を操るメイジを演じるアストリッド・ベルジュ=フリスベだ。スペイン人の父とフランス系アメリカ人の母を持つため、スペイン語やフランス語にも堪能とのこと。この不思議な役を演じるには適材適所だと思った。だが、ちょっとネットで調べてみると、この役がこのシリーズで今後重要になっていくらしいことが判明する。彼女の今後の変貌やいかに。
e0345320_23314707.jpg
あと、敵の王役にはおなじみのジュード・ロウ (というファミリーネームの表記が日本では定着しているが、綴りは "Law" なので、正しい表記は「ロー」だろう)。もちろん熱演であるとは思うものの、正直なところ、この役者はこれまでのキャリアの中で、その豊かな才能に見合うだけの重要な役柄を、未だほとんど演じていないように思う。この程度の悪役では、満足したとは言いたくないのが素直な感想である。今後の作品に期待したい。
e0345320_23352940.jpg
とまあ、私としても手放しで絶賛する傑作とは思わないものの、しつこい繰り返しで恐縮ながら、ガイ・リッチーの映画としてその捻りを楽しみたいという観客にとっては、見応えはかなりあるものだと思う。願わくば、予定されている 6作が無事すべて映画化されますように!! 遠い日本の地における長野千石劇場の英断に、作り手たちも是非報いて欲しいものである。

# by yokohama7474 | 2017-07-25 23:49 | 映画 | Comments(1)

ライフ (ダニエル・エスピノーサ監督 / 原題 : LIFE)

e0345320_10305886.jpg
この映画の題名は「ライフ」、つまりは「生命」という意味である。なるほど、この地球上にあまた存在し、躍動するあの生命のことだ。つまりこの映画は、生命の尊さを訴え、この地上に平和で穏やかな日々が続くように祈ろうという内容なのか。あるいは、「ライフ」のもうひとつの意味である「生活」を意味するなら、新たな自分を求めて頑張ろうという積極的なメッセージを伝えるものなのかもしれない。または、貧しくつらい日々の生活の中にも笑いありペーソスありの、家族愛による心温まる物語なのであろうか。・・・でもそれなら、こんなポスターのはず。
e0345320_20123696.jpg
e0345320_20132689.jpg
e0345320_20143322.jpg
うーん、何かちょっと違うようだぞ。なぜなら、冒頭に掲げたポスターの謳い文句は、「人類の夢も未来も砕かれる」というなんとも物騒なものであり、どう見ても、地球上の生命や人々の生活の尊さを訴える内容ではなさそうだ (笑)。そう、正直なところ、私の意見としては、この映画の題名はよくない。私のように、ブラックで怪奇で邪悪なものを愛する人間にとっては、題名だけで映画をチェックするならば、見落としてしまうではないか。この、優れてブラックで怪奇で邪悪な映画を (笑)。実際、予告編も見る機会がなかったので、シネコンのスケジュールをチェックした時には危うくこの作品をスルーするところであったが、念のためと思って解説を見ることとし、その本質を理解すると、早速いつ見に行くかの検討に入ったのである。危うくこんな面白い映画を見落とすところであったのだ。危ない危ない。

ストーリーは簡単。6人の乗組員の乗る宇宙船が火星に到達し、そこで採取した土壌に原始的な生命体を発見する。最初はただの小さな細胞であったその生命体に対し、かつて地球で起こったような生命活動のための様々な要因を整える環境を作ると、それは徐々に活動を始める。そしてそのものは急速に成長・進化し、ついには人間を襲い始めるのである。そうして閉ざされた宇宙船の中は、逃げ場のない壮絶な闘いの場となる。この生命体を絶対に地球に届かせてはいけない!! というもの。うーん、これは面白い。もちろん昔の名作「エイリアン」とも共通する設定なのであるが、当時と比べて現在の映画技術における無重力表現のリアルさには、本当に舌を巻く。この迫真のリアリティあってこその、究極の密室ホラーなのである。
e0345320_20375472.jpg
もちろん、これからご覧になる方のためにいつもの通りネタバレは避けるが、培養によって育ってきた火星生物 (ここではカルヴィンと名付けられる) は、最初はこんな感じ。何やらイカの刺身のようである (笑)。
e0345320_20405470.jpg
さぁ、ここからいかに物語は進展するのか。白状すると、私はもう、心臓バクバクものでスクリーンに見入ることとなった。フィクションとは分かっていても、もし異星の生命体が発見されて、それが成長すれば、まさに完全な未知との遭遇であって、ドキドキするに決まっている。そして、もしあらすじを事前に知っていなくても、このイカの刺身がいずれ人間を襲うようになるという予感は、画面のそこここから漂っているので、なんとも息苦しく落ち着かないのである。この感じ、「エイリアン」を含むほかの映画ではこれまでに味わったことのないほど強烈な、何か人間の本能に訴えかける恐怖感だ。この生命体は高い知能を持っていて、道具を使ったり、あるいは何か物事が起こったらその結果として起こることも予測した上で行動を取る。最初の方こそゴキブリ退治感覚で見ていても、すぐにエイリアン的世界に突入、これはヤバいぞ、ヤバいぞ、と心の中でつぶやきつつ、拳を握りしめながら事の次第を見守ることとなる。もちろん乗組員たちの何人かは犠牲になるのだが、例えば船内に浮かぶ人物の口からゴボゴボッと出て来る血が大小の不定形な塊となって宙に漂うシーンや、生存者たちが無重力の船内を進んで逃げる際に、先に犠牲になったほかの乗組員の死骸が未だそこに浮いているシーンには、やはりそのリアリティによって、本能的な恐怖を掻き立てられたものである。だから本当にこの映画は怖い。そして、ストーリーが単純であればこそ、先の読めない展開に翻弄されてしまうのだ。ふとここで考えるのは、私の場合は題名によって本来パスすべきところを、内容をチェックしてから見ることにしたため、まだある程度の覚悟はできていたものの、その逆のケースはどうなるのかということだ。つまり、清く正しく美しい映画を好む人が、この題名だけを見て、これを清く正しく美しい映画だと勘違いして劇場に入った場合である。きっと驚きのあまり全身の毛は逆立ち、目は飛び出て、悶絶することであろう。それはまさにこの映画と同じくらい、怖い (笑)。

この映画はまた、出演している役者たちがよい。まずは、ジェイク・ギレンホール。様々な作品に出ていて、一度見たら忘れない顔だが、もうひとつ代表作と呼べるものがない (私が見ていない「ブロークバック・マウンテン」はきっと違うのだろうが) ように思う。ここでも少し特殊な役なのであるが、人生に対して少し投げやりな態度を示し、だが非常に真摯な情熱を持った人物像に仕上がっている。諦観とは表裏一体の、そこはかとないユーモアも見て取れる。この映画をこれからご覧になる方、是非彼の最後のセリフにおける、無限のニュアンスを聞いてみて頂きたい。それは、最高に悲劇的で、かつ最高に喜劇的なシーンなのである。なぜなら、人類の夢も未来も砕かれるなら、もう笑うしかないではないか。
e0345320_21135835.jpg
そして、レベッカ・ファーガソン。このブログで彼女の出演作をご紹介するのはこれで 3度目だが、スウェーデンの女優で、1作ごとに違った顔を見せてくれている。ここでは宇宙飛行士らしい凛とした強さを持ちながら、人間としての感情に溢れた難役を極めて印象深く演じていて素晴らしい。
e0345320_21214322.jpg
そして、ライアン・レイノルズ。言わずと知れた「デッドプール」の主役だが、その役にも通じる、軽口は叩くものの、いざというときには頼りになる役を演じている。ところで今調べて知ったことには、この人、一時期スカーレット・ヨハンソンと結婚していたらしい。
e0345320_21235097.jpg
それから、真田広之。もちろん、日本人の宇宙飛行士がいてもよいので自然な設定ではあるが、ここでもやはり、ハリウッド映画における「日本人」であることが前提の役で、それはつまり、寡黙で目立たないが、静かな情熱と家族への愛を持った人物ということなのである。その前提においては、なかなかよい演技を披露していると評価できるだろう。
e0345320_21295341.jpg
そして監督は、スウェーデン人のダニエル・エスピノーサ。このブログでは以前、トム・ハーディ主演の「チャイルド 44 森に消えた子供たち」をご紹介した。現在 40歳で、スウェーデン国外で国際的なキャストを使って撮った作品は、これがまだ 3作目。今回のような単純なストーリーを退屈せずに見せる手腕は大変なものだと思うので、今後も活躍の場を広げて行って欲しいものだ。
e0345320_21421321.jpg
この映画の大詰め、まさにこの異形で凶暴な地球外生命体が地球に到達するのか否かという瀬戸際の演出は、今思い出してもハラハラする。「ど、ど、どっちだ???」と叫びたくなるあの焦燥感。結末が分かっていても、もう一度見てみたい。それにしてもこの火星人カルヴィン、実に憎たらしいしグロテスクなのだが、実はちょっとかわいいところもあると思うのは私だけだろうか。そう、彼は必死に生き延びようとしているだけ。彼のライフにも、ほかの生物同様の尊い価値があるはずではないか。・・・とこう考えるだけで、既にブラックで怪奇で邪悪なものに毒されてしまっているのかもしれませんがね (笑)。

# by yokohama7474 | 2017-07-24 21:48 | 映画 | Comments(0)

チョン・ミョンフン指揮 東京フィル 2017年 7月23日 Bunkamura オーチャードホール

e0345320_21314883.jpg
一週間ほど前にジョナサン・ノット指揮東京交響楽団による熱演をレポートしたマーラーの交響曲第 2番「復活」であるが、その演奏と相前後して、その第 1楽章の原型となった交響詩「葬礼」の素晴らしい演奏を、エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団が披露した。そして、7/21 (金) とこの日 7/23 (日) の 2回に亘って、今度はチョン・ミョンフン指揮東京フィル (通称「東フィル」) によって、また「復活」が演奏されるという事態。東京は時ならぬ「復活祭り」(?) に沸いているのであるが、 せっかくならこのお祭りに参加しないと損ではないか。現在は東フィルの名誉桂冠指揮者という地位にある世界的指揮者のチョンであるが、上のチラシにある通り、彼がこのオケで「復活」を振るのは 2001年以来実に 16年ぶりとのこと。日本のオケの指揮台に立つ名指揮者たちの中でも、このチョン・ミョンフンはもちろん、世界楽壇における地位もトップ中のトップであるが、私の感じるところ、その音楽の「凄み」という点において、他の追随を許さないレヴェルに達している人である。そんな彼の振る「復活」に、期待するなという方が無理というもの。
e0345320_22525754.jpg
今回、チョンと東フィルはこの「復活」を合計 3回演奏するのであるが、その日程と会場が面白い。まずは東京オペラシティで 7/21 (金) に行っており、そして今回の Bunkamura オーチャードホールでの演奏、そして 3回目はなんと夏休みを越えて、9/15 (金) に、改装なったサントリーホールで演奏される予定になっているのだ (ソリスト、合唱団もすべて同じ)。そもそも世界的指揮者が 2ヶ月を挟んで東京で同じ曲、しかもこんな大曲を指揮するとは極めて珍しいことであるが、東京を代表する 3つの異なるホールで「復活」を演奏するこのコンビには、何かの決意があるということだろうか。実は前回、2001年にチョンと東フィルがこの「復活」を演奏したのは、新星日本交響楽団との合併を経た「新生」東フィルとしての最初の定期演奏会であったとのこと。興味深いことに、合併前の旧・東フィルとしての最後の定期演奏会も、沼尻竜介の指揮でこの曲が演奏され、合併 5年後の 2006年にはダニエル・ハーディングの指揮で、10年目の 2010年には当時常任指揮者に就任したばかりのダン・エッティンガーの指揮で、この曲が演奏されているという。こうなってくると私もひとつ情報を付け加えたくなる (笑)。合併前の新星日響も、当時の大指揮者のもとでこの曲を演奏していて、それは 1986年、朝比奈隆によるもの。高揚感ある演奏だったのを覚えている。これは当日のプログラムからの写真。
e0345320_23140093.jpg
思い起こしてみれば、チョンが合併後の東フィルのミュージック・アドバイザーに就任するというニュースには、本当に驚いたものだ。もちろんそれに先立って N 響ではシャルル・デュトワが常任指揮者、そして音楽監督としての活動を行っていて、それまでの日本のオケの在り方が変わろうという流れはあった。だが東フィルの場合、合併前に音楽監督であった大野和士が非常に大胆なオペラ・コンチェルタンテ・シリーズなどで気を吐いていたので、その手作り感あふれる状態から、一気に世界のメジャー指揮者を指揮台に迎えることには、素直に喜べない気がしたのである。チョンほどの大物を高いギャラを払って連れて来ても、それは一時的なトレーニング目的であって、きっと長年に亘って振ってくれることはないだろうと、私は勝手に思い込んでいたのであった。ところが、それから早いもので 16年。私の思い込みは嬉しいことに間違っており、チョンは今も頻繁に東フィルの指揮台に立ってくれている。そう思うと、過去 20年ほどの日本のオケの飛躍を象徴するコンビのひとつが、チョン・ミョンフンと東フィルと言っても過言ではないだろう。

演奏開始前にステージを見渡すと、コントラバスが 10本の大編成である。最近このような大曲でも、通常サイズの 8本で演奏することが多いと思うが、ここは大規模所帯の東フィルならではの贅沢か。いつもの通り暗譜で指揮を始めたチョンであるが、上に書いた「凄み」は、その呼吸から来ている。気負いすぎることなくごく自然にキューを出して開始した冒頭部は、驚くほどの切れ味でもなかったものの、それに続く低弦の唸りには、凄みを抉り出すチョンの真骨頂が、早くも見えた。総奏に入っても、音楽は過剰な熱を帯びることはなく、迫力はあるものの、ある意味では淡々と進んで行く。逆説的かもしれないが、この淡々とした感覚こそが、チョンの紡ぎ出す凄みの秘訣なのだと思う。どういうことかと言うと、淡々としているかと思えた第 1主題に対して、第 2主題では一転、通常よりもぐっと遅いテンポで纏綿と旋律を歌い抜く。そのときに聴き手は、何か新しい世界が展開したように感じるのである。これはその後も全曲を通して聴かれた傾向で、例えば第 3楽章スケルツォでは的確なリズム感が諧謔味を強調していたし、終楽章の長い長い起伏の中で、オケの爆発の前、あるいは合唱が入ってくる前という要所要所では、遅いテンポでの祈りのような音楽が奏された。このようなメリハリによって聴き手は、ある時には突き放されることもあれば、ある時には纏綿たる情緒に溺れることとなる。チョンが大きな呼吸で指揮棒を振るとき、そこに生じる音楽の凄みが、徐々に深みを帯びて行くのである。既にお互いをよく理解している指揮者とオケのコンビであるから、音の呼吸も自然なのであるが、もし今回の演奏で僭越ながら課題を挙げるとするなら、金管の弱音部の細かいニュアンスではなかったろうか。ところで以前も書いたが、上記のようなチョンの音楽の特性は、彼の師匠であるカルロ・マリア・ジュリーニと共通する点があるのではないか。ジュリーニの手掛けたマーラーは、私の記憶する限り、1番、大地の歌、9番だけである。だが、もしジュリーニが「復活」を振ったらこんな演奏になってのではないか、などと想像しながら聴いていたものである。

今回の独唱者は二期会の人たちで、ソプラノの安井陽子とメゾ・ソプラノの山下牧子。合唱は新国立歌劇場合唱団であった。第 4楽章で独唱を歌うメゾの山下は、なんとも深々とした情緒を伴う声。どこかで聴いたと思ったら、今年 2月に新宿文化センターで行われたアンドレア・バッティストーニ指揮の同じ東フィルによるヴェルディのレクイエムであった。これが山下さん。
e0345320_23511280.jpg
そういえば新国立劇場合唱団は、前日 (土曜日) もフルシャ指揮東京都交響楽団の演奏会で、スークの「人生の実り」を歌っており、それは 2回の「復活」の演奏会 (金曜日・日曜日) の間だったことになる。既に新国立劇場でのオペラのシーズンは終わっているとはいえ、大変な日程である。もっとも「人生の実り」の方は女声合唱だけであり、歌詞のないハミングのみなので、それほど負担ではなかったということか。あるいは、そもそも 2組に分けての別々の歌手たちの出演であったのだろうか。ただ、合唱指揮は同じ冨平恭平。連続した日程で全く別の曲を聴くのに、同じ合唱指揮者が連続でステージで挨拶するのを見るというのも珍しいことだ。また、ここでひとつ思い出したことには、今回の演奏では、メゾの山下を除くソリスト・合唱団のメンバーは、全員譜面を見ながらの歌唱であった。最近の東京での声楽付きの大曲の演奏では、合唱団も暗譜ということも多いが、もともとヨーロッパでは、宗教的な内容の曲の場合には譜面を見るのが普通で、それは神に捧げる言葉、あるいは神がら授かった言葉を歌うからだ。「復活」はミサなどの純然たる宗教曲ではないものの、終楽章の歌詞は明らかに宗教性のあるもの。そのような背景に鑑みて、指揮者が譜面使用を指示したものではないかと、私は想像したくなるのである。

この曲の終盤は、それはもう凄まじい音響の嵐となるので、どんな演奏でも感動するのだが、今回のチョンと東フィルの演奏も、まさに鳥肌もの。この曲の優れた演奏では、合唱の盛大な盛り上がりに対して指揮者の身振りが返って小さくなることが多く、それこそがこの曲の凄みを引き出すひとつの要因かとも思うが、もちろん、「凄み」の指揮者チョン・ミョンフンは、最小限の身振りで最大限の壮絶な音量を炸裂させて、全曲を終了した。この曲の終楽章では舞台裏でトランペットとホルンとティンパニの別動隊が演奏をして、大団円ではそれらの奏者 (あ、もちろんティンパニは除く) もステージに合流して大音響に貢献するという方法が一般的だが、前述の通りこのオケはほかのオケよりも規模が大きいので、それはないかと思っていたら、なんのことはない、最後の最後に何人かの若い奏者 (多分学生のエキストラではないか) が舞台に合流した。数えてみると、トランペットは (起立の 4名を含む) 10名、ホルンは 11名であった。若い奏者たちにとっても、このような経験は本当に生涯の宝になることだろう。

高揚した気分でホールから出ようとすると、たまたま会社の先輩とばったり出くわした。中学生くらいの息子さんと一緒で、なんでも息子さんはホルンを演奏するという。「じゃあ、早くマーラーの演奏会に、エキストラとして出れるといいね」と冷やかすと、「はい」と照れながら答えてくれたのが微笑ましかった。現在ドヴォルザーク 8番を練習中とのことだったので、「ここは大変だねー」と、終楽章のアクロバティックなホルンの箇所を歌うと、我が意を得たりとうなずいてくれたのだが、こちらは演奏せず、ただ口で歌うだけだから気楽なもの (笑)。若い奏者の皆さんにとっては、東京は様々なオケを実際に耳にできる恵まれた環境なのである。プロのオケマンの皆さん、是非未来を信じて、さらに素晴らしい演奏を展開して行って頂きたい。

# by yokohama7474 | 2017-07-24 00:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヤクブ・フルシャ指揮 東京都交響楽団 2017年 7月22日 東京芸術劇場

e0345320_21341951.jpg
この日の 14時からのコンサートにはいくつかの選択肢があった。まず、すみだトリフォニーホールでは、上岡敏之が手兵新日本フィルを指揮して、幻想交響曲などを演奏する。東京オペラシティコンサートホールでは、藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルが、エルガー 1番などを演奏。これも面白そうだ。いやいや、本命はやはり、ミューザ川崎シンフォニーホールでの、ジョナサン・ノット指揮東京響であろう。なぜなら曲目は、シェーンベルクの浄夜とストラヴィンスキーの春の祭典という意欲的なものであるからだ!! これらはいずれも是非聴いてみたいものばかりであるが、残念ながら体はひとつ。涙を呑んで私が選んだのは、これらとは違うコンサート。東京都交響楽団 (通称「都響」) を、首席客演指揮者のヤクブ・フルシャが指揮するものだ。実のところ、今月都響は 3種類のプログラムを演奏するが、そのうちの 2種類は既にこのブログでご報告済。マルク・ミンコフスキ指揮の演奏会とエリアフ・インバル指揮の演奏会で、いずれも大絶賛した。そうなると残るもうひとつのプログラムも、聴かざるを得ないではないか (笑)。もちろん、世界の指揮界における若手のホープ、フルシャの指揮ということは大きなポイントであるが、曲目がまた素晴らしい。以下のようなもの。
 ブラームス : 交響曲第 3番ヘ長調作品90
 スーク : 交響詩「人生の実り」作品34
e0345320_23372491.jpg
ちょっと渋いと言えばそうかもしれないが、注目はやはり、フルシャの故郷であるチェコを代表する作曲家のひとり、ヨゼフ・スーク (1874 - 1918) の代表作、「人生の実り」であろう。私の世代でヨゼフ・スークと言えばもちろんあのチェコの名ヴァイオリニスト (1929 - 2011) を連想するが、彼はこの作曲家の同名の孫にあたる。チェコ人の音楽に対する情熱については、このブログでも過去に何度か紹介しているが、チェコ音楽史におけるこのスーク家の実績は、その中でも特筆すべきものではないか。以下、祖父スーク (作曲家として歴史に名を残しているが、孫同様に優れたヴァイオリニストでもあった) と孫スークの肖像。面影には共通するものがある。
e0345320_23432719.jpg
e0345320_23442036.jpg
とこのように書きながらも、私にとって作曲家ヨゼフ・スークが身近な存在かと言えば、正直、決してそうではない。だがスークは、チェコ音楽における最大の作曲家であるドヴォルザークの娘と結婚しており、またプラハ音楽院教授としては、次の世代のチェコを代表する作曲家、ボフスラフ・マルティヌーを教えたという点で、チェコ音楽史の系譜の中で、極めて重要な人なのである。そしてその作風は、非常に豊麗な後期ロマン派風。生年を見るとそれは明らかで、ドイツ系の作曲家で言えば、リヒャルト・シュトラウスよりも 10歳下、ツェムリンスキーよりも 3歳下。その一方で、同じ東欧 / ロシア系の作曲家で見てみると、ハンガリーのバルトークより 7歳上、ロシアのストラヴィンスキーよりも 8歳上である。チェコ人の音楽性はかなり保守的であると言ってよいであろうから、スークの作風は、後期ロマン派の残影の中にあって、バルトークやストラヴィンスキーのような 20世紀の前衛とは一線を画するものである。また、音楽好きなら既にお分かりの通り、1874年生まれということは、過激な前衛音楽を切り拓いたオーストリア人シェーンベルクとは同い年。もっともシェーンベルクの場合も、初期には非常に後期ロマン派的な曲を書いていたので、その点での共通点はあると言えるかもしれない。

さて今回の演奏会では、指揮者フルシャが演奏前にステージに現れ、20分に亘りプレ・トークを行った。日本では演奏されることが稀なこのスークの作品について、どうしても語りたかったということだろう。いわく、彼が 17歳のときにプラハの楽譜店の前を通りかかったときに大きなスコアが安く売られているのを見て購入。自宅で勉強してみると、内容は安いどころの話ではなく、めくるめく世界であり、魅了された。17歳や 18歳でこの曲の内容が分かったとは言えないだろうが、素晴らしい芸術がそうであるように、知れば知るほどに、録音で聴けば聴くほどに魅了される。そして、いつの日かこの曲を指揮することを夢見るようになった。40分ほど切れ目なしに演奏される曲であるが、それは例えてみれば、寄せては返す海の波のようであり、また延々と流れゆく河のようでもある。「人生の実り」とは、英語では "Ripening" であるが、ここには人生の様々な要素が表現されていて、「実り」とは成熟した「状態」を指すのではなく、むしろそこに至る「過程」を表している。曲の内容について様々な研究者による様々な説があるが、自分としては初演者であるチェコの大指揮者ヴァーツラフ・ターリヒが唱えた、6つの部分に分ける説を支持したい。いずれにせよ、音楽の流れをよく聴いて欲しい。あ、それから、前半のブラームスもお楽しみ下さい!! と述べて、この若手指揮者のトークは終了した。つまりこの「人生の実り」という曲は、若き日のフルシャが音楽家になる決心をするきっかけの曲であったということだろう。ところで、フルシャの話の中に、彼の師であり、先般惜しくも亡くなったイルジー・ビエロフラーヴェクについての言葉があるかと思ったのだが、それはなかった。

さて、そんなスークの作品の前に演奏されたのは、指揮者が楽しんで下さいと言った、天下の名曲、ブラームス 3番。ここでは都響の今の充実が如実に表れており、なんとも味わい深い名演が展開した。「前座」としてはもったいないような演奏において、都響の実力を引き出したのは、もちろんフルシャの高い力量によるものであろう。実際、ブラームスの 4曲の交響曲の中でも最も渋いこの 3番を、こんなふうにじっくりと聴かせてくれる指揮者が、未だ 36歳の若手とは信じがたいような思いである。この演奏の中で、時折聴き手をはっとさせるように耳に入ってきた地を這うような低音は、コントラファゴットである。以前このブログでも、サイモン・ラトルがベートーヴェン 7番の演奏で、オリジナルの楽譜にはないコントラファゴットを使用しているという発見について書いたが、調べてみたところブラームスの交響曲 4曲のうち、2番を除く 3曲で、この楽器が使われている。まあ確かに 2番はブラームスにしては異例の明るい曲だから、コントラファゴットを含まない楽器編成も、分かるような気がする (だが実は、2番では唯一チューバが使われているという意外性もあるのだが)。ともあれ、昨年からドイツの名門バンベルク交響楽団の首席指揮者を務めるフルシャとしては、ブラームスで充実した演奏をできることは必須の条件であろう。今年 12月にはまた都響で、ブラームスの 1番と 2番を演奏することになっていて、今から楽しみである。これは過去のフルシャと都響の演奏風景。
e0345320_00443848.jpg
メインの「人生の実り」という曲について、実は私はそれほどに思い入れがあるわけではなかった。スークの作品としては、アスラエル交響曲とか「夏の物語」とともに、この曲もこれまでに録音では何度か聴いたことはあり、確かに滔々とした流れはあるものの、R. シュトラウスほどの超絶的なドラマ性があるわけではなく、もうひとつつかみにくい曲と思っていたのである。だが今回のフルシャの指揮ぶりを見ていると、プレトークで感じられたこの曲への思い入れがはっきりと感じられ、移り変わる音楽的情景において、常に確信をもってオケをリードする姿には、素直に感動した。実際、弦楽器の分奏も多く、全曲に切れ目はないのに曲想の変化は多い。また、随所で活躍するティンパニも拍を数えるのに真剣であって、技術的にはかなりの挑戦であったと思うが、最近の都響であればそのくらいの挑戦は軽々と克服できるということを実感した。このオケがマーラーを中心に刻んできた激闘の歴史が、ここにまた新たな歩みを実現したように思い、大変感動したのである。実はこの曲には、別動隊のトランペット 6本 (ステージ奥のオルガンの前に配置) と、女声合唱 (今回は新国立劇場合唱団) が入り、いずれも終盤に登場して曲を彩るのであるが、視覚的にもそれらの要素が大変効果的であった。まさに人生の実りに向かう道のりを、会場に集った聴衆たちは耳にすることができたのである。

実のところ、このブログで以前採り上げた、マーラーの「巨人」におけるフルシャと都響の演奏に接して、もしかするとこの指揮者は、最近の世界的活躍ぶりで疲弊しているのでは、と危惧したものであった。だが今回の充実した演奏を聴いて、彼の音楽がまさに実りつつあることが実感できて、安心した。都響との首席客演指揮者としての契約は今年で終了してしまい、その後はなかなか日本までやってくることはないかもしれない。だが、以前フルシャ自身が口にしていた都響への信頼を維持してもらえれば、我々には今後もチャンスがあるだろう。是非これからのフルシャのさらなる進化を、実際のステージで体験したいものだと思った。

# by yokohama7474 | 2017-07-23 00:55 | 音楽 (Live) | Comments(0)