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近代以降の日本人画家で、世界的に最も知られた名前は誰であろうか。この問いに対し、ほとんどの人は、エコール・ド・パリの中心的な画家であった藤田嗣治(ふじた つぐはる 1886-1968)と答えるであろう。1955年にフランスに帰化してからは、レオナール・フジタ = Leonard Foujita という名前で呼ばれ、多分世界的にはその名前で知られているはずである。今年はその藤田の生誕130年。このブログでも既に、昨年公開された小栗康平の映画「Foujita」や、東京国立近代美術館が保管する彼の戦争画の展覧会などを採り上げた。この記事で採り上げる展覧会は、この記念の年に彼の様々な作品を一堂に集め、このよく知られていながら実はよく知られていない画家の全貌に迫ろうという意欲的な企画なのである。会期は来週末、12/11(日)まで。日本の洋画、または東洋と西洋の文化の邂逅に興味があるという方にとっては、必見の展覧会なのである。
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この展覧会の会場は、東京の中心部ではなく、府中市美術館なのである。私は普段府中を訪れることはなく、ただ一度、10年以上前に、具象画家 遠藤彰子の展覧会を見にこの美術館に来たことがあるのみだ。久しぶりに訪れてみると、府中市民の憩いの場である広大な敷地の中の、気持ちよい場所なのだ。「知っているようで知らなかったフジタのすべて」というコピーが興味深い。
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展覧会は藤田の若い頃の作品から始まる。彼は軍医であった父の上官にあたる森鴎外の推薦で、東京美術学校、今の東京藝術大学に学んでいるが、在学中の成績は決してよくなかったらしい。これはその藝大が所蔵する1910年、24歳の頃の自画像。トレードマークのおかっぱ頭ではなく、画風もよく知られる彼のスタイルとは違っているが、清新の気風に満ちた勢いのある絵ではないか。
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その藤田が単身でパリに渡航したのは1913年。芸術家の創作活動の展開や、それが世に入れられる過程には、様々な宿命的なめぐり合わせが往々にしてあるものだが(先般記事にした速水御舟の場合もそうであった)、藤田の場合も、モンパルナスの安アパートの隣にモディリアニやスーチンという画家たちが住んでいたというから驚きだ。これが渡仏の年に描かれた「スーチンのアトリエ」。ハイム・スーチンはロシア系のユダヤ人で、やはりエコール・ド・パリの中心人物のひとり。この絵にもまだ藤田の個性を見出すことはできないが、新天地で決意をもって絵を描く若い芸術家の息吹が伝わってくる。
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当時美術の最先端であったパリ。その地で藤田は様々な刺激を受けて、当然のことながら、スタイルの模索が始まる。1914年の「キュビスム風景」は、文字通りキュビズムを追求したもの。キュビズムの歴史上最初の作品は、1907年に描かれたピカソの「アヴィニョンの娘たち」だと言われているので、それからほんの7年しか経っていない。だがここには、やはり藤田の心の奥からの共感はないように見受けられる。
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これは1917年の「収穫」。ルーヴルで学んだ古代ギリシャの壺の絵に影響されているとのことだが、私にはそれよりもむしろ、モディリアニのスタイルへの追随かと思われる。やはりこれも、藤田独自のスタイルとして完成されたものには見えない。
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この後もやはり試行錯誤が続いていたようで、少し寂し気な作品がいくつか並んでいる。これは1917年の「ル・アーヴルの港」。この荒涼とした画面は、画家の内面の心象風景であると思いたくなる。
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第一次大戦中、1918年の「風景」。南仏のカーニュというところにモディリアニやスーチンとともに疎開した際のもの。このゆがんだ光景にはやはり屈折した感情が満ちているように思われてならない。そして、この骨太の構図や単純な色合いに、私は北川民次(メキシコで活躍した画家)を連想するのであるが、藤田と北川は極めて対照的なスタイルの画家であるだけに、大変興味深い。実は藤田と北川の縁については後述するが、ここで認識しておくべきは、1894年生まれの北川がメキシコに渡ったのは1921年。この絵の制作よりも後なのである!!うーん、面白い。
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1920年代に入ってパリにおける藤田の評価は急上昇。例の乳白色の裸婦というスタイルを確立して行く。これはその頃、1922年の「バラ」。下地は乳白色に近いものがあるが、この不思議な存在感を持った、そしてあちこちに向いた何本かのバラの意味するところは何であろう。私には、真ん中にすっくと伸びた一本が、藤田の高揚する気持ちを表しているように思われる。
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こんな面白いものも描いている。1923年の「アントワープ港の眺め」。これはまるで都市を描いた中世の絵画のようではないか。アントワープの銀行家の自宅を飾る装飾画として依頼されたもののひとつであるとのことだ。スタイル確立の過程にありながら、未だ模索を続ける画家の姿を見ることができる。
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同じ年の暮れ、藤田はついに素晴らしい傑作を生みだすことになる。現在では東京国立近代美術館が所蔵する「五人の裸婦」である。彼が初めて群像表現に挑んだこの作品は、サロン・ドートンヌに出品され、25,000フランという当時のサロン出品作の最高額がつけられた。
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ここで描かれている五人の女性は人間の五感を表しており、左から触覚(布を持つ)、聴覚(耳をつまむ)、視覚(見て見てという感じ?)、味覚(口を指差す)、嗅覚(犬を連れている)。五感と言えば、(諸説あるものの)藤田の暮らしたパリのクリュニー美術館にある一角獣のタペストリーを思い起こすし、西洋絵画における寓意としてはなかなかに気の利いたもの。その一方で、この女性たちのたたずまいはどう見ても西洋的ではなく、東洋の女性のイメージをうまく作り上げている。まさに試行錯誤を経て花開いた藤田の芸術である。こうして人気画家になった藤田のもとには、肖像画の依頼が相次ぐ。これは1924年の「ギターを持つ少年と少女」。二人とも黒目で、東洋的なものを感じさせる。東洋への憧れを持つ依頼主であれば、大変喜んだことであろう。
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これも1924年の作、「動物群」。室内装飾のために描かれたものと推測されているとのことだが、写実と様式化、西洋と東洋が不思議に融合した面白い絵であると思う。
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これは1927年頃の「猫のいる自画像」。猫好きであったと見える藤田は、似たような構図での自画像をいくつも描いているが、この繊細な線と白く透明感ある背景、そして妙に生々しい表情の猫の組み合わせが、ほかにない藤田独特の世界を表している。
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これは1929年の「立てる裸婦」。非常にモダンな感覚であるが、この画家が裸婦を描く必然性のようなものまで感じさせてくれる作品だ。
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同じく裸婦を描いた1931年の「仰臥裸婦」。西洋美術の伝統を感じさせつつ、布の陰影や、全体に見える線の細さは、同時に日本的でもある。有名なフュースリの「夢魔」と同じ女性のポーズでありながら、これほど雰囲気の異なる絵画はあるまい(笑)。
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藤田はこの1931年に、個展開催のために南北アメリカへ行く。アルゼンチンのブエノスアイレスでは、6万人が個展に足を運び、1万人がサインを求めて列をなしたという。い、1万人!!クラシックコンサート終演後のサイン会が、吹っ飛んでしまうような規模である(笑)。そこで藤田はまた画家としての変貌を模索する。1932年の「カーナバルの後」は、リオのカーニヴァルの後の様子を描いているが、大騒ぎのあとの倦怠感は、これまでの藤田芸術になかったものであろう。また、「室内の女二人」は、どう見ても娼婦だろう。藤田らしからぬ卑俗な生々しさが画面全体を覆っている。
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かと思うと、一風変わった宗教画も描いている。日本に帰国した翌年、1934年の「殉教者」。キリストの恰好だが、顔は明らかに東洋人。いかなる意図で描かれたものであるか分からないが、不思議な東西融合の感覚は、やはり藤田ならでは。
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藤田はその後中国に向かい、ここでもこのような独特の絵を描いた。1934年の「力士と病児」。この生命力の塊のような男の肖像は、これまでの藤田にはなかったパターンだ。どこかマンガ風というか、現代の中国アートのようにも見えて面白い。
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西洋を体験して来たせいか、日本人を描いてもどことなくエキゾチックだ。これは「ちんどんや 職人と女中」。なんともキッチュである。
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1930年代に藤田は多くの壁画を手掛けたという。1935年には、銀座コロンバンの壁画を描いている。当時の人々が夢見た「本場ヨーロッパの光景」ということだろうか。
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これは1937年作の「北川民次の肖像」。藤田と北川は1932年にメキシコで出会い、意外なことに、親しい親交があったようだ。藤田らしからぬラフなタッチでひとなつっこく微笑む北川の顔が印象的だ。上に触れた通り、これほど違うタイプの藤田と北川が、何かの不思議な縁によってお互いに影響しあっていた可能性を知り、興奮したのであった。
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これは1938年の「客人(糸満)」。沖縄の光景を描いている。ここにもキッチュな感覚が溢れている。まさに「知られざる藤田」の顔である。
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あれ、これはゴッホの作品か? 違います。1939年に藤田が描いた「モンマルトルのアトリエ」。1920年代のパリでの栄光は、日本に帰国してからどのように思い出されたのであろうか。明るい色彩の中に複雑な心理状態が投影されているように思う。
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これは有名な「猫」。1940年の作で、東京国立近代美術館の所蔵。争い合う猫の群れが、戦争に突き進む闘争的な時代の雰囲気を表しているという説があるようだが、さて、どうだろう。繊細でいてダイナミックな動きを持つ藤田の猫をじっくり鑑賞しよう。
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そして、問題の戦争画が3点、展示されている。藤田の戦争画については昨年11月22日の近代美術館での展覧会の記事で詳しく採り上げたので、ここでは繰り返さないが、この1943年作の「アッツ島玉砕」は、凄まじい群像画として鬼気迫るものがある。ドラクロワ、ジェリコーといったロマン派絵画を思わせる面もあって、興味は尽きない。
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従軍までして熱心に戦争画を描いた藤田には戦後、激しい非難(もちろんそれ以前にもやっかみ半分の非難はあったのだろうが)を受けることとなる。それに嫌気をさした藤田は、1949年に日本を離れ、ニューヨークに向かう。これはその年に制作された「猫を抱く少女」。展覧会のポスターにもなっている作品で、その乳白色の背景といい少女の人形さながらの表情といい、藤田の個性が再度花開いたように思われるが、内心にいかなる思いを抱えていたものであろうか。
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1955年にはフランスに帰化。子供たちを描いた絵など、自由な境地で創作活動を続けたように見える。これは1958年の「パリ、カスタニャ通り」。
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この作品、なぜか私の琴線に触れるものである。硬質な線と繊細なリアリズムであるが、しかし人物は描く対象にはなっていない。これは屋外で描いた壮大な静物画のようなものではないか。題名がスペイン風であることもあり、私にはどうしてもスペイン・リアリズムの巨匠、アントニオ・ロペス・ガルシアの作品が想起されるのである。もちろんそんなことはどこの解説にも書いておらず、私の勝手な思いなのであるが、試みにそのロペス・ガルシアの作品をここに掲げておこう。うーん、ちょっと違うか(笑)。
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さて展覧会は、藤田が後年多く手掛けた宗教画の数々で締めくくられる。これは1952年の「二人の祈り」。藤田自身と妻君代が祈りを捧げている。この絵には藤田のある一面であるキッチュな味が出ていて、あまり敬虔な気持ちにはならないものの(笑)、ちょっとほかでは見ることのできないユニークな個性が出ていて、私は好きである。また、藤田夫妻が実際に祈っている写真も残されている。
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一方、これはヨーロッパの伝統的な図像にある程度準拠した、1959年作の「聖母子」。この華やかな色彩の裏に潜む画家の複雑な思いを感じようではないか。
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これは、私が見に行ったときには展示されていなかったが、図録で私の大きな関心を惹いた、1960年の「黙示録」のなかの「四人の騎士」。これはもうほとんどアウトサイダーアートではないか。
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こうして画業を振り返ってみると、実に様々な顔を持った画家であると思うが、一方でその創作態度は実は非常に一貫しているとも思われる。ここではあまり触れなかったが、彼が日本の画壇でいかなる中傷を受けたのか、それに対してどのように反応したのか、そのような経緯にも、この画家の秘密を考えるヒントが沢山隠れているように思う。ともあれ、彼の芸術はこれからも末永く人々を魅了するものであろうから、この機会にその全貌に迫る試みをしてみる価値は充分にある。府中市美術館に走れ!!

# by yokohama7474 | 2016-12-03 00:10 | 美術・旅行 | Comments(0)
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今年は日本を代表する作曲家、武満徹(たけみつ とおる)の没後20周年。このブログでもいくつかの記事で、彼の作品が演奏される機会をご紹介して来た。だがこれは一味違ったコンサートなのである。オーケストラでもピアノやヴァイオリンでも、はたまた合唱でもない武満作品の演奏。雅楽によるものだ。雅楽とは、1000年以上の歴史を持つ日本の宮廷音楽で、ユネスコの世界無形文化遺産にも登録されている。宮内庁のホームページの説明から一部を引用する。

QUOTE
5世紀頃から古代アジア大陸諸国の音楽と舞が仏教文化の渡来と前後して中国や朝鮮半島から日本に伝わってきました。雅楽は、これらが融合してできた芸術で、ほぼ10世紀に完成し、皇室の保護の下に伝承されて来たものです。その和声と音組織は、高度な芸術的構成をなし、現代音楽の創造・進展に対して直接間接に寄与するばかりでなく、雅楽それ自体としても世界的芸術として発展する要素を多く含んでいます。
UNQUOTE

そうなのだ。西洋音楽とは全く異なる雅楽には、現代音楽の創造・進展に寄与する要素があるわけである。武満の創作活動の中には西洋と東洋の葛藤が時に見られるが、安易な東西融合ではなく、高度な次元での融和であったり、ある場合には西洋楽器と和楽器の対決の様相を呈する。そんな彼が雅楽のために書いたオリジナル音楽は「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」だけである。今回の演奏会は、雅楽の演奏団体である伶楽舎が演奏を担当するが、この団体は、もともと宮内庁に在籍していた芝 祐靖(しば すけやす)が1985年に設立した団体だが、古典だけでなく現代曲も頻繁に演奏している。この芝さん、随分以前にNHK開局何十周年とかで教育テレビ(今のEテレ)で武満徹を含む何人かの文化人と話しているのを見て、やっていることは過激だが、なんとも品のよい人だな(笑)と思ったものだが、80を超えても現役で活躍されているとは何よりだ。今回のコンサートのプログラムによると、この団体は過去に既にこの武満の「秋庭歌一具」を24回演奏しており、国内だけではなく、ヨーロッパではグラスゴー、ロンドン、バーミンガム、ケンブリッジ、ケルン、ベルリン、オスロ、アムステルダムで、米国ではシアトル、タングルウッド、ニューヨーク、ロサンゼルスで演奏している。既に重要なレパートリーになっているのだ。

これが伶楽舎の通常の雅楽公演。もちろん一ヶ所に集まって演奏する。
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そしてこれが、2005年にサントリーホールでこの「秋庭歌一具」が演奏されたときの様子。秋庭というメインのグループと、木魂1、2、3というグループに分かれて演奏する。
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私にとってもこの曲は、録音では随分以前に親しんだが、実演では初めて聴く曲。私が聴いていたレコードは、この曲を初演した東京楽所(とうきょうがくそ)による1980年の録音。手元にある小学館の武満徹全集に入っているのもこの録音で、私は今回、そのCDを聴いて予習して行った。こんなジャケットでした。懐かしい。
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また、今回の会場である東京オペラシティコンサートホールは、正式名称はその後に「タケミツメモリアル」とつく。ロビーにはこのようなプレートが掲げられている。今回初めて知ったことには、宇佐美圭司の手になるものだ。確かに言われてみればなるほど納得だ。そういえば、宇佐美は武満の著作の装丁も手掛けていた。
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それから、会場には作曲家の池辺晋一郎がいて、休憩時間に女性二人組に挨拶していたが、あれは武満夫人である浅香さんと娘の眞樹さんではなかったか。上から遠目に見ただけなので、違っていたらすみません。

実は今回の演奏には、もうひとつの目玉がある。それは、冒頭に掲げたポスターにもある通り、この人の舞である。
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日本を代表する舞踏家である勅使川原 三郎(てしがわら さぶろう)。彼の振りつけのもと、最近では常にデュオを組んでいる佐東 利穂子も共に踊るのである。私が以前からいかに彼を尊敬して来たかは、今年1月23日の記事に書いているが、この記事は、せっかく頑張って書いたのに、アクセスが非常に少なくて私は落胆しているのです(笑)。是非読んで下さい!!リンクは以下の通り。
http://culturemk.exblog.jp/24073769/

そんなわけで、役者は揃った。一体いかなる上演になったのか。その前にもうひとつ寄り道すると、私は今回のコンサートに行けるか否かは直前まで分からなかったのでチケットは買っておらず、どうせ売れ残っているだろうと甘く見ていると、前売り券は完売。ただ、当日80枚ほど追加席が売り出されるというので、それを購入した。価格はたったの2,000円!!その代わり、「ステージの1/3が見えません」との注意事項付だ。構うものか、この貴重な公演に立ち会えるなら。

実は武満作品の前に、芝 祐靖の復元・構成による「露台乱舞(ろだいらんぶ)」という曲が演奏された。これは平安時代から室町時代にかけての宮中での酒宴と歌舞を再現したもの。優雅でいて実はユーモアもあり、当時から人々は酒を飲むのが好きだったのだなと分かるような曲だ(笑)。雅楽特有の立ち昇るような音が美しく、実に聴き惚れるばかり。中でも、雅楽の中で最も知られた越天楽(えてんらく)が3回繰り返される箇所では、徐々に奏者が減っていって、最も活躍する篳篥(ひちりき)奏者も最後は旋律の途中を吹かなくなるという演出で、聴衆は頭の中で旋律を思い描くことでイマジネーションが刺激された。雅楽は面白いではないか。

そして武満作品であるが、上記の写真の通り、奏者がいくつかのグループに分かれるのであるが、今回の演奏では2階のステージ奥(オルガン前)と左右の席での演奏となり、ステージ上は、メイングループが演奏する緑の敷物を囲むようにコの字型 (ステージ手前が空いている向きで)の廊下状の壇が設けられ、そこで勅使川原と佐東がパフォーマンスを披露した。
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演奏は実に素晴らしく、伝統的な雅楽を聴いた後だけに、武満の音の作りの斬新さに唸る場面が多々あった。太古の昔から響いてくる先祖の声のようでもあり、空気中を漂う精霊の羽音のようでもあり、ただゆらゆらとうごめく植物の動きのようでもあり、詩的な雰囲気に満ちている。一方でダンサーの二人は、6楽章からなるこの曲の楽章間でも同じように踊り続けており、全体を通して動きの変化に乏しかったのは致し方ないが、まるで全身で空間に彫刻を刻んで行くようなダンスに、非凡なものは当然あった。ただ私は若い頃の勅使川原の、自分の体をナイフのように地面に叩きつけるような激しいダンスの合間に、ふっと緊張感を持って佇む姿が好きだったので、今回のパフォーマンスでは終始ゆったりした動きであった点、やや残念な思いを持ったことは事実。そもそもこの曲に舞が必要かとも思ったりしたが、初演の際にも女性二人の舞が舞われたとのことで、作曲者自身も、しばしば舞を伴う雅楽の伝統には敬意を払っていたということだろうか。

このような意欲的な試みも東京では多く行われているので、これからも極力アンテナを高くして、才能のぶつかりあいを目撃して行きたいと思う。

# by yokohama7474 | 2016-12-01 00:53 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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たまたま近くのTOHOシネマズで上映中の映画を調べていて目についたのが、この映画だ。これまで予告編はおろか、全くこの映画に関する情報を得たことはない。だが、いわく傑作「羊たちの沈黙」のジョナサン・デミ監督が大絶賛したとか、昨年のヴェネツィア映画祭で観客・審査員の多大なる指示を得て、新人監督賞を獲得したとか、なかなかに注意を引く情報が目に入る。そして、原作はジャン=ポール・サルトルの「一指導者の幼年時代」という短編である由。どうやら、第一次大戦後を舞台に、架空の独裁者の幼年時代を描いた映画らしい。このような作品がシネコンにかかっているというのは珍しいこと。これは早めに見ておこうと思い立ち、レイトショーに出掛けることにした。

ストーリーは単純と言えば至って単純。将来独裁者として君臨するひとりの男が、第一次大戦終結直後のパリ(ということは、1919年のヴェルサイユ条約に結実する戦後処理についての講和会議が行われていた場所だ)郊外に住む家族の一人息子として、いかなる少年時代を送ったかということを描いている。プログラムを読むと、サルトルの原作はヒトラーの幼年時代を題材にしているらしいが、この映画にはまた、ムッソリーニの少年時代の逸話なども盛り込まれているとのこと。監督は、「映画のタイトルをサルトルの作品から借りた」という表現をしていて、必ずしも原作であると明言はしていない。ちなみにこの短編、日本では新潮文庫の「水いらず」の中に収録されている。あ、私はこの本を持っているが、この短編については全く記憶がない(笑)。
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さてこの映画、昔のヨーロッパ映画のような陰影の濃い色調だと思ったら、35mmフィルムで撮影されているとのこと。共同脚本及び監督のブラディ・コーベットは1988年アリゾナ州スコッツデール生まれの米国人で、その未だ20代という若さや誕生地(何度か行ったことありますよ。砂漠です)は、とても格調高いヨーロッパ調というイメージとはほど遠いが、尊敬する映画監督として、ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーをはじめ、カール・テホ・ドライヤーやロベール・ブレッソン、ジャン・ヴィゴ、小津安二郎といった芸術系の名前が並ぶ。もともと俳優で、件のラース・フォン・トリアーの「メランコリア」にも出演している。プログラムのモノクロ写真では髭を生やしているが、意外なことに、もともとこんな爽やか系の若者だ。
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それにしても、このような若者が監督した映画とはとても思えない、相当に仮借ない人間描写を含む映画であり、すべてを手放しで大絶賛しないとしても、少なくとも衝撃的な作品であるとは言えよう。その最大の理由は、主役であるプレスコットを演じる、映画初出演の男の子の素晴らしい演技だ。撮影時たったの9歳(!!)、英国人のトム・スウィート。
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ここで彼の見せる千変万化の表情にはつくづく驚かされるし、将来の独裁者の潜在的狂気をこれだけ自然に演じられると、本当にこの子は将来とんでもないことをしでかすのではないかと、心配になるほどだ(笑)。思春期と呼ぶにはまだ早い年頃で、劇中でもまるで少女のような少年という設定であるが、可愛らしい容姿の裏の悪魔的なものが何度も何度も出て来て、見ている者をとてつもなく不安にするのである。まさに空恐ろしいような「モンスター」の天才的な演技である。そして、この映画の中では、この「モンスター」によって最も不安に苛まれるのが母親であり、米国政府の要人としてパリ講和に参加している初老の父親も、立派な公的責務を負いながらも、個人生活ではやはり情けないまでに「モンスター」に翻弄されるのである。一方、彼を心から可愛がるお手伝いさんや、早すぎる少年の性的欲望まで喚起する家庭教師の女性まで、ほかの役者陣もそれぞれに芸達者である。正直、私が知っている名前はなかったのであるが、以下の写真で左上から右回りに、母親役のベレニス・ベジョ、父親の友人役のロバート・パティンソン、家庭教師役のステイシー・マーティン、父親役のリアム・カニンガム。
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この映画の演出は細部まで凝りに凝っていて、映画好きならかなり堪能できると思うが、また音楽好きにも興味深いシーンがいくつかある。例えばプレスコットが風呂に入れられるシーンで口笛で吹いているのは、(たった数秒だが)紛れもなくベートーヴェン7番の第2楽章だ。また、何度も蓄音機から流れる古いSP録音がBGMとなっているが、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「手紙の場」であったり、ショパンのピアノ・ソナタ第2番の第2楽章(葬送行進曲)の中間部の旋律を英語のポピュラーナンバーに編曲したものであったりするのである(なお後者は、イースターのシーンに加え、晩餐会の重要なシーンでも再び登場する)。ただ、映像の凝り方には一部不要なこだわりを感じるときもあって、このあたりは若さゆえの表現意欲の表れかとも思う。一方で映画のオリジナル音楽は、スコット・ウォーカーという作曲家(デイヴィッド・ボウイに影響を与え、レオス・カラックスの「ポーラX」...懐かしい...の音楽も担当していた)によるもので、中規模編成と思われるオーケストラが使われている。この音楽も、まるでホラー映画であるかのように映画の不気味なトーンを本編中のあちこちで盛り上げるのであるが、正直なところ、私にはちょっとうるさかった。特にラスト・シーンは、むしろ静寂をうまく使った方がよほど効果的ではなかったろうか。

このように、優れた面とそうでない面をそれなりに認識することができる映画であり、一般には多くの人の支持は得られないかもしれないが、文化的刺激を求める人には、子役の演技を見るだけでも価値があると申し上げておこう。一方で、現実世界ではどの国の政治も内向きとなり、今後の国際社会がどうなって行くのか分からないこの不安の時代に、このような内容の映画を見ることの意味は、大いにあるだろう。歴史というものの一筋縄でいかないところは、独裁者なら独裁者だけが、戦争の時代に起こったことの何もかもに責任があるという単純なことにはどう転んでもならないところである。独裁者を支持した一般庶民が圧倒的多数であったことこそが、本当に人をして心胆寒からしめるのだ。少年時代の独裁者が美少年ということだけで、既に耽美的要素を帯びた映画ではあるが、ただの後ろ向きな美学ではなく、厳しく時代の現実と切り結ぶだけの覚悟が作り手の方にあることをヒシヒシと感じる。翻って、我が国の文化の担い手は、果たしてこのような厳しさを持っているだろうか・・・と、柄にもなく考え込んでしまった次第である。

過去の姿をした現在が、真剣な眼差しで我々に問いかけてくる。
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# by yokohama7474 | 2016-11-30 01:39 | 映画 | Comments(0)
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日本画史上に燦然とその名を輝かせている夭折の画家、速水御舟(はやみ ぎょしゅう、1894-1935)については、昨年7月5日の記事でも、世田谷美術館での関連展覧会をご紹介した。その展覧会には、御舟周辺の画家たちの作品も展示されていて、彼の活動の前後まで含めて展望する機会であった。一方、現在東京恵比寿の山種美術館で開催されているこの展覧会(今週末まで)は、2点の重要文化財を含む代表作が勢揃いするなど、この画家の画業を広範に辿ることができる非常に貴重な機会なのである。例によって例のごとく、会期終了間際になってのアップであるが、この記事をご覧になる方が、ひとりでも多く会場に足を運ばれることを願う次第である。因みにこの山種美術館、120点もの御舟作品を蔵する「御舟美術館」であるが、この展覧会は多くの所蔵者からの出展を含む80点からなるものだ。これが御舟。真面目そうな人である。
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速水御舟は東京浅草生まれ。本名は蒔田栄一であるが、後に速水家の養子となり、速水姓を名乗ることとなる。14歳で実家近くの案雅堂画塾というところに入門した。この画塾の主催者は松本楓湖(ふうこ)という、歴史画で知られた画家であったらしい。自由な雰囲気を持っていたこの画塾で出会った先輩が、今村紫紅(しこう 1880-1916)である。紫紅も日本画史上に燦然と輝く天才であるが、35歳で死去。御舟と紫紅とは、近代日本画が確立していく過程でともに試行錯誤した夭逝の天才であるが、ともに官立の美術学校で教育を受けておらず、幼少から画塾で学んだという点が興味深い。この展覧会では、御舟少年時代の作品も並んでいるが、これは17歳のときに古典絵巻の一部を模写した「瘤取之巻」(こぶとりのまき)。闊達な線に驚かされる。
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これはその翌年の制作になる「萌芽」。今村紫紅の南画風なところもあると思うが、これはどう見ても何かの模写や誰かの真似などではなく、画家自身の描きたいものを描いたのであろう。尼僧の全く写実的ではない顔と、周りに生えた、これまた現実離れのした植物たちの幻想性。当時の大富豪であり芸術家たちのパトロンであった原三渓が気に入って購入し、以降御舟のよき理解者となったきっかけを作った作品だそうである。
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これは1917年、23歳のときの「黄昏」。写実性よりも幻想性に依っている点は上の作品と共通しているものの、絵の持つ雰囲気は全然違う。青が大変美しいが、御舟自身、「群青中毒にかかった」と語った頃の作品である。これまた日本画史上に残る大画家である小林古径(当時34歳)が気に入って購入したという経緯を持つ。そのように考えると、御舟は若い頃から理解者に恵まれていたことが分かる。もちろん才能がないとそうはならないが、短い命と引き換えに、何か運命的なものに背中を押されて画業に邁進して行ったということであろう。
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これはその翌年の「洛北修学院村」の部分。スタイルは上の作品と共通しているが、まるでシャガールのようなメルヘンめいたこの幻影はどうだろう。御舟は実際に修学院村の寺に住んで、その記念としてこの作品を描いたという。村の農民たちの生活が描かれているが、庶民の生活への温かい視線というよりも、風景に溶け込む人々の生活の尊さを感じさせる。原三渓の旧蔵品だ。
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ところがその2年後、1920年に御舟は驚くような作品を発表する。現在では東京国立博物館の所蔵になる「京の舞妓」である。これはまさに、洋画家岸田劉生言うところの「でろりとした」絵画ではないか。
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上のメルヘン風の絵画とこれほど異なる不気味な絵があるだろうか!!御舟自身の言葉によると、「人間の浅ましい美しさ」と「陰の奥に存在する真実」を舞妓に見出して描いたとのこと。当時未だ26歳のこの画家の作品を、押しも押されぬ大家であった横山大観は激しく非難し、御舟の院展除名すら求めたという。一方、こちらは洋画壇の中心人物であった安井曾太郎は、御舟の「実在表現」の姿勢を高く評価したとのこと。なるほど、それはよく分かる気がする。この作品、壺や舞妓の衣装などは精密に描かれているのに、その顔は怨恨に満ちたかのような強烈なデフォルメがなされている。その意味では、上に掲げた「萌芽」と、技法は違えど共通点があるのではないだろうか。目に見えるものを綺麗に描くことには、御舟は興味がなかったのだ。それがやがて究極の作品「炎舞」につながって行くのである。これからその過程を辿ることになるが、これは「京の舞妓」の翌年、1921年に描いた「菊花図」。実は昨年7月5日の「速水御舟とその周辺」展の記事でもご紹介した。今確認すると、あっなんだ、そのときも岸田劉生と「でろり」について既に語っているではないか!!なのでここでは多言を弄さず、この菊の花の不気味な存在感をお楽しみ下さいと申し上げよう。今回の図録の解説によると、御舟と劉生は実際に交流があったとのことで、劉生の御舟への影響は明らかなのである。
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同じ1921年の作「鍋島の皿に柘榴」。この絵はある意味で極めて写実的ではあるが、皿を上から覗いているのに、柘榴は真横から描いていて、架空の情景なのである。セザンヌを思わせるところもあるが、一見つややかに描かれた対象物の「でろり」感は、セザンヌとは全く異なるものだ。
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これは御舟の意外な一面を示すもの。1923年の「灰燼」だ。制作年で明らかな通り、これは関東大震災の直後の光景。地震発生時に御舟は上野の院展会場にいたが、自宅に向かう途中で家族の無事が判明すると、文具店でスケッチブックを購入して瓦礫の街を写生して歩いたという。この絵には悲惨な感じはなく、むしろキュビズム風の実験精神が見えるように思うが、現実を超えた災害に向ける画家の鋭い視線も感じることができる。
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そして1925年。あの名作が誕生する。山種美術館の至宝、重要文化財の「炎舞」である。私としては、対面が確かこれが3回目。前回は未だ移転前の千鳥ヶ淵にあった旧山種美術館であった。そのときの展示方法は正直言って感心しなかったが、今回は素晴らしい。漆黒の闇に怪しく浮かび上がる炎を、見事な展示方法で演出している。
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私のように日本の古美術が好きな人間にとっては、この炎は明らかに仏画を思わせる。この絵が宗教性を感じさせるのはそういう点も関係していよう。ご参考までに、青蓮院の国宝、青不動の画像をお目にかける。因みにこの奇跡の絵画は、今では京都の将軍塚というところにお堂ができて、館内で少し距離を隔ててとはいえ、いつでも拝観できる。
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さてこの「炎舞」、軽井沢に3ヶ月間滞在した際に、毎晩のように焚き火を起こし、そこに群がる蛾を観察したことから生まれた。渦を巻いて上昇する炎の力と、それに翻弄され、チリチリと羽を焦がしながらも、短い生を無言で生きる蛾の不規則な動き。誰もが食い入るように見入ってしまう作品だ。実はこれに近い雰囲気の作品を御舟はもう1点描いている。「炎舞」の翌年1926年に描かれた「昆虫二題」のうちの「粧蛾舞戯(しょうがぶぎ)」。これも山種美術館の所蔵である。
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確かに雰囲気は近いが、だが底知れぬ怪しさという点では、「炎舞」には及ばない。そもそも、「炎舞」というシンプルな題名に比較して、なんとも説明的な題名ではないか(笑)。きっと御舟自身、自分の描いてしまった作品を恐れていたのではないだろうか。だが御舟の創造性の素晴らしさは、このような一定の雰囲気にとどまらず、貪欲に多様な作風を試みていることだろう。例えばこれは、「炎舞」と同じ1925年の軽井沢滞在中に描かれた「樹木」。こちらは量感たっぷりな樹木を描いていて、蛾の集う夜の世界とは全く異なるが、やはり現実を離れた幻想性という点では、題材としての共通点はあると思う。
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この「炎舞」を描いた時点から、御舟に残された時間はあと10年。だが彼の探求心は新たな境地に彼を導いたのだ。1928年の作品、やはり山種美術館蔵の「翠苔緑芝(すいたいりょくし)」。四曲一双の金屏風である。
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一見して琳派風の装飾的な画面。黒猫と白兎の対比も面白い。だが、翌年1929年の作品はもっと素晴らしい。重要文化財、これも山種美術館所蔵の「名樹散椿(めいじゅちりつばき)」。全体像と一部のアップの写真を掲げよう。
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この作品は京都のその名も椿寺と呼ばれる寺にあった樹齢四百年の木を素材にしたもの。だがここでは相変わらず写実というよりも、生き物のようなただならぬ迫力の創出に画家の主眼があるように思われる。先般、NHKの日曜美術館で紹介されていたが、この作品の背景には、金箔でできる正方形の升目や、金泥でできる色のむらがなく、完全に均質な金になっていて、装飾性が際立っている上に、なんとも品格がある。それを可能にした技法は、御舟が編み出したという独特の手法、「撒きつぶし」である。金の粉を、にかわを塗った紙の上にまき散らし、丁寧に手でそれを延ばして行く手法で、金箔の10倍の金を使用するという。御舟はその命を削って、この美麗かつ迫力ある作品を創り出したのである。

その後御舟は、1930年に渡欧している。イタリア政府主催のローマ日本美術展覧会(上記の「名樹散椿」も出展された)の式典出席の後、フランス、スペイン、イギリス等を10ヶ月に亘って歴訪している。因みにこのローマへの派遣は横山大観も一緒だったようだが、例の「京の舞妓」での激怒は、このときまでには鎮まっていたのであろうか(笑)。これはフレンツェで描いた「塔のある風景」。おー、これはまた、安野光雅かと思ってしまうような叙情性と現代性だ。
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渡欧から帰国後の御舟は、人物像の模索にとりかかる。これは1932年の「花ノ傍(かたわら)」。うーん、今度は、モダニズムあふれる清新な作品ではないか。今度はあの、「京の舞妓」を誉めたという安井曾太郎を思わせる作風だ。常に新たなものにチャレンジする御舟の旺盛な創作意欲に、心打たれるではないか。
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そして御舟は、若い頃取り組んだ模写の世界にも戻っている。これは1934年に描かれた、池上本門寺の「日蓮上人像」の模写である。
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周知の通り本門寺は、日蓮が旅の途中で倒れて世を去った場所で、日蓮宗の聖地のひとつ。この肖像画のオリジナルは惜しくも戦争で焼失してしまって現存しないが、御舟が模写したということは、本門寺の秘宝にふさわしい由緒正しいものであったのだろう。この鬼気迫る表情に、日蓮という人の強固な意志がみなぎっているではないか。模写でありながらその霊力まで写し取ったような御舟の気迫に圧倒される。

そして、御舟の命は翌年、1935年で突然途絶えてしまう。腸チフスであった。絶筆となった「円かなる月」。皇居前の松にかかる月を描いたものであるらしい。習作を経て最初に仕上げた作品は、日記には「松図失敗改作に決す 心動揺を覚えずにいられぬ」とあることから、一旦破棄されたことが分かっており、この2作目は6日間で仕上げたとのこと。もちろん彼はこれが最後の作品になるとは思っていなかったに違いない。だが、「炎の舞」ではあれだけ濃く、それだけに強い吸引力のあった闇が、ここでは薄ら明るい月夜であり、「名樹散椿」ではあれだけ逞しく繁茂していた木の枝が、ここでは細く弱々しい。変わらぬものを持ちながらもスタイルを変遷させてきた御舟が最後にこの世に残したものは、ある種の枯淡の境地を示す小さな作品であった。
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このように速水御舟の画業には驚くべき面が多々あり、今後も人々に訴えかける作品群であると思う。40年の短い生涯でこれだけの実績を残した画家はそうはいないだろう。「炎舞」だけが御舟ではなく、だが一方で彼の才能を凝縮させた奇跡的な作品が「炎舞」であったのだということを、改めて実感することとなった。未だご覧になっていない方は、今週末、山種美術館に走られたし!!

# by yokohama7474 | 2016-11-28 23:46 | 美術・旅行 | Comments(0)
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ミュンヘンに本拠地を置く世界一流のオーケストラ、バイエルン放送交響楽団とその首席指揮者、ラトヴィア出身のマリス・ヤンソンスの演奏会、前日のミューザ川崎に続き、今度はサントリーホールに足を運んだ。これは、オーケストラファンならば誰もが聴いてみたいと思うような内容で、曲目はただ1曲、マーラーの交響曲第9番ニ長調なのである。この曲は演奏に1時間半を要する文字通り晩年のマーラーによる畢生の大作で、生と死のはざまで葛藤する芸術家の姿を浮き彫りにする深遠な作品。聴く方もそうおいそれとは聴くことはできないし、演奏する方はまた、相当な覚悟がないと取り組むことができないだろう。このブログでも、この曲に関する記事は未だ書いていないと記憶する。上のチラシにも、「歴史的名演の予感。究極のシンフォニー!」とあって、その謳い文句は必ずしも誇張ではないのである。

会場は超満員ではなかったものの、集まったクラシックファンの熱気に満ちている。休憩なしの演奏会ということで、開演前にトイレに長蛇の列ができていたが、それを見て改めて男性比率の高いコンサートだなと思いました(笑)。私のようなオッサンたちも涙するマーラー9番。果たして歴史的名演なるか。マーラーのデスマスクも何かを語り出しそうだ。
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ここで少し歴史的事実を振り返ってみよう。この曲の日本初演は、1967年、キリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルによるもの。また、バイエルン放送響の来日時のこの曲の演奏としては、1975年のラファエル・クーベリックによるものが知られている。後者は、演奏終了後にコンサートマスターが感動のあまり泣きじゃくっていたと、どこかで読んだことがある。実はこの2つの演奏とも、今ではCDで聴くことができて、前者も、それから伝説の後者にしても、今の耳で聴くと、それほど驚くほどの超名演とも思えない。だが面白いのは、コンドラシンは旧ソ連ではもちろんヤンソンスの大先輩にあたる指揮者であったわけだが、西側に亡命してからはアムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団と親密な関係を築き、また、他でもないこのバイエルン放送響の首席指揮者に内定していたのだ。惜しくも急逝したためにその人事は実現しなかったわけだが、ヤンソンスにとっては、コンセルトヘボウとバイエルンという2つのオケで接点のある指揮者であるわけだ。これも何かのご縁だろう。

もちろん、音楽が始まってしまえば過去の事実も何かのご縁も関係ない。虚心坦懐に耳を傾けてみよう。もともとこのヤンソンスという指揮者は、決して感傷的なタイプではなく、とにかく明快な推進力を持って音楽を解き放つタイプ。今回は、持ち味の明快さを充分に保ちつつも、弦の中音域が極めて充実した深い内容であり、過度な感傷を排した音のドラマとして、大変高い次元に達した名演であったと思う。中でも、一貫して第2ヴァイオリンの積極性が印象的であり、全身で音楽への没入を示す奏者たちから、あたかもメラメラと炎が立ち昇っているようにすら感じた。奏者をしてここまで燃えさせるのが、ヤンソンスの持つ音楽家としての並外れた力なのだということを、改めて実感した次第である。解釈に奇をてらったところは全くないが、例えば第2楽章の終結部、ピッコロを中心とする弱音が2度繰り返される箇所は、そこだけ少しテンポを速めたように聴き取られ、細部の彫琢を感じさせた。第3楽章でも、目まぐるしく移り変わる音楽的情景を巧みにコントロールしていた。もちろん第1楽章で絶叫、諦観、憧憬、絶望、恐怖という感情のカケラの数々が渦を巻いて次々現れる点、終楽章で深々とした呼吸が引き継がれて途絶えない旋律が歌われる点、いずれも見事であり、まさに真っ向勝負でのマーラー演奏であった。繰り返しだが、ここには過度の感傷はない。ひたすら純度の高い音のドラマが展開していたのである。オーケストラ演奏の醍醐味が満載であり、恐らくは世界でも最もマーラーに対する耳が肥えていると思われる東京の聴衆も、この熱演に惜しみない大きな拍手を送っていた。思うに今回のコンサートマスターは、演奏後に泣きじゃくることはなく、きっと胸を張ったことだろう。これは、例えばバーンスタインがベルリン・フィルとのただ一度の顔合わせでこの曲を採り上げて達成したような「歴史的名演」という範疇ではないだろうが、オーケストラ音楽のひとつの極致に迫る名演として、長く語り継がれるであろう。

もちろん、こんな演奏のあとにアンコールなどあるわけはない。だがその代わり(?)、なんとヤンソンスのサイン会があったのだ。基本的にCDの購入者のみ参加可能ということであったので、前日にアルプス交響曲の新譜を購入した私は、一瞬躊躇した。私と同じように前日CDを購入したという男性は、なぜ昨日サイン会をやらなかったのかと、激しい口調で係の人につっかかっていたが、「マエストロが、今日だけサインしようとおっしゃったので・・・」とのこと。そういうことなら仕方ない。私は、ヤンソンスとバイエルンの、幻想交響曲のCDを購入した。実はこれ、カップリングがエドガー・ヴァレーズの「イオニザシオン」という、ヤンソンスとしては異色のレパートリーであったことから選択したものだ。終演後には大変に長い列ができたが、マエストロはきっちりと背広にネクタイといういで立ちで登場し、丁寧にサインをしてくれた。
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前回の記事で披露したものから、実に30年を経て再び手にしたヤンソンスのサイン。相変わらずきっちりしたもので、ちゃんと名前が読めますよ(笑)。バイエルンとの契約は確か2021年までだったと思う。ということは、このコンビでの来日はまた期待できるということだろう。次はどんな曲目を採り上げてくれるのか、楽しみに待っていることとしたい。

# by yokohama7474 | 2016-11-28 00:27 | 音楽 (Live) | Comments(15)

川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。


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