e0345320_22120873.jpg
名古屋フィル (通称「名フィル」) は日本の地方オケの雄のひとつ。通常は頻繁に東京公演を行っているわけではないが、今回は上記のチラシにある通り、昨年の創立 50周年を記念しての演奏会で、指揮を取るのは昨年 4月からこのオケの音楽監督を務める小泉和裕。会場にはそれを示す展示物の数々があり、楽団の歴史を刻む様々な演奏会の写真も展示されている。
e0345320_22213391.jpg
e0345320_22240388.jpg
尚、名フィルの 1年前、1965年に創立された東京都交響楽団はこのコンサートの前日、音楽監督大野和士の指揮で名古屋公演を行っており、チケットの販売など、両楽団の間で協力が行われたようである。これはなかなか意味深い試みではないだろうか。会場にはその大野からの花環も展示されている。
e0345320_22281622.jpg
その名フィルが東京公演に選んだ曲目は、ブルックナーの大曲、交響曲第 8番ハ短調。今年は年初からブルックナーの演奏会が多く、1月にもこの小泉が件の東京都交響楽団を指揮しての 5番を採り上げた。だが今回はブルックナーが完成させた最後の交響曲であり、壮大で深遠な傑作、第 8番。指揮者もオケも、実に身の引き締まる思いで演奏に臨んだことであろう。ちなみに、最初の発表では (上のチラシの通り) 使用楽譜はノヴァーク版とのことであったが、指揮者の意向により、事前にハース版へと変更が発表された。ブルックナーの楽譜の版の問題は非常に複雑で、私自身も正直よく把握していないが、第 8番の場合、ノヴァーク版がブルックナー自身がこの曲を改訂した際の意図に最も近いとされるが、その改訂自体が他人の意見をもとにしているという説があるので、ややこしい。もちろん、その改訂以前の第 1稿や、第 2稿であっても今日ではまず演奏されない「改竄版」というひどい名前の版もある。だが、いわゆる第 2稿のハース版とノヴァーク版の違いはほとんどが細部に存在しているので、耳で聴いてはっきり何が違うということもあまりない。だから、どの版がどうのこうのという議論は、学者と一部マニアにお任せしよう。ただ、指揮者による版の選択は避けて通れないことであり、小泉の師であるカラヤンもこの曲の演奏にはハース版をいつも使用していたようだ。70歳に近づきつつある小泉が、現在の手兵とともにどれだけ感動的な音楽を奏でるかが楽しみであった。
e0345320_22465070.jpg
全体を通した印象では、推進力と音の美しさに満ちた熱演であったと思う。いつものように暗譜で指揮をする小泉の腕の動きは明確で、曖昧さは皆無。その一方で、纏綿と情緒たっぷりに歌うというよりは、強靭な歌がずっと続いているという印象であった。冒頭の低音の響きはあまり重すぎず、テーマが空間を切り裂くように出てくる場面の方により力点が置かれていたようだ。その音色の指向は全曲で見られ、重く暗いブルックナーではなく、高音域がドラマを導き出すブルックナーであったと思う。名フィルも技術的に安定した演奏であり、東京での見せ場を充分に作ったと言ってよいであろう。

最近の小泉は国内での活動に特化しているように思われるが、日本のオケの水準がこのように上がってくると、それはそれで意味のあることであろう。できればほかの国内オケとの組み合わせでも聴いてみたいものである。

# by yokohama7474 | 2017-03-20 23:05 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_21282446.jpg
昨年の 9月に名古屋で勅使川原三郎 (てしがわら さぶろう) 演出による「魔笛」の上演が行われたのは知っており、首都圏でも上演されることも頭に入っていた。だが、月日の経つのは早いもの。ふと気づくと神奈川県民ホールでのこの上演まであと僅かという日程に迫っていた。しかも、週末とはいえ会社の予定が入る可能性はあるし、巨匠ピアニスト、アンドラーシュ・シフのリサイタルもあるし、いろんな要素が絡み合っていたのであるが、直前になってなんとか今日のチケットをゲットして見に行くことができたのである。

上記の通り、いちばんのお目当ては、勅使川原三郎の演出である。勅使川原は言うまでもなく日本が世界に誇る前衛ダンサー。このブログでも何度かその名前に触れているが、なんと言っても、今年 1月23日付の本拠地カラス・アパタラスでの公演に関する記事において、私の彼に対する熱烈な思いのたけはぶちまけておいた (笑)。この記事は一生懸命書いたのに、本当に悲しいほどにアクセスが少ないので、ここでもう一度宣伝する。文化に興味のある人なら彼のダンスは必見なのである。
http://culturemk.exblog.jp/24073769/
e0345320_21545175.jpg
その勅使川原がオペラの演出をする。随分以前にオーチャードホールで上演された井上道義指揮の「トゥーランドット」で演出をしていた記憶があるが、私はそれを見ていない。だが彼の経歴を見ると、海外 (ヴェネツィアやエクサン・プロヴァンス) ではバロックオペラの演出をしたり、2015年にはパリのシャンゼリゼ劇場で「Solaris」というオペラにおいて台本・演出・美術・照明・衣装を手掛けたという。これはもちろんあの「惑星ソラリス」の原作によるもので、作曲は藤倉大。あぁ、なんということ。 日本人のクリエーターたちによるその作品が日本で上演されていないとは、国家的な恥である。どこかの団体が採り上げてくれないものであろうか。これがその演奏のカーテンコールの写真。右から 3人目が勅使川原。その左が藤倉。そして右端が、今回の「魔笛」でも大活躍の、勅使川原のもとでずっと踊っている佐東利穂子。
e0345320_21513928.jpg
さて、「魔笛」は言うまでもなくモーツァルト晩年のメルヘンオペラである。ジングシュピールと言って、ドイツ語による歌芝居の形式で書かれているので、音楽のない場面で歌手がドイツ語で演技をする場面が頻繁に登場する。なので日本での上演では、そのセリフのところだけ日本語にするケースもある。例えば 2010年の二期会の公演 (指揮 : テオドール・グシュルバウアー、演出 : 実相寺昭雄) ではそのような方法を取っていて、歌はすべて原語のドイツ語でありながら、演技の部分では日本語が使われていた。指揮者もオーケストラも演出もその他スタッフも全員日本人の中で、唯一の外人である指揮者はどんな感じなのだろうと思って見ていた記憶がある。この言葉の問題はなかなかに難しく、セリフだけ日本語にすると、どうも話の流れが不自然に聞こえてしまう部分があるし、かと言ってドイツ語だと、日本における公演であれば、それはそれで何か隔靴掻痒の感を否めない。今回の上演ではその折衷的な方法が取られた。すなわち、歌はもちろんすべてドイツ語であるが、芝居の部分は一切排して、その部分のストーリーの展開を語り手が日本語で語って補うというもの。この方法ゆえに、「魔笛」にしては上演時間が短かった (14時に始まり、25分の休憩を経て 17時に終了)。だが、やはりこれも物足りない。このオペラになじんだ人間にとっては、特にパパゲーノが喋らないのはやはり淋しい。喋りすぎた罰として口枷をはめられる箇所や、パパゲーナが老婆として現れては消える場面は芝居を見たいし、また、首を吊ろうとしてパンフルートを手に「1、2、3」と数えるところはやはり、「アイン・・・ツヴァイ・・・・・・ドラーイ」でなければ!!

その一方、この上演方法のおかげで、音楽だけに集中して聴くことができたという面もあった。実は今回の上演、歌手陣と合唱団は二期会の人たち。手元に上述の 2010年の上演プログラムを持って来て比べてみると、ザラストロの大塚博章、タミーノの鈴木准、パミーナの嘉目真木子という主要キャストが今日の公演と全く同じ。また、今回の夜の女王は、前回もダブルキャストとして、私が見た日とは違う日に歌っていた安井陽子。逆に言うと、今回の上演は、二期会の主要歌手がずらりと出演するレヴェルの高いものであったと言える (ところで二期会はそれ以外でも最近では 2015年に宮本亜門の演出で「魔笛」を上演していて、そのときのキャストも今回と多くが重複する)。今回特に私の印象に残ったのは、まず、もともと芸達者でよく知られる、パパゲーノ役の宮本益光。本当はベラベラ喋って欲しかった。
e0345320_23112419.jpg
それから、パミーナ役の嘉目真木子 (よしめ まきこ)。母親の夜の女王とその敵にあたるザラストロの狭間で翻弄されながらも、一途にタミーノに思いを寄せる芯の強さを表現して素晴らしかった。
e0345320_22344455.jpg
さて今回の上演、勅使川原三郎は、演出だけでなく、装置、照明、衣装を担当している。と言っても装置は、何もない空間に何種類もの金属のリングが上がったり下がったりするだけのもの。極めてシンプルであるが、リングの動きそのものは、上下だけでなく、くるくる回ったり位置関係が変わったり、かなり複雑。第 1幕では大小 9つのリングが登場し、第 2幕の開始部分では舞台全面に円弧を描くような巨大なリングが圧倒的。以下は名古屋での公演から。
e0345320_22412521.jpg
e0345320_22421707.jpg
e0345320_22423451.jpg
スタイリッシュな空間なのであるが、そこに出てくる歌手たちは奇抜な衣装をまとっていて、なんともおかしい。上の真ん中の写真でボーリングのピンのように見える (笑) 2人は、ザラストロおつきの神官であり、いちばん下に見える 3人のベイマックス (笑) は、パパゲーノを導く童子たちなのである (今回は子供ではなく女性が歌っていた)。いずれも印象的だが、特にボーリングのピン風の神官の衣装は動くのもなかなか大変そうで、もし転んだら収拾がつかないほどの危険と隣り合わせなのだ!! これらは極めて単純な造形であるが、発想の源泉は、モダニズムの旗手でバウハウスでも教鞭を取っていたオスカー・シュレンマーではないのかなぁ、などと勝手に想像するのも楽しい。私はシュレンマーの大ファンなのである。
e0345320_23060020.jpg
だが、このモノスタトスの衣装はどう説明しよう。両腕は体の後ろからニュッと出てくる仕組みなのである。通常の怖いモノスタトスとはちょっと違った雰囲気だ。
e0345320_23075200.png
そして勅使川原の演出なので、当然のごとくダンサーたちが登場する。中でも、ソロで踊りながらも場面場面で語り手としてセリフ代わりのストーリーの説明をする佐東利穂子は、文字通り勅使川原の片腕。以前私が見たダンス・パフォーマンス「青い目の男」でも彼女の朗読を使っていたが、今回は実際に舞台で口元にマイクをつけての語りであったようで、これは大変だったのではないか。その声は淡々としていて、過剰な情緒をまとっていないところがよい。
e0345320_23163585.jpg
オペラの中であちこちにダンスが入るというのは、私は正直なところ、あまり好きではない。今回も (以前武満徹の「秋庭歌一具」の上演についての記事でも書いた通り) 場合によっては音楽自体の流れを乱してしまう面があったと思う。一方、第 2幕の群舞で、ダンサーが一人一人、倒れては起きる振付を見たときは、若き日の勅使川原自身の踊りを思い出してよかったし、荘厳な音楽にもよく合っていた。全体として見て、勅使川原の演出には何か決定的に素晴らしいというものは感じなかったが、理屈っぽくならずに新たな挑戦をしている点には好感を持った。

忘れてはならないのは、川瀬賢太郎指揮の神奈川フィルの演奏である。この指揮者は 1984年生まれと未だ大変若いのであるが、この神奈川フィルの常任指揮者を務めている。序曲の冒頭、古楽風の硬い音のするティンパニが耳に入ってきて、新鮮に響く。主部に入ってからの疾走する感じもなかなかよい。順調な滑り出しだと思ったが、その後も一貫して実に若々しさ溢れる清新な音楽で、きめ細かく歌手たちをリードした。なかなかの手腕である。川瀬と神奈川フィル、今後注目しよう。
e0345320_23251257.png
そんなわけで、今回の演奏は、歌手も合唱団も指揮者もオケも演出家もダンサーも、全員が日本人。意欲的な試みには拍手を送りたい。

# by yokohama7474 | 2017-03-18 23:26 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_23453148.jpg
今回の記事は短くなりそうだ。理由のひとつは、明朝は早く起きる必要あること。もうひとつの理由は、残念ながら私はこの映画を面白いとは思わなかったことだ。だがまぁ、どのような映画であったのか、記録のために書いておこう。まず題名だが、「アサシン」とは暗殺者のこと。「クリード」は宗教上の信条のことで、クラシック音楽を聴く人なら、ラテン語のミサ曲に「クレド」(Credo) という曲が必ずあって、よく「信仰告白」などと訳されているのをご存じだろうが、きっとその言葉が Creed の語源だろう。15世紀スペインの暗殺者の子孫が、先祖の記憶を辿る特殊な装置によって時間を遡ることを強制される物語であることは予告編で明らかだが、見てみるとこれは、アサシン教団 (これは実在した集団のようだ) と、陰謀論ではおなじみのテンプル騎士団の確執を描いたもの・・・のようだが、正直なんだかよく分からない (笑)。身も蓋もない言い方をすると、このストーリーはあまり私の人生に関係ないという思いが、映画の最初から最後までついて回り、時にウトウトと夢の世界に落ちて行くことになってしまったのだ。だが、何を隠そう、私は陰謀論は大好きで、テンプル騎士団についての本は真面目なものから与太話本まで何冊も読んでいるし、ロンドンのテンプル教会も大好きなのである。その私が感情移入できないのだから、やはり内容に問題があるのではないだろうか。アサシン教団の戦士たちは、あたかもこのワシのように空からダイブするのだが・・・。
e0345320_01203252.jpg
実はこの映画、ゲームに基づく作品らしい。私はゲームをしない人間なので全く知識がないのだが、ゲームの主人公にもともとイメージのある人なら、この映画に対して、また違った見方ができるのであろうか。
e0345320_00350761.jpg
映画には様々な設定があるが、どこまで行っても所詮は虚構の世界。最近はリアルなドキュメンタリータッチの秀作も数々あれど、それらとても、あるいはさらに言えば、ドキュメンタリー映画ですら、映画である以上、そこには虚構の要素が色濃く存在しているものというのが私の考えだ。だから、見る者がその嘘に浸っていられるか否かという点が、良い映画と悪い映画を区別する分かれ道であると思う。その点、この映画のそこここに、嘘が嘘として放り出されているのを私は感じる。例えば、主人公を祖先の世界に戻すというアニムスなる巨大な機械が主人公をガッチリと抱えることになるのだが、過去の世界で主人公の祖先が敵と戦う動きを、そのまま現実世界でアニムスにつかまれた主人公が再現することになる。ここで現代の主人公の戦う姿を映す理由は何であろうか。正直ちょっと煩わしいし、また、俊敏に動く主人公の祖先は、当然ながらでんぐり返りなどもするのであるが、おいおい、背中にはアニムスを背負いながら、どうやってそれを現実世界で再現するのか!! (笑) なにせこんな感じなんだから。
e0345320_00535581.png
このような嘘が気になる映画は、残念ながら私は評価できないのである。ストーリーもさしてひねりはなく、敵味方が奪い合う対象物も、一体なぜそんなに価値があるのか、その説得力に乏しい。それから、アサシン教団、テンプル騎士団双方の仲間うちの結束や人間同士の感情、歴史的使命等についての説明が少なすぎる。戦闘シーンは玉石混淆という感じで、カッコよく敵をなぎ倒すシーンもあるが、あまりカッコよいと思えない殺陣もある。主役のマイケル・ファスベンダーは、ドイツ人とアイルランド人の間に生まれた人らしく、私は過去にもいくつか彼の出演作を見ているはずだが、正直あまり印象にない。ここでも、惚れ惚れする快演か否かは、意見の分かれるところではないか。
e0345320_00483550.jpg
ただ、ほかの役者陣はなかなかに豪華である。まず、先に見た「マリアンヌ」の演技も記憶に新しい、マリオン・コティヤール。ここでは全く違った顔を見せる。そして、さすがに年老いたと思うが、あのジェレミー・アイアンズがその父親役を演じている。
e0345320_00551836.jpg
e0345320_00560134.jpg
そして、おぉこれはなんと久しぶり、テンプル騎士団の幹部を演じているのは、あのシャーロット・ランプリングではないか!! 既に 70を超えているが、ご健在で何より。ただこの映画での彼女の役柄には、それほど印象的なシーンはない。
e0345320_00575620.png
それから、ロケ地で 2ヶ所、私の好きな場所が出てきたので簡単にご紹介。ひとつはセヴィリアの大聖堂。これは非常に規模の大きい建物で、「後世の人たちが、アイツらは気でも狂ったのかと思うくらいデカい聖堂を建てよう」という意図で作られたという。だが、広い場所に面していないので、現地を訪れてもなかなか雄大な姿の全容を見ることができない。ただ、中には有名な場所がある。そう、コロンブスの墓所である。4人の王の彫刻が棺を担いでいる。またその横には、巨大な聖クリストバル (もちろん、コロンブスのファーストネーム、クリストファーと同じ名前) の壁画があって、これも忘れがたい。私がこの地を訪れて既に 20年が経つが、その感動は忘れがたい。
e0345320_01063740.jpg
e0345320_01084060.jpg
もうひとつは、ロンドンにあるフリーメーソンのグランド・ロッジ。映画の中ではテンプル騎士団の集会場という設定になっているが、イメージ的にはぴったりだ。私はこの建物の前を何十回も通ったことがあって、それは、ホルボーン界隈からコヴェントガーデンのロイヤル・オペラに向かう途中にあるからだ。内部の見学もできるようだが、そう言えば中に入ったことはないなぁ。もしかすると、この映画でのテンプル騎士団の集会のシーンも、ここで撮影しているのだろうか。それとも、さすがにあんなに広いホールはないのかな。今度ロンドンに行く機会があれば覗いてみたいものである。
e0345320_01155895.jpg
さてこの映画、終わり方はいかにも次回に続くといった風情である。もし次があるなら、映画単体として楽しめるクオリティで作って欲しいと、心から願うのであります。...結局あまり短い記事にはならなかったなぁ(笑)。

# by yokohama7474 | 2017-03-17 01:26 | 映画 | Comments(0)

e0345320_00093954.jpg
このブログで採り上げるのは初めてになると思うが、私は韓国映画が大好きである。と言っても、いわゆる韓流ドラマや K-Pop というものには一切知識・関心がなく、ただ「JSA」「シュリ」で日本の観客にも驚愕を持って迎えられたドラマティックな韓国映画の流れにガツンと脳天をやられたということなのである。私の場合、恋愛映画は好奇心のレーダーには入って来ないので、スリラー、サスペンス、ホラー系が中心ということになるが、忘れられない韓国映画がいくつもある。その中で、もちろん「ブラザーフッド」も異常なくらい素晴らしい出来であると思うが、なんと言ってもカンヌでグランプリを獲得した「オールドボーイ」に全身総毛立った観客のひとりである。その作品の監督は、パク・チャヌク。既に上に名前の出た映画では「JSA」の監督でもある。その後、「親切なクムジャさん」は DVD で見て、それはもう、のたうち回って悶絶するくらい痺れたのであるが (笑)、その次に見た彼の作品は、ハリウッドに進出してニコール・キッドマンとミア・ワシコウスカを起用した「イノセント・ガーデン」。その作品は、だが、残念ながら彼にしては若干大人しいかな、という印象であった。そこに 3年ぶりの新作登場である。しかもこの映画、上にある通り、「成人指定で全世界、異例の大ヒット」なのだそうだ。確かに日本でも R18+ という指定になっている。ええっ、そうなんだ。私は劇場で、「18歳以上ですか?」とは訊かれなかったけどなぁ (笑)。これが監督のパク・チャヌク。松尾貴史ではありません。
e0345320_00063213.jpg
実際に内容を見てみると、なるほど R18+ 指定はやむないだろう。だがそれは、別に性的な意味でアダルトということだけでなく、この映画の面白みを本当に楽しむことができるのは、よほどの早熟な天才でない限り、18歳以上の人たちだけだと言ってもよいと思うからなのである。舞台は 1939年、日本統治下の韓国。ある日本人の富豪のところにお手伝いでやってくる若い韓国人女性が、彼女が仕えるお嬢さんと、お嬢さんに言い寄る男性との間で陰謀に巻き込み、巻き込まれるという話。145分の大作で、全体は 3部からなるが、それぞれの部分で違った角度から経緯が描かれ、観客の感情移入を手玉に取るような狡猾な作り。見ていて飽きるということは全くなく、ストーリーを追うだけで充分面白い映画である。ここで主役のスッキ = 日本名珠子を演じるのは、1990年生まれのキム・テリ。この作品のためのオーディションで 1500人から選ばれたとのことで、これまで演技経験はほとんどないらしい。劇中では非常に素朴に見える役柄を演じているが、そこは女優。きれいにメイクすると、それはそれはきれいなのである。
e0345320_00071925.jpg
e0345320_00105634.jpg
一方のお嬢さん役を演じるのは、キム・ミニ。1982年生まれで、高校時代から活躍している韓国のスターであるらしい。彼女がこの映画の中で見せる表情は実に多彩。おー、女は怖いのぅ (笑)。この感想はまさに、この映画の感想自体でもあるのだが。
e0345320_00143516.jpg
e0345320_00144379.jpg
この映画の成功は、ひとえにこの二人の凄まじい女優魂に負っているものと思う。よく日本では女優がエロティックな場面を演じることを、体当たりの演技などというが、なんのなんの、本物の女優たるもの、体当たりは当たり前なのではないか。あるいは、女優がヌードになるに際し、「必然性があれば」などと言うこともあるが、なぜにそんな言い訳が必要であるのか。この映画を見ていると、女優たちの渾身の演技に圧倒され、我が国と彼の国の芸能界の成熟度の違いに思いを致すのである。劇中とオフステージでの二人。まるで姉妹のようではないか。
e0345320_00315991.jpg
e0345320_00321023.jpg
ストーリーの面白さは上述の通りだが、この映画には美術を含めた細部の演出に監督の才能が光っている。現実にはあり得ないような、大広間の畳を部分的に上げるとそこに水がたたえられていて、巨大な盆栽や、ミニチュアの枯山水の庭を置くことができる構造も、映画ならではの虚構空間としてよくできているし、あるいは、二人の女優がそれぞれに大きな荷物を持って、屋敷の中の障子を順々に開けて行くシーンのリズム感なども、まさに映画的としか言いようがない。そしてつまるところ、この映画のストーリーにおけるミスダイレクション自体にはそれほど驚かないが、細部に宿る貪欲な制作意欲が、二人の女優を最高に輝かせていることに気づく。それから何と言っても、「オールドボーイ」の目をそむけたくなるような残虐シーンに常にユーモア精神が表れていたように、この映画におけるエロティックなシーンにも、必ずユーモアがある点にも注目しよう。これらすべて、パク・チャヌクの非凡な手腕であると思う。

ユニークなことに、この映画における使用言語は、設定上やむを得ない面もあるのだが、かなりの部分が日本語なのである。なにせキム・ミニは突然東北弁を喋ったりするのである!! 主要な役柄の人たちには日本人はいないので、正直、我々日本人から見ると言葉の点ではちょっと無理があると感じざるを得ないのだが、それはこの映画の持つ価値においては些細なこと。また、日本語の使用にもうひとつの意味があるとすると、主人公が朗読をする場面で、日本の放送禁止用語が沢山出て来ることであろう。これ、日本の映画では絶対できません (笑)。そのような言葉と、後半頻繁に出て来る日本製の春画の映像は、根がうぶな私 (?) にとっては、若干苦痛であったことは正直に告白しよう。だが、繰り返しになるが、そのような面を笑いに絡めている点こそ、この映画がポルノとは一線を画している明確な理由なのである。だからこの映画をご覧になる方は、エロティックなシーンで大いに笑って頂きたい。それが大人の視点でこの映画を楽しんでいる証拠になると思うし、人間の生き様の尊さと馬鹿馬鹿しさを同時に感じる瞬間になると思いますよ。

実はこの映画、原作は英国のサラ・ウォーターズの「荊の城」という小説である。日本で「このミステリーがすごい!」で 1位になったらしい。私がこれまでに読んだ彼女の小説は「半身」という作品だけで、詳細は覚えていないが、かなり面白かったと記憶する。なぜ私がその本を読んだかというと、その表紙に、私が溺愛するイタリア・ルネサンスの画家、カルロ・クリヴェッリの作品を使用していたからだ (そのことは、昨年 11月 3日付の、「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展に関する記事においても触れた)。この「荊の城」も翻訳が日本で出ていて、上下二巻のうち上巻は、このような表紙である。これは誰の作品だろうか。さすがに手だけでは分からないが、スペインかイタリアの肖像画であろう。
e0345320_00535206.jpg
私としては、久しぶりに見た韓国映画の素晴らしさに大満足。今後公開が予定されている面白そうな韓国映画がいくつかあるので、また時間を見つけて見に行ってみたいと思っている。

# by yokohama7474 | 2017-03-16 01:00 | 映画 | Comments(0)

e0345320_22583180.jpg
2017年も始まって早くも 1/5 が過ぎようとしている。だが考えてみると、その間に海外からのオーケストラの来日は幾つあっただろうか。新年のウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団を除くと、恐らくは現在相次いで来日している、ハンブルクに本拠を置く NDR エルプ・フィル (旧北ドイツ放送響)、プラハ交響楽団と、それからこのベルリン・コンツェルトハウス管が、今年初めての本格的な外来オケの一群なのではないだろうか。今後、上半期全体にまで目をやっても、5月のフィルハーモニア管、6月のブリュッセル・フィルとドレスデン・フィルくらいしか思いつかない。ほかにもあるかもしれないが、いずれにせよ、上記の中には初来日の団体や若干渋めの団体もあり、超一流外来オケ猛襲来という感じはない (笑)。もっとも、秋以降になると、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス、ボストン響、ロンドン・フィル、チェコ・フィルなど、ビッグな名前が目白押し。シュターツカペレ・バイエルンもオペラの来日とともにオーケストラコンサートを開くし、なんとも過酷なスケジュール繰りを強いられることは必至なのである。

ともあれ、このベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の演奏会だ。上のポスターでも明らかな通り、2日前に行われた上岡敏之指揮新日本フィルによるマーラー 6番の演奏会とセットになっていて、「すみだ平和祈念コンサート 2017」と銘打たれている。この 2つのコンサートが捧げられる対象は 2つの悲劇。ひとつは 2011年の東日本大震災であり、もうひとつが 1945年の東京大空襲であることは、上記コンサートの記事に既に記した。いずれがいずれと明記はないものの、今回のコンサートの顔ぶれは、第二次世界大戦でやはり灰燼と帰したドイツの首都ベルリンのオケとユダヤ人の指揮者が、ドイツの音楽であるワーグナーとユダヤの音楽であるマーラーを演奏することに意義を見出すことを考えれば、東京大空襲の犠牲者に捧げられるべきとも思われる。その一方で、今回演奏されたマーラー 5番は、これも以前の記事に書いた通り、大震災当日にこのホールで演奏された曲目でもあるのだ。平和な時代に安心して音楽を聴くことができる我々は、幸せなのである。ここで改めて曲目を書いておこう。
 ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

壮大で濃厚な音響が鳴り渡る、素晴らしいプログラムである。今回演奏するベルリン・コンツェルトハウス管は、聞き慣れない名前かもしれないが、旧東ベルリンに存在したベルリン交響楽団の現在の名称である。昔からのファンなら、巨匠クルト・ザンデルリンクの指揮した録音の数々を思い出すだろう。名称のコンツェルトハウスとは、以前の名前はシャウシュピールハウスというコンサートホールのこと。ドイツ新古典主義を代表するカール・フリードリヒ・シンケルの設計による建築。それこそ戦争で焼けてしまったが、戦後元通りに再建された、このように壮麗な建物である。
e0345320_01053709.jpg
ここは東ベルリン地域であり、ベルリンの壁崩壊後にあのバーンスタインが世界の一流オケのメンバーを集めて第九を演奏したのはこのホールであったし、東西ドイツ統一後まもなくの頃、ベルリン・フィルハーモニーホールが改修で閉鎖されていたときには、ベルリン・フィルの定期演奏会の会場にもなっていた。かく言う私も、初めてベルリンを訪れた 1992年、このホールでジュリーニやバレンボイムの指揮するベルリン・フィルを聴いたものだ。だが、建物自体は非常に素晴らしいのだが、肝心の音響は残念ながらよくなかったと記憶する (当時のコンサートマスターの安永徹もそのような発言をしていた)。今では改善されているのであろうか。

そして今回指揮を取るのは、かつて 2001年から 2005年までこのコンツェルトハウス管の首席指揮者を務めた、イスラエル出身の指揮者、エリアフ・インバル。日本でも既におなじみの指揮者であり、とりわけそのマーラー (とブルックナー) 演奏は、東京においても他を絶する偉大な足跡を刻んでおり、80歳になった今も精力的に活動する巨匠指揮者である。
e0345320_01142946.jpg
繰り返しだが、とにかく曲目がよい。そして指揮者がインバルと来れば、期待が高まるのを抑えることはできない。そして今回の演奏、大変深く心に残るものであったと断言しよう。そもそもインバルは、どちらかと言えば爆演系であり、きっちりアンサンブルを整えた流れのよい演奏よりは、マーラーの場合には特に顕著な、音楽の中の矛盾する要素をそのまま取り出して見せ、大きな弧を描いて劇性を強調するタイプである。指揮ぶりは決して華麗ではなく、私は以前から彼の指揮姿は、「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」だなぁと思っているのであるが (笑)、ここに来て彼の芸風は一段と凄みを増してきたように思う。今回の演奏では、それをはっきりと再確認することができた。最近の東京でインバルを聴く機会が多いオケは、もちろん東京都交響楽団 (通称「都響」) なのであるが、都響の、芯がありながら艶やかな音とは違い、このコンツェルトハウス管の音は、もっと渋くて地味で重めである。だが、「トリスタン」冒頭のチェロが鳴り始めたとき、極度の緊張や洗練はないものの、何かどっしりとした確信のようなものが感じられ、はっとした。この音楽は彼らの内部の深いところから響いている。頭で考えてきれいに弾こうとか情緒を表現しようとか思っているのではなく、彼ら自身の血の中にあるものを、そのまま出している。なんと大人の音だろう!! と思ったのである。このワーグナーの「トリスタン」前奏曲と愛の死という絶品は、私としても当然、限りなく心酔している曲であり、過去にも様々な演奏で体が震えるような感動を覚えてきている。今回の演奏は、超絶的な名演ということではないにせよ、この音楽の持つ怪しさと強さを巧まずして表したという点で、これからも長く記憶に残ることだろう。時に人間心理のひだの奥を抉り出すような深い音も聴かれ、気負いも衒いもなく、この凄まじい音楽の神髄を聴かせてくれたと思う。

メインのマーラーは、これまたインバルの面目躍如である。引き続きオケの音は、華麗とは言えないが独特の味わいがあり、冒頭のトランペットの表情づけも、若干地味ながら、やはり素晴らしい。私はこのブログでマーラーの演奏についての記事を書く際、時に「表現しがたい違和感」に触れることがある。これは私個人の感想なので、言葉で説明するのは難しく、異論も承知の上なのであるが、マーラーの音として鳴って欲しい、そんな音のイメージがあって、音楽が進行して行く中で、指揮者によってはその響きに違和感を感じることがままあるのである。ところがインバルの場合には、そのような違和感を感じることは一切なく、まさにマーラーの音があるべき姿で常に鳴っているという、そういうイメージなのだ。天性のマーラー指揮者と言うべきではないだろうか。喧騒が渦巻き、陰鬱な世界苦が表出され、絶叫や絶望や、だがそこからまた沸き起こる希望や、圧倒的な勝利の凱歌や壮麗な人間賛歌など、様々な感情や音楽的情景を強烈な色彩で描いたマーラーの音楽を、これだけ仮借なく描き出す指揮者が、バーンスタイン以降何人いただろうか。しかもその指揮ぶりは、「ちぎっては投げ」なのにである (笑)。もちろん私は、違うタイプのマーラー演奏も好きで、例えばマゼールの、例えばアバドの、あるいはメータやヤンソンスやシャイーや、それぞれの指揮者にそれぞれの持ち味があることは当然知っている。だが、インバルのマーラーには何か特別なものがあり、多くの人はその演奏にただただ打ちのめされるのである。しかしながら、今回の演奏で唯一、少し疑問符がついたのは、終楽章の中間あたり。まずこの楽章の冒頭で木管が旋律を受け渡して行くとき、クラリネットが少し詰まってしまった。それでケチがついたとは言わないが、その後トランペットが入りを間違えるシーンもあり、少し緊張感に隙が生じたように思い、このオケがいわゆる一般的な意味での世界の超一流という存在ではないことを想起してしまったのは、正直残念であった。だが、瞠目すべきはその後の終盤までの追い込みである。上記の通り、音が華麗とか艶やかではない分、その音楽には一貫した強い個性があり、大団円では聴く者すべてに鳥肌を立たしめるような勢いにまで達したことで、多少の技術的な問題など雲散霧消してしまった。これぞまさに生演奏の醍醐味。かくして終演後は、素晴らしい指揮者と素晴らしいオケの共同作業に、心からなる喝采を送ることになったのである。

ひとつ書き忘れていたが、このオケのコンサートマスターのひとりは、日本で読売日本交響楽団 (通称「読響」) のコンマスも兼任している、日下紗矢子。このように大変華奢な人なのだが、既に読響の数々の演奏会でも実証している通り、音楽に敏感に反応してオケを引っ張るリーダーとしての素晴らしい才能を持っている。今回は「トリスタン」でトップ、マーラーではサブを務めたが、今回の演奏の成功には、彼女の貢献も大きかったと思う。2008年からこの地位にあり、子育てしながら日欧で活躍しているというスーパー・ウーマンなのである。
e0345320_01470431.jpg
会場には、2005年にこのホールで開かれた、同じ指揮者とオケ (但し名称は未だベルリン交響楽団であったはず) による「すみだ平和祈念コンサート」の際のサイン入りの写真が掲示されていて、興味深い。
e0345320_01493576.jpg
また、なんと、会場限定販売という CD も 2,000円で販売しているので早速購入した。曲目は、フェルッチョ・ブゾーニの「踊るワルツ」という珍しい曲と、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲。聴くのが楽しみだ。
e0345320_01524631.jpg
改めて思うに、東京の聴衆は本当にインバルに感謝しなければならない。彼のおかげで、どれだけマーラーの神髄を経験することができているか。80代の指揮活動の中で、またさらに円熟味を増して行くことを期待しましょう。

# by yokohama7474 | 2017-03-14 01:55 | 音楽 (Live) | Comments(0)