ゼロの未来 (テリー・ギリアム監督 / 原題 : The Zero Theorem)

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東京という街はすごいところで、ありとあらゆる文化に触れることができる。映画に関してもしかり。シネコンだけ追っていては見逃してしまうような作品も、こまめに探せば、あるわあるわ、まさに百花繚乱の感がある。テリー・ギリアムの新作、「ゼロの未来」も、うっかりすると知らないうちに上映終了してしまうところであったが、なんとか見ることができた。なにせ、東京で上映しているのが、恵比寿ガーデンシネマと新宿武蔵野館というのだから面白い。後者も好きな映画館だが、今回は上映時刻の関係で、前者で見ることとした。おー、なんとも懐かしい。昔はもっと頻繁に足を運んだものだったが、最近ではトンとご無沙汰だった。

ネット上の評価を見るに、この映画については否定的な見解が多いように見受けられるが、私としては、この鬼才が未だに見事な職人魂と特殊なヴィジョンを保っていることが確認できて、こんなに嬉しいことはない。このような映画を作り上げるには、相当な体力、知力、忍耐力が必要に違いない。もちろん、資金力も。

主人公が暮らすのは廃墟そのものの教会で、ほとんどその中でストーリーは展開する。この教会以外のシーンと言えば、主人公の職場、パーティの会場と、一見ブレードランナー風、つまりアジア風だが、2階建てバスで明らかな通りのロンドンの風景くらいである。あ、それから、主人公の妄想世界。主演のクリストフ・ヴァルツは、まさに怪演、終始緊張感を保った演技が圧巻だ。あと、「グランド・ブダペスト・ホテル」にも出ていたらしい若手俳優、ルーカス・ヘッジズが素晴らしい。この映画のセリフはかなり手が込んでいて、字幕ではそれが充分伝わらない感がある。映画をストーリーでしか見ない人には、このような映画のセリフを逐一辿って欲しい。簡単な一例を挙げると、英語の一人称は単数と複数を区別するが、二人称にはその区別がないということだ。すなわち、主人公は自分を We と呼び、対する人たちは彼 (ら?) を You と呼ぶのだが、ここに英語のミステリーがある。個人が一人のときには意見の違いはないが、二人の集団になった瞬間に意見の違いが生じる。よって一人称の単数と複数は区別される。一方で、自分以外の世界という点では、他者はすべてひっくるめて一つの人格と考える理由がある。よって二人称はおおざっぱになり、単複の区別すらない (因みに三人称になると、今度は性別という細かい区別が生じる次第である)。主人公の人格が破たんしていると考える必要はないように思うが、電脳 (今やレトロな響きを帯びた言葉だ) とリアルという二つの人格を表しているのかもしれない。

映画のテイストとしては、もちろん「未来世紀ブラジル」を思わせるところもあるが、それよりもむしろ、「バートン・フィンク」ではないだろうか。電脳世界と現実世界とでどちらが奇妙キテレツかというテーマが描かれているが、そこには明らかに、主人公の汗がにじんでおり、なんとも人間的。その一方で、デヴィッド・シューリスの役柄などは、とんでもなくシュールで、そのギャップが面白い (パーティで「虎の衣装を着ている」と言いながら、実際にはほとんど狸の衣装だったのを見て、ケラケラと笑ってしまった)。その意味で、「バートン・フィンク」との共通点を見出すことができる。そう言えば、主人公の名前はコーエンだ (笑)。

昨年 NHK BS で、モンティ・パイソンの復活ライヴをやっていた。そのあまりにも下品なことに驚きつつ、1人を欠いたモンティ・パイソンのメンバーが、昔のネタを使いながら縦横無尽に動き回るのを見て、大層感動した。テリー・ギリアム。その下品な表現者としての人生に、拍手を送りたい。
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ところで、ひとつ気になることがある。この映画でマネジメントと呼ばれる経営者は、マット・デイモンではないのか。ところが、映画のプログラムを探しても、一言もそれに言及されていない。まさかそっくりさんか。いやいや、「インターステラー」の場合にも、思わぬところで思わぬ役柄で出ていた彼のこと。一流のジョークに違いない。エンドタイトルでは、出演者の表示は見逃したものの、"Assistant to Mr. Damon" という表記があったので、間違いないとは思うのだが・・・。

by yokohama7474 | 2015-06-08 00:31 | 映画 | Comments(0)