ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本響 (Pf : デニス・マツーエフ) 2015年 6月11日 サントリー

テミルカーノフと読響の 3つ目のプログラム。

プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26 (Pf : デニス・マツーエフ)
ショスタコーヴィチ : 交響曲第10番ホ短調作品93

である。会場に到着すると、何やら張り紙が。同じ内容がプログラムにも挟んであって、なんでも、今日付でテミルカーノフが読響の名誉指揮者に就任するとのこと。
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上の写真では、指揮者のメッセージが切れているが、まあ、何も面白いことは言っていない。大変名誉だ。今後ともよい関係を続けたい。そのような淡々とした実務的な内容だ。読響は、桂冠名誉指揮者にスクロヴァチェフスキ、名誉指揮者にマズアとロジェストヴェンスキー、そして新たにテミルカーノフということになる。平均年齢は何歳になるだろうか。いずれにせよ、この名指揮者がこのようなタイトルを受けてくれたことは、東京の音楽界にとっては素晴らしいことだ。

そしてこの「披露コンサート」が華やかなものになったかというと、答えはイエス。但し、専ら前半においてだ。デニス・マツーエフ恐るべし。
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以前、ゲルギエフとマリインスキーの来日公演で彼のラフマニノフの第 3コンチェルトを聴いて驚愕したが、今回のプロコフィエフも実に鳥肌立つ超絶技巧。圧巻は終楽章で、めまいを覚えるようなめまぐるしさの末に、最後の和音を叩いてそのまま立ち上がった様子が、あたかも打鍵の勢いがあの巨体を突き上げたかのように見えたものであった。但し、まだ続きがあって、アンコールの 1曲目にリャードフの小品。抒情的で、オルゴールのような懐かしい響き。で、2曲目のアンコールが、どう聴いてもキース・ジャレットだ。かつての彼の即興を再現したものかと思って終了後の表示を見ると、なんと、「A列車で行こう」。確かにそれ風の旋律が出てくる箇所はあったものの、ほとんど原型を留めていなかった。ロシアの音楽家がロシアの音楽のあとにジャズを演奏する!! これは音楽のグローバル化と呼んでよいものだろうか。

さて、メインのショスタコーヴィチであるが、いつもにも増して抑制した指揮ぶりで、第 1楽章の冒頭から、暗い音の動きが凄まじい説得力。ただ、聴き進むうちに思ったのだ。この曲は、こんなに静かな箇所が多かっただろうか? 私にとっては、カラヤンの新旧両盤を学生時代に相当聴きこんだ、なじみの曲。聴きながら、心のうちで全曲を口ずさんでいる。それでも、なぜか今日の演奏は、見慣れた風景が急によそよそしく感じるような違和感があった。狂気の嵐のように駆け抜ける謎の終楽章も、鮮やかには終わったものの、カタルシスはない。これは、ロシアの指揮者による音楽のローカライゼーションなのか。名誉指揮者就任お披露目公演であるにも関わらず、終演後の指揮者に笑顔はなかった。その後、お得意のエルガー作曲エニグマ変奏曲から「ニムロッド」が演奏され、ようやくカタルシスが訪れたのである。

ショスタコーヴィチは、公的ステイトメントとして交響曲を書き、個人的な思いを弦楽四重奏曲に託したと言われてきた。ところがこの交響曲10番は、教え子の女性への恋情をテーマにしているという説が最近定説化しているという。ええっ、それって、「スターリンの死後に発表された初の交響曲で、政治的な抑圧やスターリンの肖像を描いた」という従来の整理とは、かなり違うではないの。ただ、もともとショスタコーヴィチ自身を表す音列のこの曲での多用は知られていて、何等かの個人的要素が含まれているという理解はあったわけだ。あまり意味を深追いしても仕方ないかもしれないが、聴けば聴くほどに謎めいてくる彼のシンフォニー。実際この後、11番、12番はまた革命を題材にした「公的」な内容となり、13番、14番では、あの当時のソ連の政治情勢では無謀と思えるほどの悲劇性、厭世性が迸り、そしてこの上なく謎めいた 15番で、彼のシンフォニーは終わるのだ。複雑な社会情勢が、天賦の際を弄んだということか。

ともあれ、テミルカーノフには、まだまだ元気で読響を振りに来て頂きたい。あ、そう言えば、以前、ロシアの音楽家が東京に集結していると書いたが、もう一人いました。アレクサンドル・ラザレフ。日本フィルの首席指揮者としての最終公演だろうか、明日、明後日と、やはりショスタコーヴィチの 8番をメインとするプログラムを振る。残念ながら聴きには行けないのだが。
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by yokohama7474 | 2015-06-12 00:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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