田能村竹田 出光美術館

田能村 竹田 (たのむら ちくでん) について私が知っていることは、時に遠近法を取り入れた文人画の大家だということくらいで、細やかな筆致の作品のイメージはそれなりにあるものの、まとめて作品を見る機会には恵まれなかった。今般、画家の没後 180年を記念して、出光美術館で18年ぶりという展覧会が開かれているので、出かけてみた。あとで知ったことには、出光美術館は 200点もの竹田の作品を所蔵しているらしい。今回の出展作は 50点程度だから、これでも 1/4 ということか。大したコレクションだ。
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竹田は、1777年 (安永6年)、今の大分県竹田市に生まれ、1835年 (天保6年) に大阪で亡くなっている。何せ名前が「竹田」だけに、生地の今の地名 (「たけだ」ではなく「たけた」と読むらしい) と関係があるのかと考えてしまうが、どうなのだろうか。藩医の息子だったが、藩の財政難で経済的には苦労したとのこと。作品を見ているとそのようなことはほとんど感じられず、中国、宋伝来の南画 = 文人画の伝統に則って、自然や、その一部であるかのように小さく描かれる文人の姿が、実に粋な印象である。実際に作品を見てみると、全体が大きな曲線を描いていて、写実的ではないものの、山や川の実在感を感じることができるが、細部を仔細に観察するのはなかなかに困難だ。今回、展示品の前のガラスに部分アップの画像が貼られていたため、全体像と細部を比べることができたのはよかった。例えば、出品作で唯一の重要文化財、梅花書屋図の全体像と、その中ほどより少し下の部分に描かれた建物と人物を見て頂こう。
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よく見るとなかなかに人間的である。その人間性を証明するかのように、交友関係も豊かで、頼山陽、浦上玉堂、青木木米、上田秋成ら、その時代を代表する文化人たちと交わったという (儒学者の大塩平八郎とも親交があったと説明文があって驚いたが、調べてみると、平八郎が乱を起こして自害したのは、竹田の没後 2年経ってからのことであった)。竹田の絵に添えられた、何やら難しそうに見える賛の中には、詩情あふれる漢詩もあるが、誰々さんがやってきてこんな話をしたとか、酒を飲んだとか、最近ご無沙汰だとかいうカジュアルな事柄が書いてあることも多く、何やら微笑ましい。今回は、親交のあった青木木米の京焼の幾つかが展示されており、また、竹田が木米を京都に尋ねた際に描いた自分と木米の肖像画もあって、なんともくつろいだ雰囲気があってよい。左が木米、右が竹田。
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「あー、ちょいとね、木米さん」
「なんどす、竹田はん」
「なんだか眠くなってきましたな」
「うむ。そらあかん。気つけに酒でも飲みますかいな」
「いやいや、まだ茶を飲み終わってないでしょ」
「お、せやったせやった。なら、もうちょいこのままで鶯でも聞いてまひょか」
(沈黙)
「ところであなたの名前は、『きごめ』さん?」
「ちゃうちゃう、『もくべい』や。そういうあんたは、『たけだ』さんやね」
「ええっと、そうじゃなくて、『ちくでん』なんで・・・」
(2人、あくび。鶯が一声鳴く)
・・・なんていう感じですかね。

また、竹田はいわゆるモノトーンに近い南画だけの画家ではないことが分かった。結構細かく動植物をスケッチしていており、カラフルなものもある。これらも中国画に範を取ったものであるようだ。
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江戸時代の画家にもいろいろいるが、その多くがユーモラスな個性を持っていることに改めて思い至る。この豊かな文化を大いに楽しみ、大いに誇りたい。そのためには、自由な感性で坦懐に絵を眺めることだ。観る側としても、作り手の自由な精神に少しでも近づきたいと、今回の展覧会でつくづく思ったことである。

by yokohama7474 | 2015-07-07 00:15 | 美術・旅行 | Comments(0)
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