尾高忠明指揮 東京フィル (ピアノ : 児玉桃、カリン・ケイ・ナガノ) 2015年 7月 12日 オーチャード・ホール

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7月の東フィルは、10日から17日までの 8日間に、新国立劇場で「蝶々夫人」を 5回演奏しながら、桂冠指揮者、尾高忠明の指揮で 3回のコンサートを行った。しかも、チャイコフスキーとマーラーの最後の交響曲を演奏するというハードな日程だ。もっとも、このオケは合併を経て巨大な規模を持っているため、オペラに出る楽員と定期演奏会に出る楽員とに分かれているからこのようなことができるのであろう。新国立劇場専属という当初の目標は達成されていないものの、このオケの日常活動においてオペラは大きな比重を占めており、序曲や協奏曲の伴奏などで、そのことから来るメリットを感じる瞬間が増えてきたように思う。この日の 1曲目、モーツァルトの歌劇「後宮からの逃走」K.384 序曲でもそのことを実感できた。

さて、ソリストはピアニスト 2名。曲は、モーツァルト作曲 2台のピアノのための協奏曲変ホ長調K.365 である。ソリストは児玉桃と、カリン・ケイ・ナガノ。このナガノさんは、1998年カリフォルニア州バークレイ生まれとある。これは誰がどう見ても、日系アメリカ人の名指揮者、ケント・ナガノと、その夫人、ピアニストの児玉麻里との間の娘だろう。隠しても無駄だ (いや、誰も隠してないって・・・)。児玉麻里は児玉桃の妹だから、この 2人、叔母と姪という関係になる。あとで調べてみると、カリンが去年日本デビューを果たしたという記事を、児玉桃が書いているのを発見。
http://www.momokodama.com/MOMO/momo-journal.html
さて肝心の演奏であるが、正直言うと、叔母さんさすが、姪っ子は今後頑張れという感想であった。

メインはチャイコフスキー : 交響曲第 6番ロ短調作品74「悲愴」。大変な熱演で、充分満足の行く公演ではあったが、本当の意味での絶望感には今一歩というところか。まあもちろん、この曲の聴きどころは絶望感だけではなく、多彩な魅力があるのであるが、演奏会の最初からずっと舞台奥にしつらえられているドラが、2時間の沈黙を破って最後に 1回だけ、どぉーんと響く場面は、視覚的にも効果がある。このドラの一撃は、大きすぎてもいけないし、弱すぎるのはもってのほかだ。長く尾を引いて消えて行く音でなければならない。消えて行くドラに、幻聴のように聴こえてくるのは、第 1楽章のドラマであり、第 2楽章の甘美な感傷であり、第 3楽章の激しい生の息吹きであり、第 4楽章で溜息のさざ波のように寄せては返す絶望感、つまり、ひとつの交響曲のすべて、一人の人間の一生のすべてが、このドラの一音に込められているように思うのだ。今回の演奏では、ドラの音には文句はないが、そのときフラッシュバックするそれまでの時間の切実感に、今一つの隙があったのではないか。

さて、この日のコンサート開始のちょうど 1時間前、13時頃に会場の渋谷 Bunkamura の駐車場待ちをしていると、信号のないところで道路を横切って、私の車の前を歩いて東急本店に向かう、頭の大きい初老の男性を発見。着ているものは、なんとも表現の難しい、煮しめのような褪せた青色の T シャツに、確か G パンで、足元は恐らくサンダルではなかったか。記憶が曖昧だが、要するにそのくらいカジュアルで、うーんっと、言葉を選ばずに言うと、ボロを着たような印象のオジサンだったのだ。と、次の瞬間、私の脳が認識した。「マ、マエストロ尾高・・・」そうなのだ、モーツァルトの洒脱な世界とチャイコフスキーの劇的で絶望的な世界を 1時間後に描き始めるはずのマエストロが、究極のカジュアルで暑い日差しの中を歩いていたのだ!! これにはちょっと複雑な気持ちがしたことは否めない。これまでにも、小澤征爾や大野和士が、コンサート前に私服で歩いているのを見たことがあるが、今回の尾高さんのカジュアルぶりは強烈だった (笑)。いやもちろん、私は以前 BBC ウェールズ響を指揮した演奏会を聴いて以来、この指揮者を尊敬しているし、今回の演奏会で、最後のドラの音に T シャツと G パンの幻影を見ることはなかったが、もう少し普段の恰好に気を付けられてもよいように思った。それとも、芸術家とはそのように、凡人の気にする恰好のことなど、どうでもよいのであろうか。今後の研究課題となった。


by yokohama7474 | 2015-07-16 00:07 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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