ヘレン・シャルフベック - 魂のまなざし 東京藝術大学大学美術館

フィンランドの女流画家、ヘレン・シャルフベック (1862 - 1946) の、日本初の回顧展である。東京藝術大学の付属美術館では、通常古美術や日本の作品が展示されることが多いのであるが、今回は珍しくも欧州の画家である。
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いろんな展覧会に行けば行くほど自分の無知と向き合うことになるのだが、それでも、これまで未知であった画家についてのなんらかのイメージを持つに至ると、少なくとも無限の無知の少しの部分が既知になるわけで、それはなんとも素晴らしいことだ。いろんな巡り合わせの中での経験と知識の蓄積が、自分の人生を豊かにしてくれることは間違いない。今回はそんなことを改めて思わせる、心に残る展覧会であった。

シャルフベックの人生は淡々としたもので、世界の歴史と切り結ぶ勇敢な行為もなければ、美術界を震撼させた新表現の開発もない。フィンランドという、長らく帝政ロシアの支配下にあった欧州の最果ての国のひとつにおいて、結婚もせずに母親と暮らした女性。容貌からは、理智の光を目に湛えながらも、大変おとなしい性格の女性というイメージが浮かんでくる。ただ、会場で解説を読んでいるうちに、いろいろな画家からの影響を受けたのみならず、生前から国際的に認められた画家でもあったことが分かってくる。以下のポスターで使用されている作品は、「回復期」と題された 1888年の作品。彼女はこのときわずか 26歳であるが、この作品がパリのサロンに出展されると、フィンランド芸術協会が買い取りを決め、翌年のパリ万博での銅メダル取得によって、彼女は国際的な名声を得たとのこと。
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面白いことには、この穏やかで微笑ましい、例えば米国のノーマン・ロックウェルすら思わせる作品が、実は失恋の大きな痛手 (フランス滞在時に英国人芸術家と婚約したにも関わらず、それが破棄された事件) から回復して行く自分を描いたとされているらしい。この画面から、そのような悲壮感を伺うことは難しい。ということは、大変に意志の強い人であり、また自分をある程度客観的に見ることができる人であったのではないだろうか。

シャルフベックは、3歳のときに階段から落ちて左腰に怪我を負い、一生杖を手放せない人であったとのこと。そのようなハンディキャップはしばしば人に一見内向的、だが実は意志の強い性格をもたらすものである。女流画家で、やはり事故でハンディキャップを負い、それを創作活動の原動力にした人として、すぐに思い出すのがフリーダ・カーロであるが、彼女が激しさを剥き出しにした闘争の人生を送ったのに対して、シャルフベックの穏やかさは全く対照的である。メキシコとフィンランドの風土の違いもあろう。だがそれ以上に、画家としてのメンタリティの違いであると思う。

さてこのシャルフベック、作風の変遷を辿ると面白い。初期の頃の作風は、私にはやはり、ロシアの 19世紀の絵画にいちばん似ていると思われる。例えばこの、「雪の中の負傷兵」という作品。今にもチャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」の「レンスキーのアリア」が聴こえてきそうではないか。ご存じない向きは、往年の名テノール、ニコライ・ゲッダの歌う映像をどうぞ。
http://video.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A2
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しかしその後シャルフベックの作風は、控えめながらもあれこれと変わって行く。一目見て分かる、ゴーギャン風、ホイッスラー風、ルオー風、シャヴァンヌ風、ルドン風、セザンヌ風・・・。だが、最も重要なことは、いかなるスタイルを取っても彼女の本質は変わらないことだ。この展覧会の副題にある、魂のまなざし、いささか大げさに響くかもしれないが、この言葉は本当によくこの画家の本質を見抜いているものだと思う。彼女の生きた時代 (因みに、フィンランド最大の芸術家で国民的作曲家シベリウスは 1865年生まれなので、彼女と同世代だ) は、帝政ロシアからの独立や世界大戦のあった時代。世界が火花を散らし、殺し合っていた頃、彼女は常に変わらぬ視線で人や風景を眺め、その無垢な視線に映るものを描いたのだ。本展覧会の会場を歩いていてそのことに気づくと、なんとも心に深いものが沸いてくる。声高に叫ばずとも、ひとつのメッセージを世界に発し続けた画家の姿が、ここにある。

但し、シャルフベックに全く社交性がなかったかと言えば、決してそうではなかったようだ。若い頃にはフランスのポン・タヴァンにいたという。これは、ゴーギャンを中心とする芸術活動が行われた場所。また、英国コーンウォール半島のセント・アイヴズにもいたらしい。ここはヴァージニア・ウルフが幼少期を過ごした場所であり、後年はバーナード・リーチや濱田庄司が移り住んだ芸術家村だ。シャルフベックは、そのような芸術家が集まる場所で貪欲に様々な表現を吸収したであろうし、また、後年フィンランドの片田舎に閉じこもった頃にも、パリから最先端の芸術雑誌を取り寄せて研究していたらしい。一見穏やかな作風の裏に、常にたゆまぬ努力があったということだろう。

最後に、この画家のもうひとつの側面に触れておこう。さて、以下の絵は誰の手になるものか。
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そんなの簡単だ、上がヴェラスケスで下がホルバインだろうって? 実はこの 2点とも、シャルフベックが 1894年にウィーンに滞在した際に模写したもの。なんと達者ではないか。この技術の素地があるから、いろんなスタイルを試してみることができたのだろう。ところで調べてみると、ウィーンの美術史美術館は、この 3年前、1891年に一般公開したばかりだ。クリムトを中心としてウィーン分離派が設立されるのは、これより 3年後、1897年のこと。また、うたかたの恋で有名なオーストリア皇太子のマイヤーリンクでの情死は、5年前の 1898年だ。そんな風雲急を告げるウィーンの政治・文化情勢の中にシャルフベックを置いてみるのも、なかなかに楽しい。その魂のまなざしは、混沌とした大ハプスブルクの首都で、一体何を見ていたものであろか。

by yokohama7474 | 2015-07-20 23:50 | 美術・旅行 | Comments(0)
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