北川 民次展 瀬戸市美術館 / 長久手古戦場

北川 民次 (1894 - 1989) のファンである。北川は 1914年に米国に渡ってアート・ステューデンツ・リーグに学び、1921年にメキシコに渡った。1936年に帰国してからは愛知県瀬戸市に居を構え、二科会の会長も務めた日本洋画界の重鎮である。私の場合、彼のメキシコ時代の作品が、かの地の巨匠たち、すなわち、リベラ、シケイロス、オロスコなどの影響を如実に示す力強い作風であるので、もともとこれらメキシコ絵画に大いなる興味を持った高校時代から、北川にも大変な共感を覚えたものだ。今年は彼の生誕 120年。ゆかりの瀬戸市でそれを記念して、110点もの作品が展示されているというので、出かけてみた。私はまた、日本の地方美術館というものが好きで、ガラーンとした中に郷土ゆかりの有名無名の作家の作品が人待ち顔をして並んでいるという雰囲気に、なんとも Intimate な感情を抱いてしまうのだ。
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今回は、この瀬戸市美術館 (北川のアトリエもここに移築されているという) と瀬戸信用金庫の所蔵品の展示であるということ。最も古い作品は 1930年代まで遡るが、ほとんどが 1950年代以降のものだ。それらの中には、地元の風景を描いたリトグラフや壁画などが含まれる。これは、「瀬戸の母子像」という作品。
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また、これは焼き物のまち瀬戸市という土地柄を表す、「陶工たち」という作品。
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彼の造形は、力強い描線によって働く人たちや静物を大きく描くことで、常に生命力の横溢する画面を創り出す。レジェやピカソの影響と、壁画で有名なメキシコの巨匠たちからの影響のミックスと考えれば分かりやすい。その意味で、瀬戸という土地に根を据えて長い人生を送ったこの画家の創作人生を垣間見るには充分な展覧会だ。

だが。だがである。私がこれまでいろいろな美術館や本で見てきて、心から共感している北川 民次の絵画は、残念ながらこの程度のものではない。やはり若い時代、メキシコで描いたものが彼の創作活動の頂点であったと思う。例えば、国立近代美術館の所蔵する 1931年の作品、「ランチェロの唄」はどうだ。
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あるいは、名古屋市美術館所蔵の「トラルパム霊園のお祭り」。1930年の作だ。
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うーん。一見して違いは明らかだ。ただならぬ雰囲気を放つ作品たちだ。残念ながら今回の展覧会では、このレヴェルの作品に巡り合うことはできなかった。まあ、地元密着の美術館の企画として、そのローカル性を楽しむべきだと割り切ればよいのであろう。

さて、その後名古屋市内への移動の途中、長久手古戦場に寄ってみた。歴史上、小牧・長久手の戦いと呼ばれていて、小牧と長久手はすぐ隣接しているのかと思いきや、なんのなんの、この 2つの場所は、直線距離でも多分 30km はあるのではあるまいか。小牧は名古屋の北、長久手は東である。この戦いは、要するに本能寺の変で信長が討たれたあと、清州会議を経て、その後秀吉が天下を取るまでの間の戦いのひとつで、徳川家康・織田信雄連合軍と相対したもの。秀吉は家康に一目置いていたらしいが、この戦いでも徳川・織田を尾張に封じ込めようとしたところ、思いのほか苦戦を強いられ、和議に持ち込んだという経緯がある。ここ長久手では、1584年、徳川軍が豊臣軍に大勝利を収め、秀吉の甥である秀次 (後年、秀頼誕生後、高野山で蟄居の後秀吉から切腹を命じられる、かの仁だ) は敗走したとのこと。そう、日本の覇権を巡る英傑たちの戦い。この長久手には、そのような歴史の重みを感じさせる何かがあるはずだ。炎天下の木洩れ日に、石碑が重々しい。
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古戦場自体は公園になっていて、当時の戦場を縮小して、実際の山を築山で表している。なかなかに面白い試みだ。
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さて、資料館があることを発見。ちょっと覗いてみよう。うーん、随分と古い建物で、昭和も 40年代くらいのものではないのか。と、入口に年期の入った案内図が。
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な、なにー。「長久手古戦場いこいの広場」・・・??? 英傑たちの命を賭けた戦いの場で、あ、あろうことか、「いこい」を感じてしまってよいものだろうか。うーん。ともあれ、資料館の中に入ってみると、なにやらジオラマが。
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戦い当日の兵の動きを解説する、いかにも昭和な雰囲気の男性ナレーターの声が。BGM は、まあいろんなところで聴く羽目になっているが、チャイコフスキーの悲愴交響曲の第 1楽章と第 3楽章です。「年代から考えて、カラヤンの EMI 盤かな」などと、根拠のない推測を独りごちる。その他、甲冑とかほら貝とか采配とかが展示されていたが、何も当日使用されたというものではなく、あくまでイメージ上の演出であった模様。

どうもここは、かつての激戦を思わせるようなものは何もないので (まあ考えてみればそれは無理な話でもある。話に聞く関ヶ原のキッチュな武将人形でも置かない限り)、開き直って、いこいの場所としての再利用が企図されたということか。若干複雑な気持ちを抱いて園内をなおも歩いていると、こんな看板が。
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あー。火縄銃は危ないからダメということですな。了解しました。歴史に思いを馳せるのは、また別の場所でのことと致します。


by yokohama7474 | 2015-07-23 00:58 | 美術・旅行 | Comments(0)
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