音楽劇「靑い種子は太陽のなかにある」 (脚本 : 寺山 修司 / 演出 : 蜷川 幸雄) 2015年 8月23日 オーチャードホール

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この作品は、劇作家、詩人であった寺山 修司の没後 30年を経過した 2013年に見つかった未刊行の戯曲 (1963年作) を、蜷川 幸雄が採り上げたものである。上のチラシの写真にあるように、寺山も蜷川も 1935年生まれで、今年生誕 80年を迎える。それにしても、蜷川は有名な演出家だし、寺山の人気は一部で根強いものの、あの 2,000人規模の大ホール、オーチャードホールで、実に 21日間で 24回の上演をするだと? そりゃムチャよ。きっと劇場カラガラよ。と思って会場のトイレに行くと、ほら言わんこっちゃない。1階の何十人も使える広い男性トイレが、ほぼ私の貸切だ。何十回もこのホールに来ているが、こんなことは初めてだ。まあ、ゆったりした気分で用を足せるのは何よりだが、あーあ、こんな集客でどうする!! ・・・と心配する私はなんと愚か者か。この芝居の主役は、今を時めくジャニーズの亀梨 和也なのだ。
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いや私も、まさかこのブログで、亀梨のアップを使おうとは夢にも思っていなかったが (笑)、このブログを愛読頂いている方で、彼を絶対知らないだろうという人も何人かいることから、決意した次第。まあともかくこの芝居は、何の誇張もなく、98%は女性客だ。先のハインツ・ホリガーの演奏会を老若男女と表現したが、この芝居は、老若女だ。凄まじい女性集客力 (かく言う私自身、家人へのサービスでこの観劇に至ったという要素がないわけではない)。ただ。ただである。寺山 修司のアングラ性について、この観客たちは理解しているのか。見てみてびっくり、卒倒するようなことにはならないか。開演前、ソワソワしていたり、ニコニコしていたり、または「なんだか緊張するわぁ」と、あまり根拠がない緊張感 (心配せずとも、亀梨君は君のところには来ないって!!) を口にしていたり、いやそれぞれの女性客の期待感の膨れ上がり方たるや、尋常ではないのだ。特に、1階の最前列に陣取った女性たちは、もうすぐ達成される亀梨との至近距離での邂逅に有頂天で、もはや究極の勝ち組、人生の頂点の風情。並み居る後列の人たちを、憐みと優越感の混じった視線で振り返っていた (やや誇張)。

私にとって寺山も蜷川も、若干微妙なところのある存在だ。寺山の映画は、封切で見た「さらば箱舟」以外にも、代表作である「書を捨てよ街へ出よう」や「田園に死す」も名画座で見たし、彼の前衛映画 (「トマトケチャップ皇帝」とか「一寸法師を記述する試み」とか) は、全作品の市販ビデオを、未だに大切に持っている。また、句集、詩集を含めた著作も何冊か読んでいるし、青森に旅行したときには、当然、寺山修司記念館に足を運んだ。従って、彼の創作活動についてのイメージは明確に持っているのだが、ではそれを好きかと問われると、若干言葉に窮してしまう。グロテスクさや土俗性が、時に本能的な反感を起こすこともある。また、寒い東北の地で母の愛を求める少年像という、ある種の閉塞感に、うんざりすることもあるのである。また、どこかの誰かに、「寺山修司好きですか? えー、私も大好きなんですよー」と明るく話しかける気にならない、そういうタイプの芸術家だと思う。でもまぁ、やっぱり心のどこかに響くものがあるのは事実。
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さて一方の蜷川だが、それほど多くの作品を見たことがあるわけではないし、ほとんどがシェイクスピア劇だが、正直、あまりいい出会いをしていない。最悪だったのはオペラの演出で、小澤征爾の指揮するワーグナーの「さまよえるオランダ人」の演出がひどくて、目の前がクラクラしたのだった (あれ以来オペラは手掛けていないのではなかろうか)。さて、今回、寺山の戯曲という異色作品の演出を、いかに捌くのだろう。

ストーリーは以下の通り。スラム街にマンションができることとなり、その建築現場で朝鮮人の人夫が墜落死してしまうのだが、その死体がマンションのコンクリートに埋められ、事故は隠蔽されてしまう。それを目撃した若い男、賢治は、人夫の埋められた場所の壁にチョークで太陽を描き、コンクリートから死体を取り出そうと周りの人々に訴えても取り合ってもらえず、恋人の弓子 (高畑 充希) との仲もギクシャクする。最後はスラムの人たちの気持ちを動かすことができるが、死体の掘り出しには至らず、弓子が不慮の死を遂げてしまう。スラム街でのマンション建設を政治の道具にする代議士や、日々の生活に退屈する肉感的なその娘などが少し絡んでくるものの、非常に簡単なストーリーだ。おっと忘れていたが、音楽劇の体裁を取っており、今回はなんと松任谷 正隆が全編に曲を書いていて、ジンタ調でがなりたてられるスラム街の人たちの歌から、賢治のもどかしい思いを表すドラマ性のある歌、恋人たちの抒情的なメロディまで、なかなかそつなくこなしていたと思う。

さて、この芝居をどのように受け止めるべきか。私に分からないのは、1963年の寺山の真意がいずこにあったかということだ。もちろん、権威に対する反抗心はあったであろうし、社会の底辺の人たちへの共感もあったに違いない。でも、だからと言って、人知れず葬られた人夫の弔いを本気でしようとする若者、そんな素朴すぎるテーマを描いたのだろうか。少し思い込みかもしれないが、例えば、賢治だけが目撃したその墜落事故も、その人夫の存在自体も、賢治の幻想であったという解釈は成り立たないものだろうか。「靑い種子は太陽のなかにある」というタイトルは、寺山らしい非常に詩的な雰囲気があって、それは何も、正義を貫けとか、勇気をもって巨悪に立ち向かえという社会的なメッセージではなく、人間の生の哀しみを抒情的に描いているだけではないか。なので、私にとっては、そこに人夫の死体が埋められているか否かは重要ではなく、それを巡って賢治の思いが駆け巡っていることこそが重要なのだと思う。その観点から見ると、賢治役の亀梨の演技は、少し単純すぎたように思う。また、これはやむないのかもしれないが、明らかに舞台の発声が充分にできておらず、大声がただの大きな声で、少し枯れかけていた。それに引き替え、弓子役の高畑は、もともと舞台出身とのことらしく、明朗で舞台らしい発声であった。

この作品、封印されてしまった理由は不明だが、寺山自身は、大きな劇場でプロの役者が演じることすらも、あまり想定していなかったのではないだろうか。彼本来の土俗性があまり発揮されていない点、必ずしも「隠れた名作」とまでは言えないであろう。まあそう考えると、普段寺山のことなど全く知らない観客層に、新しい世界への入り口を示すという意味で、このような芝居の意義もあるのかもしれない。あ、すみません、亀梨ファンの方、どうぞお許しを!!


by yokohama7474 | 2015-08-24 00:38 | 演劇 | Comments(0)
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