上野公園 東照宮、清水観音堂、上野大仏、天海僧正毛髪塔、黒田記念館

上野公園。誰もが知る東京の名所だ。西郷さん、上野動物園・・・ええっと、それから???? 東京に住んでいる人でも、この場所の特殊性や見るべき場所を充分に知っている人はあまりいないと思う。先日、このエリアにある美術館を 3軒回ったので、追って記事をアップするが、その前にまず、上野公園について少し書いてみたい。その価値がある場所だからだ。

江戸幕府は風水を重んじて首都である江戸を設計した。その発想に基づくと、東北 (艮 = 丑寅 = うしとら) は鬼門の方角で、不吉であるため、何らかの守り神を置く必要があった。それゆえ、三代将軍家光の時代 (寛永年間) に、江戸城の鬼門の方角にあたるこの場所に、東叡山 寛永寺が設立された。寛永寺の江戸における格式は、増上寺と並んで極めて高く、その境内が現在の上野公園である。東叡山とは、東の比叡山ということ。比叡山は、言わずとしれた、伝教大師最澄が開いた天台宗の総本山で、寛永寺も天台宗なのである。なぜ天台宗なのか。それは、この寺を開いた僧、いや、江戸幕府の基礎を築くのに大きな貢献のあった僧、天海僧正が天台宗の僧侶であったからだ。
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この天海、1643年に 107歳で没したと言われているが、実際のところはその前半生は謎に包まれているらしい。それゆえ、ご存じの方も多いと思うが、あの本能寺の変で謀反により織田 信長を滅ぼした明智 光秀と同一人物であるという説も、かなり流布している。その前提は、本能寺の変の黒幕が家康であったということだ。それについてはいろいろ本も出ているし、ネットでも情報がいろいろあるので、ここでは省略する。ひとつ注意しなければならないのは、「天海」で検索すると、天海祐希が出て来てしまうことだ (笑)。

ともあれ、謎の僧、天海が開いた寛永寺は、幕末の動乱で焼失する。よく知られている通り、幕府側の彰義隊がここに立てこもり、明治新政府軍に壊滅させられた、いわゆる上野戦争だ。この戦争で討ち死にした彰義隊の若者たちは、政府に楯突いた逆賊であって、その死骸も長らく放置されていたという。今ではそのようなことを想像することも難しいが、上野の山の桜は、その死骸から養分を吸収して大きく育ったというふうに言われることもある。真偽のほどは定かではないものの、桜の花と死のイメージは日本人の感覚の中で不可分であるとも言える。梶井基次郎の「桜の樹の下には」が、その美学を端的に表している。

寛永寺境内が公園となったのは、上野戦争のわずか 5年後、1873年のこと。その後皇室の管理となり、1924年に東京市に払い下げられたため、正式名称は「上野恩賜公園」なのである。このような歴史を反映して、公園内には様々な歴史的建造物や遺跡が点在している。ただ、桜をはじめとして木々の緑が深く、見通しの悪いところが多いので、なかなかその全容がつかみにくいためだろう、そのような歴史的建造物が、その価値に比して、それほど知られていないのが残念だ。まず、是非お奨めしたいのが、上野東照宮だ。
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東照宮と言えば日光が有名だが、要するに家康を祀る神社はこの名前を持っているわけで、全国にはいろいろな東照宮がある。ここ上野東照宮に重要文化財の本殿があるのをご存じだろうか。恥ずかしながら、文化財マニアの私も数年前まで知らなかったので、あるとき行ってみたところ、修復中で見ることができなかった。最近修復が完了したと聞いていたため、今回、改めて行ってみることに。参道には全国の大名から寄進された大きな石灯篭がずらりと並んで壮観だ。
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ふと右を見上げると、これも重要文化財に指定されている五重塔が見える。今は上野動物園の域内に立っている。
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さて、いよいよ本殿に到着すると、なんともきらきらしい、素晴らしい建物ではないか!! 拝観料 500円を払って間近まで近づいてみる。内部は非公開であるものの、綺麗に修復された非常にカラフルな建物であり、彫刻もなかなかに凝っていて、しばし立ち去り難い印象を覚える。都心にこれだけの素晴らしい建物があることを、多くの人に知らしめたいものだ。
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もうひとつの重要文化財は清水観音堂だ。広重が浮世絵で描いた「月の松」が最近復元され、なかなかに見事な景色だ。
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それから、見逃してはならないのは、上野大仏だ。17世紀半ばに作られたが、度重なる災害によって、今や顔面のみとなってしまった。「これ以上落ちようがない」ということで、受験生が合格祈願に訪れるという。私も最初見たときには、ちょっと不気味な感じもしたが、今ではなんとも愛おしい思いを抱くようになった。現地には往年の全身のお姿の写真も展示されていて、何か心温まるものがある。
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さて、それ以外にもこまめに探せば面白い場所はいくつもあるが、是非ご紹介しておきたいのが、天海の遺髪を収めた石造の塔である。上野の森美術館の正面あたりにある。天海の波乱万丈の生涯を考えると、深い緑に囲まれたこの場所に、その霊力が未だに残っているような気がする。
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さて、美術館回りの前に、今年の 1月 2日にオープンしたばかりの、美術好きなら見逃せない場所をご紹介しよう。東京国立博物館の一部となっている (但し敷地は外で、東京芸大の方角に進んだ右側にある)、黒田記念館だ。この黒田とは、残念ながら (?) 黒田長政でも黒田官兵衛でもなく、明治を代表する洋画家で、「湖畔」や「読書」で知られる黒田清輝 (1866 - 1924) だ。この黒田記念館は、画家の遺言に基づき、美術の奨励事業に役立てるべく、1928年に建てられたもの。その組織は東京文化財研究所となり、近隣に移転したが、このレトロな黒田記念館は、岡田信一郎の設計になる貴重な建物として保存され、改修工事を経て、現在では黒田清輝の作品を展示している。この建築家、7月26日の記事でご紹介した通り、大阪、中之島の中央公会堂の基本的な設計をした人だ。調べてみると、既に取り壊された大阪高島屋や旧歌舞伎座、また、鳩山会館や、極め付けは重要文化財の明治生命ビルの設計者なのである。
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階段もこんなレトロな感じ。
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黒田清輝記念室は 2階にある。入口には、高村光太郎の手になる黒田の胸像があり、入ってみると、彼の作品と並んで、画家が使用したイーゼルなどが展示されている。
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展示されている作品はさほど多くないが、驚くほど美しい作品に出会うことができる。上の写真でも奥に見えている、「赤髪の少女」(1892) の存在感はどうだ!! 全く惚れ惚れとしてしまうほど美しい。西洋絵画でも、女性の後ろ姿を描いた作品は多いとは思えず、海外に門戸を開いた明治の日本の洋画家として西洋文明を貪欲に吸収するだけでなく、自らの個性を確立しようという姿勢が見える。原点は常に偉大なのだということを、改めて実感した。
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さて、黒田について調べてみると、なんと、福岡藩主黒田家の遠縁に当たるとのこと。なので、思い付きでその名を書いた長政や官兵衛の子孫筋にあたるわけで、しかも、貴族院議員にもなった立派な人らしい。大変お見それしました。画家というと、その多くは貧乏でハングリー精神に富み、激しい芸術活動の末にのたれ死ぬようなイメージがあるが、日本における西洋美術のごく初期にこれだけのレヴェルを達成した人が、そのような精神的なゆとりの中で生きていたと知って、その人生の充実ぶりを想像した。57歳で死去しているので、より長生きすれば、さらに新たな世界を創り出したのかもしれないが、それは言っても詮無いこと。せめて、このような新しく生まれ変わった施設で過去の芸術を堪能できることを喜ぼう。

by yokohama7474 | 2015-09-03 00:03 | 美術・旅行 | Comments(0)