ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2015年 9月12日 サントリーホール

別項の広上淳一指揮 NHK 響のコンサートのあと、こちらのコンサートにハシゴすることとなった。東京で起こっている文化的イヴェントを少しでも理解するため、時にはこのようなダブルヘッダーも辞さない覚悟が必要だ。なぜなら、これは必聴のコンサート。既に何度もご紹介しているイギリスの名指揮者ジョナサン・ノットと手兵東京交響楽団が、マーラーの大作、交響曲第 3番ニ短調を演奏するからだ。このオケのシーズンは 4月からなので、今回の演奏会はシーズン冒頭ではないが、どのオケにとってもこのような大曲の演奏には特別な思いが込められるものだ。会場に到着すると、以下のようなチラシがプログラムに挟まれている。
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なんと、2025/26 年シーズンまでというと、これから 10年先ではないか!! このクラスの指揮者を日本のオケがそこまで長期に亘って確保するというのは異例の事態だ。オーケストラ側としては、なんとかノットを確保したかったのであろうし、それを指揮者自身が受け入れないと、こういうことにはならないだろう。チラシには、ノットの言葉として以下が掲載されている。

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モーツァルトを指揮していて、なんと素晴らしい演奏なのかと、本当に大きな喜びを感じた。
この関係はもっと長く続け、深めていかなければならない。
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これは、9月 7日に行われた記者会見での言葉のようで、だとすると、ここで言及されているモーツァルトの演奏とは、以前このブログでもご紹介した、9月 6日のモーツァルト・マチネでのものであろう。私ごときが大絶賛しても眉唾に思う人もおられようが (笑)、指揮者自身がこのように発言するということは、やはりあの演奏には相当に満足したということであろう。いやそれにしても、ノットはバンベルク交響楽団に加え、もうすぐ名門スイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督にも就任するはずだ。そんな中、東京交響楽団とも長期に亘る関係を続けることになったことは、誠に喜ばしい。これによって、10年計画で、例えばレパートリーの拡充とか、海外演奏旅行とか、そういった重要事項を考えることができる。それなども、以前は有名な先生にお願いして「振ってもらっていた」日本のオケが、今や積極的に指揮者とともに音楽を作って行くという状況にあっていることの証左であろう。

さて、このマーラーの 3番、演奏に 100分を要する。冗談でもなんでもなく、ギネスブック認定の、歴史上最も演奏時間の長い交響曲だ (今の版では消えているらしいが、以前の記述は私も確認したことがある)。正確に言うと、実際には英国のブライアンという作曲家に、さらに長い交響曲 (交響曲第 1番「ゴシック」) があるが、それは特殊なレパートリーであって、一般的なレパートリーの中ではマーラー 3番が最長と、そのように書いてあったはず。因みにこのブライアンの交響曲、今でこそ CD もあるが、私はもう 30年前から、この曲のアナログレコード (巨匠エイドリアン・ボールト指揮) を持っている。どんだけマニアやねん。大したマニアでもないか。

この曲にはアルト独唱と女声合唱、児童合唱が入るが、今回のソリストは、日本が誇る名歌手、藤村 実穂子だ。バイロイトの常連でもある。この写真は若干お笑い系のようにも見えるが (笑)、大変素晴らしい歌手だ。児童合唱は、東京少年少女合唱団。
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冒頭、ホルン 8本によるファンファーレのようなテーマ演奏によってこの曲は始まるが、意外とテンポが遅く、合いの手で入る弦や打楽器が、念を入れるようにズシンズシンと重い感じであったのを聴いて、ノットの気合の入れ具合を感じることができた。ただ、その後全体的に感じたことだが、この日の演奏は金管に比して木管の精度がもうひとつで、時にもどかしい思いがしたのが残念であった。ノットの指揮も、もともと爆演系ではなく、非常に知的で緻密な方であるので、このマーラーの 3番は、ブルックナーよりは相性はよいとは言えようが、マーラーを振るために生まれてきたようなインバルの演奏に慣れている東京の聴衆には、まだまだ改善の余地があるように響いたと言わざるを得ない。

しかしながら、ノットの持つ美意識がよく発揮された箇所もある。それは終楽章、あの天国の音楽のように美しい 30分の緩徐楽章だ。音楽は粘らず、弦の音も深く呼吸するというよりは美麗に流れる。そこに立ち現われた音楽は、マーラーから新ウィーン楽派を経て現代音楽に連なる系譜を思わせるもの。いわば抒情的現代音楽のような様相であったが、それはそれで、なんとも純粋で、かつ感動的であったのだ。私はいつも、この曲の大詰め、ティンパニ 2台がそれぞれに鳴り響き、最後の最後に巨人の両足のようにドン、ドンと音を合わせるところにぐぐーっと胸を締め付けられるのだが、この日の演奏では、巨人は大音響で足を踏み鳴らすのではなく、あたかも間違えて人や動物を踏みつけないようにしようという気遣いを持っているかのように思わせるものであった。その意味では、臓腑をえぐるマーラー、世界苦に呻吟して救いを求めるマーラーではなく、音楽の美しさそのものを追い求め、音と音の絡み合いから純度の高い流れを作り出す、そしてその結果、人間の感情にも訴えかける、現代的なマーラーであったといえようか。

藤村は、第 2楽章と第 3楽章の間で舞台に登場し、第 4楽章、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」からの一部を歌詞とする音楽を、深々と聴かせた。余談だが、ルキノ・ヴィスコンティの名作映画「ベニスに死す」は、同じマーラーの交響曲第 5番の第 4楽章アダージェットで有名だが、実はそれだけでなく、この 3番の第 4楽章も使っているのだ。夜の神秘が霧の中を漂い、人間の孤独がひしひしと感じられる音楽だ。そしてこの後に続けて演奏される第 5楽章は、一転して、児童合唱と女声合唱による「ビム・バム」という鐘を模倣する明るく可愛らしい音楽なのだが、女声合唱団が最初からステージ奥の客席 (P ブロック) に陣取っているのに対し、児童合唱団の姿は全く見えない。第 4楽章が静かに終わったとき、「あー、児童合唱団、キューを忘れたのか、舞台に入って来なかったよ。どうなる!!」と手に汗握ったところで、指揮者がくるりと後ろを振り返って指揮を始めたのだ!! 児童合唱団は客席の中、RB ブロックの後ろの方に陣取っていて、事なきを得たのだ (笑)。この曲の実演にはこれまで多分 15回かそれ以上触れているが、このようなやり方は初めてであった。

これでこの記事を終わりにしようかと思ったが、プログラムに、この交響曲についてのノットのインタビューが載っているのを今見つけた。興味深い発言がいろいろあるが、終楽章についての発言を抜粋しよう。

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(やはり美しいアダージョである第 9番の終楽章と比較して) 第 3番の終楽章は、転換をもたらす出来事が何も突発しないまま進んでゆきます。ティンパニや鐘の音がつくる響きも、見せかけのもの、仮象にすぎないように思われます。いつか確認が得られるのではという希望を抱いたものの、それは結局のところ叶わないのです。そういう、本当に悲しい音楽です。・・・深い憂愁を帯びた幕切れです。そもそも作品全体がショーペンハウアー流の行方も定まらぬ盲目の意志との闘いです。この作品でのマーラーには、自分で自分の主張に確信がもてないようなところが、いやそれどころか自分で自分を中傷するようなところがあります。
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なるほど、最後に巨人がドンドンと地響きを立てないのは、そのような感覚があったからなのだ。ただ、彼のこのような知的な分析を東響が完璧に音にするようにできるには、もう少し時間がかかるかもしれない。10年計画、楽しみにしています!!



by yokohama7474 | 2015-09-13 12:41 | 音楽 (Live) | Comments(0)