英国ロイヤル・オペラ来日公演 ヴェルディ : 歌劇「マクベス」(指揮 : アントニオ・パッパーノ / 演出 : フィリダ・ロイド) 2015年 9月18日 東京文化会館

今回の英国ロイヤル・オペラ・ハウスの引っ越し公演、「ドン・ジョヴァンニ」は既に鑑賞し、今回はヴェルディの「マクベス」だ。
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このオペラ、もちろんシェイクスピアの有名な戯曲を原作としている。先の記事で、ヴェルディ「中期の」傑作と書いたが、調べてみると、彼の書いた全オペラ 32作のうちの第 10作。もし中期の傑作を「リゴレット」とか「椿姫」とするなら、この作品は未だ初期に分類されるべきかもしれない。言うまでもなく、シェイクスピアは演劇の王様であり、ヴェルディも、この「マクベス」以外に「オテロ」「ファルスタッフ」という晩年の名作の原作をシェイクスピアに求めたほか、「リア王」のオペラ化を長らく検討していたという。ヴェルディが「マクベス」の次に書いた「群盗」はシラーの原作だが、普通の人はそんなのシラーんがなという感じであるのに対し、シェイクスピア作品はもともと段違いに知名度が高い。その分、原作とのイメージの乖離は世間から許されないという制約もあるように思う。本作に関してヴェルディは、原作を自らイタリア語の自由な散文に翻訳し、それをもとに、多くの作品でヴェルディに台本を提供したピアーヴェが手を入れた。大変な入れ込みようだ。

そんなわけで、このオペラのストーリーは、原作をほぼ忠実に辿る。しかしながら、当然音楽に乗せるための時間の制約があるので、原作よりも簡略化された箇所がある。なかでも混乱をきたすのは (正直に白状すると私自身が混乱してきたのは)、マクベスの盟友バンクォーの息子が将来の王になるという魔女の予言をマクベスが恐れるなら、最後に彼を倒して王になるのは当然バンクォーの息子だと誰しも思うはず。ところが、バンクォーの息子は幼い少年であるにもかかわらず、最後に凱歌を挙げるのは、立派なオッサンなのである。むむむ・・・と思って原作を引っ張り出してみると、このオッサンはバンクォーの息子ではなく、マクベスが最初に殺した当時の王、ダンカンの息子、マルカムなのだ。原作ではダンカンもマルカムもあれこれ台詞があって、それぞれの人物像についてイメージが沸くようにできているが、オペラではダンカンは一切歌わないし (この演出のように、出演は専ら死体の状態だけで!! という例もある)、マルカムは歌うものの、「おりゃー、マクベスをやっつけるぞー」という威勢のよい歌だけなので、見る側の「あ、あなた、ところで誰ですか」という質問を受け付けない雰囲気なのである (笑)。

まあともあれ、若書きながら随所にユニークな作曲術が生きる、ヴェルディの傑作だ。主役を歌うのはバリトンのサイモン・キーンリーサイド。今回のロイヤル・オペラの来日歌手のうち、テノールのロランド・ビリャソンと彼だけが、いわゆる有名歌手だ。
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後半はさすがの貫録で、特に、第 4幕にあるマクベスの唯一のアリアや、大詰めで死んで行くところのモノローグなど、演劇的にも優れていると思ったが、残念ながら前半、特に小さい声量で歌う部分には少し不安定なものを感じた。1959年生まれ、今年 56歳なので、異国の地に長逗留しての上演は、ちょっときついのかもしれない。

マクベス夫人は、ウクライナ出身のリュドミラ・モナスティルスカ (やっぱり長い名前・・・)。今回のロイヤル・オペラの来日歌手陣を見ていると、ロシア・CIS 出身が多く、それだけ人材豊富なのだろうが、同時に人件費面でも劇場側にメリットがあるのか・・・と余計なことまで考えてしまう。ともかくこんな感じの貫録で、この役には適性があるといえるだろう。
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強い声で表現力は充分だと思ったが、ただ、欲を言えば、4幕の長いアリア (これは 19世紀前半に流行った、女性歌手が狂乱する、いわゆる「狂乱の場」の一種である) など、もっと純粋に声の魅力だけで聴かせて欲しいという気もした。狂乱の場を、私は狂乱していますという感じで歌うのは、映画的リアリズムの弊害ではないだろうか。オペラは形式の芸術。リアリティなど二の次三の次。何より美しい声が聴きたい。

少し演出について語りたい。この演出家、フィリダ・ロイドは、もともと演劇出身の女流演出家で、ミュージカル「マンマ・ミーア!」を演出し (ブロードウェイで見ましたよ)、その映画化でも監督をしている (こちらは飛行機の中で見たけど、半分くらい酔っぱらって寝ていました) ほか、英国内を中心にオペラの演出も手掛けているらしい (イングリッシュ・ナショナル・オペラでワーグナーの「指環」を演出したとあるが、えぇー、あれを全部英語で上演したのか???)。映画監督作品にはもうひとつ、「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(見たかったのに、劇場で見逃した!) がある。今回の演出では、先の「ドン・ジョヴァンニ」とも一脈通じるような美術の簡潔さや、閉鎖空間の有効利用などが見受けられ、ここでもまた、コスト効率性が追求されたのでは、と思ってしまった。以下の写真のような枠組みがグルグル回り、ダンカンの死の床にもなり、マクベスの戴冠の場ともなり、最後は彼の死に場所にもなる。何か呵責ない運命的なものを感じる。
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また、英国人には大変残酷な習性があるが、この演出でも、コーダーの領主、スコットランド王、いずれも痛々しい死体が出てきて (どちらも人形だと思うが)、なんとも悪趣味なのだが、そこにも呵責ない力を感じることになる。その一方で、第 3幕の後半では幻の子供たちが現れ、第 4幕冒頭では戦争で荒廃したスコットランドを嘆く人々が出てきて、情緒的な面で観客を動揺させるのだ。なかなかにツボを得た演出だ。

さて、もうひとつの賞賛の的は、今回もパッパーノだ。このオペラ、ヴェルディの若書きなので、粗削りなところがあれこれあり、大変に抒情的な面と、ゴツゴツした響きとの共存がとてもユニークで、きっと演奏は容易ではないに違いない。例えば、大詰めのマルカムの凱歌は、勇ましい歌詞の割には、短調で書かれていて、なんとも荒涼とした感じがする。私が過去にこの作品を見たときには、いつもその感を拭えず、なんとカタルシスのない終わり方かと思ったものだが、今回はまた特にその感が強い。上に掲げたマクベスの戴冠の写真にも写っているが、この演出では、赤い帽子をかぶった魔女がところどころで黒子的に物語を先導するのである (上の場面では、王冠をマクベスに手渡す)。そしてラストシーン、マクベスの死体がこのジャングルジムのような枠組にさらされ、そこに魔女たちがよじ登って終わるのだ。それを見て、「あーなんと爽やか!!」と思う人はいないと思いますねぇ。でもパッパーノの音楽はそれを力で乗り越える。コヴェントガーデンのオケが最大限の力を発揮して、魔女が操る人間の運命に対して、堂々と挑戦状を叩きつけるのだ。安穏と見ているだけでは済まない、実にヴィヴィッドな音楽だ。
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改めて気づくことには、今回のロイヤル・オペラ来日公演の 2演目、「ドン・ジョヴァンニ」と「マクベス」は、両方とも悪漢に関する物語だ。どちらも決して爽やかには終わらない、後味の悪い作品だ。この 2作ばかり続けて演奏し、しかも天気がずっと雨だから、オケのメンバーも相当鬱屈した思いがあるのではないか。・・・おっと、雨に関してはロンドンの人たちは関係ないかな。いやいや、今週降ったような激しい雨はロンドンではほとんどないから、やはり鬱屈はあるだろう。そんな中、明日はオーケストラコンサートでモーツァルトのレクイエムが採り上げられる。楽員たち自身の精神の浄化につながる演奏会を期待。また、私自身に関して言えば、2日後には全く違う「マクベス」を鑑賞する呵責ない運命にある。また記事をアップするので、乞うご期待。

by yokohama7474 | 2015-09-19 01:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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