ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン交響楽団 (ピアノ : マレイ・ペライア) 2015年10月3日 京都コンサートホール

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このコンサートに先立つ 5日前、9月28日にもハイティンクとロンドン交響楽団の演奏会をサントリーホールで聴いていたが、実は先にチケットを買ったのはこの京都でのコンサートであった。というのも、曲目がより私の好みであり、かつ移動の自由が利く週末の公演であったからだ。曲目は以下の通り。

 モーツァルト : ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491 (ピアノ : マレイ・ペライア)
 ブルックナー : 交響曲第 7番ホ長調

この指揮者ハイティンクは、以前の記事でもご紹介したオランダの巨匠であるが、若い頃からブルックナーとマーラーを盛んに取り上げていて、今回も、ペライアをピアノに迎えてのモーツァルトの 24番のコンチェルトの後のメイン曲目として、日によってマーラー 4番とブルックナー 7番があったわけである (ほかにブラームス 1番がメインのプログラムもあり)。クラシック音楽がお好きな方には容易にご納得頂けるように、どうせハイティンクを聴くならやはり、より壮大なブルックナー 7番が聴きたい!! というのが人情だろう。ま、そんなわけで京都のチケットを買い、ついでと言ってはナンだが、先の記事でご紹介した京都観光も行ったというわけであった。

サントリーホール公演と異なり、今回は正面の席で鑑賞したので、1曲目のモーツァルトでは、ペライアのピアノの巧まぬ抒情性が、そのペダリングの妙とともによく聴き取ることができ、同じ曲であっても今回の方がより感動した。全体の静かな印象は前回と全く同じだが、美しい音の響きは前回よりも深く心に入ってきて、本当に純粋な音楽を楽しんだ。このペライア、今ではそんなことを全く思わせないが、実は過去に指の故障で何度か演奏家生命の危機を迎えたことがあったらしい。そう思って聴くと、この至福の時間への感謝が一層増すというものだ。誰しも、たとえいかなる天才であっても、いつでも人生順風満帆というわけではない。人間たるもの、様々な困難を乗り越えて意志の力で続けなければならないことがある。自ら痛みを抱えた人間こそが、他人の痛みを癒すことができるのだ。ここでは、その痛みを抱える前かもしれない、ペライアの若い頃の写真を載せておこう。
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さてメインのブルックナーであるが、冒頭のチェロの朗々たる音に圧倒されることに始まり、70分の全曲を通じて、海千山千のロンドン響の面々の老巨匠への多大なる尊敬がそのまま音になったような、温かみのある世界に耽溺することとなった。全く奇をてらうことのない清々しい音楽で、マーラーのときのような遅さも感じられることはなかった。ブルックナーの交響曲には様々な楽譜の版があって、大変複雑なのであるが、ハース版とノヴァーク版の 2つがメジャーである。私は専門家でもなければその道のマニアでもないので、各曲におけるその 2つの版の差を詳しく語ることはできないが、5番のようにほとんど違いのない曲もあるものの、この 7番でははっきりと分かる違いがある。それは、第 2楽章アダージョのクライマックスで、ノヴァーク版にはシンバル、ティンパニとトライアングルが入り、ハース版には入らないということだ。世界の頂点に達したブルックナー指揮者であった朝比奈隆や、その他のいわゆる枯淡の (?) ブルックナー指揮者は、派手さのないハース版であえて勝負することが多いというイメージを持っているが (実際、未だに耳に残っている朝比奈の演奏でのこの箇所は、いわば雷鳴のない嵐のような凄みがあったものだ)、今回のハイティンクはノヴァーク版を採用。彼の以前の録音を全部知っているわけではないが、ちょっと調べてみると、以前はハース版を使っていたところ、ある時期からノヴァーク版に変えたようだ。この第 2楽章、大変に深遠な音楽なのであるが、それには理由がある。ブルックナーがこの楽章を作曲している途中で、彼が深く尊敬するワーグナーが死去したので、この楽章はそのままワーグナー哀悼の音楽になっているのだ。そのひとつの証拠は、ワーグナーチューバという、ワーグナーが楽劇「ニーベルングの指環」で使用するために作らせた特殊な楽器 (通常のチューバとは違う) が、この楽章で使用されていて、ホルン奏者が持ち替えで演奏するのだ。興味深いことに、この日の演奏会では、(通常の) チューバ奏者は、ほかの楽章ではトロンボーンの横で演奏していたところ、第 2楽章ではわざわざワーグナーチューバの横に移動して吹いていた。音色の混ざり方を考慮してのことであったのだろう。

このハイティンクという指揮者は、昔から派手なところがない一方で、完全に枯れるということもない。感傷に溺れることもないが、乱暴にオケを煽り立てることもない。いわば中庸の美徳を追求して来た指揮者であると言えるだろう。実際に耳にしてみると、その中庸は凡庸とは全く違うものと分かるのであるが、今回の来日で、老いたりとはいえその健在ぶりを示したわけである。彼の指揮する映像を見ていると、左手が時にヴィブラートをかけるように微細に振動していることがあるが、今回のブルックナーの演奏が終わったとき、聴衆の拍手が起こってもまだ彼の左手は振動していた。きっと私はあの振動を忘れないだろう。音楽という神秘の海に溺れる体験をした証左として。
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by yokohama7474 | 2015-10-15 00:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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