2015年 10月 18日
針とアヘン ~ マイルス・デイヴィスとジャン・コクトーの幻影 (作・演出 : ロベール・ルパージュ) 2015年10月11日 世田谷パブリックシアター
マイルスとコクトーの接点についてはすぐには思い当たらなかったが、なるほど、「針とアヘン」、つまりドラッグだ。この作品、1949年に米国人マイルスがパリに出て人気を得、歌手のジュリエット・グレコと恋に落ちたことと、同じ年にフランス人コクトーがニューヨークを訪れ、LIFE 誌の取材を受けたりした、それら歴史的事実に、カナダのケベック州から傷心のままパリに来てテレビ ? のナレーターを務める俳優ロベールの、まるでドラッグ中毒のような幻想を織り交ぜた、極めて夢幻的な作品だ。登場人物はほぼ 2名で、白人と黒人だが、そのうち黒人の方は、マイルスのイメージを演じるだけで台詞はなく、喋るのは専ら白人俳優のみ。もともと1993年に上演された独り芝居であったものを、最新の映像技術を駆使して再構成したものだということらしい。
まず舞台には立方体を斜めに切った半分、つまり 3つの面がそれぞれ垂直に交わっている構造体があって、結局すべてはそこで進行する。最初にアヘン中毒のときのコクトーの自画像を思わせる光の線の往復が男の上に走り、コクトーの米国訪問に関する独白が始まる。
QUOTE
阿片を喫む者は、熱空気球 (モンゴルフィエール) のようにゆっくり上昇し、ゆっくり身体の向きを変え、ゆっくり死んだ月の上に降りる。一度降りてしまうと、月の引力が弱いながらも作用するので二度と上昇できない。立ち上がっても、ものを云っても、仕事をしても、交際をしても、外見上生活していても、その身振り、そのもの腰、その肌、そのまなざし、その言葉はすべて、別の薄明と別の重苦しさの法則に左右される生活の反映にしかすぎない。
UNQUOTE
この印象的な冒頭から、件の立方体の半分は、様々な場面の映像を照射され、またそれ自身が回転することで、まさに千変万化である。ドアやベッドも、90度回転してその姿を消したり現したりするのだ。これは、コクトーが窓から身を乗り出しているところ。
改めてコクトーのことを考えてみる。終生ダンディだった彼は、疑いのないマルチタレントであったが、その洒脱に見える作風の裏には、どうしようもない厭世観が存在しているように思う。戦争という社会的悲劇を体験し、最愛のラディゲを若くして失うという個人的悲劇を体験した近代人として、既に洒脱一辺倒では生きて行けなかった男の、複雑な心理によるものだろう。この芝居の中で、このようなシーンがある。多才ぶりを自ら揶揄するようなシーン。