アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団 (ピアノ : ラルス・フォークト) 2015年10月20日 ニューヨーク、カーネギーホール

出張先のニューヨークで、一日だけ自由になる夜があった。MET では、珍しく多少現代的な「リゴレット」が上演されており、ニューヨーク・フィルの指揮台にはセミヨン・ビシュコフが立つ。それらもよいのだが、私が迷わず選んだのは、カーネギーホールでのこのコンサートである。
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ラトヴィア、リガ出身の俊英指揮者、アンドリス・ネルソンスが、昨年から音楽監督を務める名門ボストン交響楽団を振る。このコンビは未だに来日していないので、これは千載一遇のチャンス。逃してなるものか。

コンサート通いの醍醐味は、名高い巨匠名匠の音楽に生で触れることだけではなく、未だ一般的な人気を獲得しておらずとも、なんとなくピンと来る若手演奏家の実演に触れて、新たな宝を発見することにもある。そのような体験がそれほど頻繁にあるわけではないが、私の場合、過去に何度かそのような機会に恵まれた。例えば、以前記事にも書いた、バーンスタインの代役として颯爽とロンドン響を指揮した大植英次。北欧の名門ストックホルム・フィルを引き連れて日本にやって来た、後のニューヨーク・フィルの音楽監督、アラン・ギルバート。トゥールーズ・キャピタル管弦楽団を率いて最高のニュアンスに富んだ演奏を繰り広げたトゥガン・ソヒエフ (彼については、ベルリン・ドイツ響との来日公演間近なので、近く記事でご紹介する)。そして、2009年、ロンドンの夏の音楽祭、プロムスで手兵バーミンガム市交響楽団を指揮して圧倒的な演奏を聴かせてくれた、このアンドリス・ネルソンス。
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彼は 1978年生まれというから、今年まだ 37歳。指揮者としては、まだまだ若手の方である。にもかかわらず、この名門ボストン響の音楽監督に就任し、また、先に行われたベルリン・フィルの次期音楽監督選びの有力候補のひとりとなり、最近では、2017年からリッカルド・シャイーの跡を継いでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の楽長に就任することが発表された。まさに指揮界の寵児である。2009年に私がロンドンで彼を聴いたときには未だ 30代前半だったわけだが、その数ヶ月後にロンドンから日本に帰任した際、最も残念なことは、「ネルソンスを本拠地のバーミンガムで聴くことができなかったこと」であった。そのくらい鮮烈な印象を与えてくれたのである。

バルト三国のひとつ、ラトヴィアの首都リガ。一般の人たちには全くイメージないかもしれないが、クラシック音楽ファンにとってみれば、何人もの偉大な音楽家を輩出した街なのである。まず、あの大作曲家ワーグナーが、19世紀に宮廷楽長をしていた。現代では、ヴァイオリンのギドン・クレーメル、チェロのミッシャ・マイスキー、そしてこのネルソンスの師匠にあたるマリス・ヤンソンスがこの街の出身だ。ヤンソンスは、アムステルダムの王立コンセルトヘボウ管とミュンヘンのバイエルン放送響という偉大なオケのシェフとして君臨する現代屈指の名指揮者である。師ヤンソンスの明快で豪放な音楽作りが、このネルソンスに大きな影響を与えたことは一聴して明らかだ。指揮界の若きエースは、あのボストン響の音楽監督として、今後いかなる実績を積み上げて行くのであろうか。

この日の曲目は以下の通り。

 セバスティアン・カリエール (1959年米国生まれ) : 管弦楽のための Divisions (分割) (2014年作、ニューヨーク初演)
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : ラルス・フォークト)
 ブラームス : 交響曲第 2番ニ長調作品77

米国の代表的なオーケストラは皆、このカーネギーホールで年に何度か演奏会を開き、その腕を競い合うのであるが、今回のボストンの演奏会は 3夜連続で、これが初日であった。翌日は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇「エレクトラ」の演奏会形式、その次の日は、プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」とラフマニノフの交響的舞曲という、なんとも多彩なプログラムで勝負をかけている。

1曲目の現代曲の作曲者は、初めて聞く名前であるが、地元ニューヨーク在住の中堅作曲家であるらしい (http://www.sebastiancurrier.com/)。この「分割」という作品は、昨年 2014年に、第一次世界大戦勃発百年を記念して書かれたもの。原題の Divisions は、もちろん主たる意味は分割なのであるが、調べてみると、軍隊の師団という意味もあるらしい。プログラムに作曲者自身が寄せた文章によると、第一次大戦を追想する音楽として何がふさわしいか、友人に尋ねたところ、「それは簡単なことだ。完全な沈黙だよ」と答えたとのこと。なかなか心に残る話だが、完成した音楽はもちろん完全な沈黙ではなく、暴力的な戦争の様子と、それに抗う人々の様子、そして抗争が沈静化して行く様子が描かれていると解釈できる。昨今の作曲界の風潮を反映して、前衛性はあまり感じられず、人間の感情に訴えかける音楽だ。そして、冒頭から明らかなのは、オーケストラの音色のビックリするような鮮やかさだ。あまりにキレイな木管の音に驚いて、その音の元を目で探すと、しわくちゃのお爺さんだったりするのが昔からの (少なくとも小澤時代からの) このオケの特徴であったが、その伝統を見事に継いでいることが確認された (笑)。

2曲目は、ピアノのラルス・フォークトが登場。1970年生まれのドイツ人。何度も来日しているし、着実な音楽性が世界で人気を博しているピアニストだ。
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3番のコンチェルトは、ベートーヴェンのピアノ・コンチェルトの中で唯一短調で書かれていて、ベートーヴェンらしい悲劇性をたたえた素晴らしい曲だ。フォークトの演奏は、弾き飛ばすことなく真摯にその悲劇性と向き合い、聴きごたえがある。但し、個人的にはもう少し破天荒な部分があればもっとよいと思う。まあ、気楽な聴き手の気楽な感想ですがネ。これは終演後の写真。
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さて、瞠目すべき聴きものは、メインのブラームス 2番であった。ときに「ブラームスの田園交響曲」と呼ばれることすらある、ブラームスにしては極めて例外的な、明るい情緒にあふれた曲だ。これぞまさにネルソンスの音にぴったりで、ここでも超絶的に美しいオケの音色が次から次へと耳を通り過ぎて行き、滅多に味わうことのできない最上質の音楽に文字通り酔いしれてしまう。どこまでも続く朗々たるチェロの響き、飛び交う鳥のような木管たち、小川の流れのようなヴァイオリンの音色・・・。そして終楽章では生の歓びが爆発する。私の席からは指揮姿がよく見えたのだが、ネルソンスは指揮台の手すりに体をよりかからせ、音の奔流を受け止めては持ち上げる。決して器用には見えないが、もったいぶったところのない、大変に素直な指揮ぶりだ。これにはオーケストラも乗りやすいのであろう。うーむ。それにしてもまだ 30代の若さで、この最上のオケをこれだけドライブするというのは、やはり只者ではない。こちらも終演後の様子。
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音楽を聴くためには、ある程度の知識は必要であるものの、何よりも感性を全開にして、その場その場の音を坦懐に楽しむべきと常々考えており、その結果として感銘を与えてくれる音楽家こそを尊敬することにしている。そのためには自分の感性を信じる必要があって、もちろん感性というものは正しいとか正しくないという峻別はできないものではあるが、ある程度は世間の評価によって正当化されるものだと思う。その意味では、6年前に一聴してその才能を感じることのできたこの指揮者が、これだけの実力者として活躍の場を広げているのは嬉しい限り。これからも応援したい。

さて、少し長くなってしまっているが、せっかくの機会なので、カーネギーホールを訪れたことのない方々に少し雰囲気を知って頂くために、写真を掲載する。ホールに隣接したちょっとしたサロンに展示されている、カーネギーホールの歴史を物語る資料の数々。このホールは今年が125年目のシーズンとのことだから、1891年に開館していることになるが、そのこけら落とし公演に大物音楽家が登場している。この人だ。
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チャイコフスキー。昔昔の、その名も「カーネギーホール」という白黒の映画をご覧になった方は、このホールでチャイコフスキーが指揮をする映像があったことを覚えておいでであろう。但し、もちろんそれは本物の映像ではなく、役者の演じる姿であったのだが、ステージの袖からその様子を垣間見る子供が、「ちゃんとこれを覚えておけよ。チャイコスフキーが指揮するのを聴いたということを」という大人の言葉に感動するシーンがあったと記憶している。それにしても、写真の上部に何やら汚い字で書きこみがあるが、これはチャイコフスキー自身によるものだろう。ドイツ語のようにも見える。宛先にはウォルター・ダムロッシュとあるが、これはこのホールの設立者であり、当時のニューヨーク・フィルの音楽監督の、あのダムロッシュであろう。うーむ。1891年ですよ。古いなぁ。

それから、ニ十世紀を彩る偉大な音楽家たちの足跡。これはアルトゥーロ・トスカニーニの演奏会のプログラムと、彼の指揮棒。左隣は、作曲家のジョージ・ガーシュウィンだ。ここでもなにやら写真にガーシュウィン直筆の書き込みが見える。
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それから、トスカニーニの娘婿で、このホールで幾多の歴史的演奏を披露した世紀のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツ。
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もちろん、歴史上最も有名な指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する展示品もある。彼の指揮棒と、おっと、1955年のコンサートのプログラムだ。戦後初めてベルリン・フィルが旧敵国のアメリカに演奏旅行に来た際のもの。前年のフルトヴェングラーの死去に伴って、この楽旅の指揮をとったことをきっかけに、カラヤンはこのオーケストラの終身音楽監督の地位を得た。
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そして、ニューヨークと言えばこの人、レナード・バーンスタイン。私が最も尊敬する指揮者である。そして、左側に見えているクラリネットは、誰あろう、あのベニー・グッドマンが愛奏したものだ。
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私も 2006年から 2007年にかけてはこの街に住んでいて、このホールまでの所要時間は、バスでたったの 15分くらいだった。物理的にニューヨークにいる限り、ごく日常的に通っていた場所なのであるが、一旦離れてしまってから、改めてこのような展示品を見ると、まるでおのぼりさんのように嬉々として写真を撮ってしまうのだ!! (あ、ちゃんと撮影してよいかとスタッフに訊いてから撮影しています) この、何度来てもなくならない高揚感こそがニューヨークだ。

素晴らしいコンサートに心底感動して、その余韻を味わいつつ、ホールからホテルまで 20分ほどの道のりを歩いて帰ることとした。このような夜景が、悔しいけどカッコいいのです、この街は。
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マンハッタンの中では、驚くべきことにオフィスビルやマンションの建設ラッシュとなっており、一方で、昔あったカジュアルな日本めし屋が、残念なことに何軒も閉店していた。この街の好況を実感しつつ、変わりゆく一部の風景へのわずかな寂寥感と、全く変わらない大部分の風景への高揚感に、ポケットに手を入れて少し気取って歩きたくなる私であった。


Commented by e-message at 2017-06-02 14:45
はじめまして。私は、11月8日のネルソンス指揮ボストン交響楽団のチケットを取りました。その後、情報を探していましたところ、このブログに出会いました!拝読して、コンサートに行くのが、より楽しみになってきました!ありがとうございます。素敵なカーネギーホールでの素晴らしい演奏、綺麗な夜景、一生の宝物になりましたね。これから少しずつ読ませていただきますね。
Commented by yokohama7474 at 2017-06-03 03:16
> e-messageさん
コメントありがとうございます!! そのようにしてこのブログに辿り着いて頂けると、やっている方も大変励みになります。ネルソンスとボストンの今回の公演は大変に意欲的であって、まさに今、旬の指揮者が名門オケを指揮して最高の音楽を聴かせてくれると思います。未だ半年ほど先ですが、私も今から楽しみにしております。いろいろな文化的な話題についてとりとめなく書いておりますが、よろしければまたお立ち寄り下さい。
by yokohama7474 | 2015-10-31 00:25 | 音楽 (Live) | Comments(2)