岡山旅行 その 2 吉備路 (備中国分寺、宝福寺等)、倉敷 (安養寺、大原美術館等)、岡山 (後楽園、岡山城)

前回の記事では、岡山県のくらくらするような歴史と伝説のロマンをお伝えしたが、今回はその続き、旅行の 2日目、11月 1日 (日) の様子をご紹介する。この日も、前日に負けず劣らぬ発見の連続で、私は岡山の魅力にどんどん憑りつかれてしまうのである。

今回我々が泊まったのは、倉敷国際ホテル。大原美術館のすぐ裏手にあり、棟方志功の大きな版画や、児島虎二郎 (あとでご紹介する) の油絵などがかかっていて、老舗ホテルの風格がある。但しそれほど巨大ホテルではなく、サービスも行き届いていて、なかなかに快適だ。
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さて、前日の吉備路めぐりは、最後は夕暮れによる時間切れとなってしまったので、今日は少し早起き。ちょうど前日の激しい山道踏破が幸いして疲れてぐっすり眠ることができたおかげで、目覚めは上々だ。倉敷から 10km ちょっとの道のりを北上して、再び吉備路へ。最初に向かったのが、作山古墳 (つくりやまこふん) だ。前日訪れた造山古墳とは、発音が同じでも字が違う。ともに巨大な墳墓 (長さは、造山古墳が 350mで全国 4位に対し作山古墳は 286m で、それでも 9位。高さは両者とも同じ 24m) であるが、もうひとつの違いは、造山古墳が完全な丘のように木を伐採していたのに対し、こちらはそのまま森のように鬱蒼と木が茂っていることだ。この写真のように、古墳があまりに巨大なので、交通の便を追求してのことだろう、古墳を貫いて道路が走っている。また、古来旅人が多いのであろうか、祠が祀られている。
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古墳の中は本当にそのまま、深い森だ。朝早いこともあり、空気が本当においしく、都会の空気で汚れた肺をきれいにしてくれるようにすら思われる。
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この説明板によると、吉備地方の豪族がその権威を見せつけるために、人々の往来の多い場所沿いの自然の地形を利用して作った墳墓であると推測されるとのこと。やはりかなり強大な権力が古代のこの地にあったようである。また、どうやら棺は盗掘されていないようで、未だに墓の主は前方部分に眠っていると見られると書いてある。なんたること。どうにかして発掘する方法はないものであろうか。古代吉備の王、今もここに眠る。
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さてそれから少し車で移動して、備中国分寺へ。国分寺は言うまでもなく、奈良東大寺を総本山として聖武天皇の命によって鎮護国家のために全国に建てられた寺である。各地の国分寺で、地名としてはともかく寺として現存しているものは少なく、寺自体が現存していたとしても、当時の建物の現存は望むべくもない。いくつかの幸運な国分寺が、時の権力者の保護を受けて後世に伽藍を復興しているケースが数えるほどあるのみだ。この備中国分寺は、16世紀の終わりに備中高松城主であった清水宗治の援助で再興し、その後再度の衰退を経て、18世紀初頭の宝永年間にまた復興した。この寺の象徴は、なんと言ってものどかな野原の中にそのすっきりした姿を見せている五重塔だ。1820年の造営、岡山県唯一の五重塔で、国の重要文化財に指定されている。前日の夕刻、どんなにがんばってもきれいに撮れなかった塔も、朝の光に惜しげもなくその姿を見せてくれている。いやー、美しい塔だなぁ。国分寺の境内の様子や周りの風景とともにお楽しみ下さい。
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このあたりは吉備路風土記の丘と名付けられていて、のどかな風景の中を散策するのが大変気持ちよい。徒歩圏内にある見どころを以下に紹介しよう。まずは、こうもり塚古墳。名前の由来は、かつて石室内に多くのコウモリが棲みついていたことによる。これは 6世紀後半の造営と推測される古墳であるが、驚くべきことに、石組がむき出しになった古墳の奥にまで入ることができ、玄室内に今も残る大きな棺のすぐ近くまで行くことができるのだ。古代の雰囲気をそのまま感じることのできる場所である。
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数百メートル歩くと、国分尼寺跡がある。国分尼寺は、国分寺とともに全国に建てられた尼寺で、奈良の法華寺が総本山であるが、国分寺と違って国分尼寺は後世に再興された例は全国にもないのではなかろうか。この備中国分尼寺も、今は林の中に礎石が残るのみ。だが、何もないがゆえに返って昔日の営みを追想できる場所になっている。時折通り過ぎる風が心地よく、物言わぬ路傍の石仏もまた味わい深い。
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さて、この近くに何やら茅葺の建物が見える。行ってみるとそれは、県内から移築してきた古民家 2軒である。上が、もともと医師の自宅であったものが、後に山手村という村の役場として使われていたもの。下は、旧山陽道に沿う茶屋であったとのこと。ここにも過去の人々の息吹が残っている。大勢で賑わう観光地にはない味わいがある。
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さらに、このようなポスターが目に付いた。
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満谷 国四郎 (みつたに くにしろう 1874 - 1936) は洋画家で、私も過去に幾つかの展覧会で作品を見たことがある。出身がここ岡山県の総社市で、昨年できたばかりという総社吉備路文化館というこじんまりとした美術館が、所有作品 40点弱を展示していた。あいにくカタログも作成されておらず、思い切って「写真はダメですか」と係の人に訊いてみたのだが、「写真ですかー。わっはっは」と、鼻にもかけてもらえなかったので、展示作品の写真はないのだが、生涯の画業を通して、西洋絵画を学んで試行錯誤する様子が大いに偲ばれた。郷土の人たちがこのような画家の存在を誇りに思うとは、大変に意義のあることだと思う。

さて、この後西の方に数 km 車を走らせ、宝福寺というお寺へ。ここには日本美術史上のビッグネームが関係しているので、見落とすわけにはいかない。
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そのビッグネームとは?
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一休さんではありませんよ。室町時代の巨匠画家、雪舟だ。彼の幼年時代の逸話として有名な、涙でネズミを描いたという話は、この寺が舞台であるのだ。絵に夢中で禅の修行に身が入らないため、和尚さんに柱に縛り付けられたが、流した涙で足を使ってネズミを描いたところ、その出来栄えに感心した和尚が、雪舟の画業への没頭を許したというもの。私も小学生のとき国語の教材で読みましたよ。手の自由を奪われながら足で絵を描く天才少年というイメージは、絵画にかける静かな情熱を表していて、なかなかによくできていると思う。もちろんこれが実話であるか否かは分からないものの、確かなことは、少年雪舟がこの寺で修行していたという事実だ。ということは、私がこれらの記事に書き連ねているような吉備路の古代の神秘あふれる空気を吸って、雪舟は幼年時代を過ごしたということだ。今後彼の作品を見るときには、そのようなことを頭の片隅に置いておく意味もあるかもしれない。ところでこのお寺、境内もきれいに整備されていて、気持ちの引き締まるような素晴らしい佇まいなのだ。仏殿内の龍は江戸時代のものだが、夜な夜な堂を出て水を飲みに来るというので、目に釘を打ったとのこと。また、始まったばかりとはいえ紅葉が美しく、国の重要文化財である三重塔がよく映える。
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そして、件の雪舟の涙で描いたネズミについても、方丈という建物の前にこのような親切な解説が。
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方丈の写真がこれだ。ほぅ、言わなきゃ分からないのに (笑)、わざわざこの建物は当時のものじゃないよと言ってくれているという、大変に真摯な態度のお寺です。でも、当時のものではないと知っていても、想像力で補ってこの方丈を見るというのが、大方の人たちのすることだろう。つまり、これが当時のものでなくても、この建物を見て、ここで雪舟が涙でネズミを描いたのだと思うと、なんとも感慨深いものがある。なかなか雰囲気あるじゃないですか。
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とまあ、境内にある数々の見どころに満足して、「あー、このお寺のあれこれを拝観できてよかったぁ」という満足感とともに帰路につこうとすると、ふとこんな表示が目に入った。
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な、なに?! これではまだ、拝観したことにならず、本当に拝観したい者は、1,000円払って座禅してからにしろということか?! 寺院拝観をなめるなということだ。これは厳しい。整備された境内の様子にすっかり甘えてしまっていたが、それではまだこの寺を拝観したことにはならないということのようだ。是非次回は予約をして、本物の拝観を経験しなければ・・・。恐れ入りました。

さて、もともとの計画では、10時くらいに倉敷に戻って大原美術館に行こうと思っていたが、宝福寺の拝観が実は中途半端 (?) であったと判明したとはいえ、内容は充分に濃く、既に予定よりも多く時間を要してしまっている。でも、大原美術館に行く途中に、どうしても寄りたいところがあるのだ。それは、朝原山 安養寺というお寺。782年に創建されたと言われる古刹で、重要文化財の兜跋毘沙門天 (とばつびしゃもんてん) と吉祥天、そしてそれ以外になんと 40体もの毘沙門天像を所蔵するという。駐車場は山の中の道路から少し下ったところにあり、このような石段を上がって境内に辿り着く。巨大な毘沙門天の銅像が門の上にご覧頂けよう。かなり荘厳な雰囲気だ。
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一群の仏像は、成願堂 (じょうがんどう) と名付けられた宝物館に収められている。堂内は写真撮影禁止なので、現地で購入した本からの撮影でご覧頂こう。まずは重要文化財の二点、兜跋毘沙門天と吉祥天、そして、堂内にところ狭しと並ぶ 40体の毘沙門天だ。
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見たところ、技量には多少の優劣はあれども、大きさはほぼ同じ、どれも皆平安時代の古様を示していて、地方色も豊かである (後代のものがあったとしても様式を古様に倣っているということだろう)。明らかに寄せ集めではなく、まとまった彫刻群だ。このあたり、倉敷市の北の市境には標高 300mほどの山が連なっており、その主峰、福山の中腹 (倉敷市朝原) にはその昔、大規模な伽藍が建立され、「朝原千坊」と呼ばれたそうだ。その後の戦乱で荒廃が進んだものの、この安養寺のみが現在に至るまでその命を保っているとのこと。これらの毘沙門天は、その名も毘沙門堂という堂にもともとは収められていたらしいが、これだけのまとまった数が残ったということは、きっと地元の人たちが命をかけて救い出し、守り抜いたということであろう。文書によれば、もともとは 108体あったという。それにしても、よくぞ歴史の荒波を越えて現在に残ったものである。熱烈な人々の思いが、そのような奇跡的なことをなしとげるということだろう。尚、この寺の裏山には、平安時代の古い経塚 (お経を地中に埋める塚) があり、宝塔や仏を線刻した瓦、誕生釈迦仏などが出土しており、重要文化財に指定されている。また、日本における禅宗の創始者のひとり、栄西 (ようさい) は、ここから遠からぬ吉備津神社の神官の家に生まれているが、11歳の時に安養寺という寺で修行したとの記述が「元亨釈書」という有名な歴史書にあり、同名のいくつかの寺が候補になっているが、ここ、朝原・安養寺もその有力な候補とのことである。寺好きのこの私ですら、岡山に行くことが決まってから初めて知ったこの寺には、全く侮るべからざる歴史があったということだ。改めて自らの無知を恥じた次第である。

さて、それからようやく倉敷の中心部にとって返すこととした。倉敷といえば、大原美術館を中心とした美観地区が観光の中心である。このような情緒ある町並みが整備されている。でも、2枚目の写真は、NHK の「タイムスクープハンター」でよく出てくるような街のセットにも見える (笑)。
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大原美術館。言わずと知れた、1930年に設立された、日本を代表する私設美術館である。日本で初めての西洋近代美術館でもある。倉敷紡績二代目社長の大原孫三郎のコレクションをもとにしており、コレクションの形成にあたっては、大原家をパトロンとしていた画家の児島虎二郎 (1881 - 1929) がヨーロッパで作品を買い付けた。児島自身の作品は、この記事の冒頭部分でも掲げておいたが、しっかりしたモデリングと鮮やかな色彩を持つ、なかなかに優れたものが多い。何よりも、この人の眼力によって、現地の美術商にカモにされることなく、高水準の作品を収集できたのであろうと思う。尚、もうひとり児島善三郎 (1893 - 1962) という洋画家もおり、人物像など作風も似ている点があると思うし、○二郎と△三郎だからてっきり兄弟かと思いきや、全く関係ないようだ。
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私にとっては、小学生のときに初めて訪れて以来、今回が 3度目の訪問。しかし、発見はいくらでもある。例えば、この美術館を近代西洋専門の美術館ととらえると、大きな間違いになるのだ。日本人画家だけの作品を展示する新館 (初期の洋画から前衛作品まで) もあれば、日本の民芸運動の作家たち (濱田庄司、バーナード・リーチ、河井寛二郎、富本憲吉ら) の作品も多く所蔵し、また、中国をはじめとする東洋美術もある。実に驚くべき多彩な内容を誇る美術館である。
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ここでは、数あるこの美術館の所蔵品の中から、2つの作品をご紹介する。ひとつは、日本で唯一この美術館だけが所蔵する、エル・グレコ (1541 - 1614) の作品、「受胎告知」。この作品だけ展示も特別扱いで、照明を落とした部屋に一点だけ飾られている。伝統的な宗教絵画とは全く異なるその劇性や鮮烈な色使いが、感性を限りなく刺激する。私は世界のどの美術館でも、この画家の作品があるとワクワクするし、画家自身が暮らした街、スペインのトレドを訪問した際には、偽物と分かっている (笑) 画家の旧居で陶然とし、大作「オルガス伯の埋葬」の前では、涙も流さんばかりに感動したものだ。エル・グレコの際立った個性を充分に表したこの素晴らしい作品が日本にあることを、心から喜びたいと思う。
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もうひとつは、ベルギーの画家、レオン・フレデリック (1856 - 1940) の、「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん」という大作。題名の通り、最初の 3枚では、人々が死に絶えて行く場面が描かれ、中央の 1枚は地獄の業火のあとに地表を覆った氷河が溶ける場面、そして最後の 3枚では、復活した人々が神に感謝を表している。このフレデリックという画家について、私も詳しくは知らないが、いかにも象徴主義 (フランス語でサンボリズム。あ、サンバのリズムではないですよ 笑) の一大中心地であったベルギーの画家らしく、あまりに高踏的すぎず、俗っぽさ一歩手前という感じが、とてもよい。以下の写真ではなかなか細部が分からないので、ご興味おありの方は是非現地でご覧頂きたい。この 7枚が壁の高い部分に横一列に並んでいて、見上げて鑑賞するが、そのサイズがぴったりであることから、この作品の購入に合わせてこの美術館の本館の幅が決められたものと考えられている。そんなところにも、金に飽かせてやみくもに作り上げたコレクションとは異なる審美眼を感じることができるのである。
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さて、大原美術館を後にして、残るは岡山市内である。そこで見るべきは、もちろん天下の名園、後楽園と、天守閣は戦後の再建ながら、重要文化財の櫓を擁する岡山城だ。

水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並ぶ、日本三名園のひとつ、後楽園。ここも子供の頃に訪れたことがあったが、当時はまだジャイアンツの本拠地はドームではなく後楽園球場であったので、なぜその球場が岡山に姉妹施設を持っているのか不思議に思ったものだ (笑)。あ、もっとも、大人になった今でも、「えっと、日本三名園って、ここと偕楽園と、あとどこだっけ・・・あ、六義園か」と言ってしまった私という人間も、うっかりにもほどがある (笑)。六義園は東京の駒込にある柳沢 吉保邸の庭の遺構だが、いかに私が昔駒込に住んでいたからと言って、加賀百万石のあの素晴らしい兼六園には、さすがに太刀打ちできるはずもない。

ともあれ、写真をいくつか掲載する。門を入ってしばらく歩くと、眼前に広がる緑と、その向こうに聳え立つ岡山城の姿が実に壮大だ。その黒さから、別名「烏城 (うじょう」と呼ばれる岡山城、鉄筋コンクリートの再建であれ、やはりその姿をここで見ることができることには大きな意味がある。庭園もすみずみまで手入れされていて、さすがに天下の名園の名に恥じないものがある。
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これは、庭園の中にある流点 (りゅうてん) という東屋だが、色の違う石が 7個並んでいて、ここで履き物を脱いで、石を愛でながら休憩することができる。全国でもここだけにしかないらしい。なんとも風流な。
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園内にいる動物たちも、何やらのんびりしているように見える。
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さて、それから岡山城に向かうこととしたが、近くは見えても車で移動した方がよいかなと考えていると、後楽園の外、旭川沿いの道にはこのような表示が。
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うーむ。これだけデカデカと散歩道などと書かれてしまうと、この道を散歩するしかないですな。ご指示に従いましょう。と、近代的な橋の向こうに見えてきました、岡山城の雄姿が。いい姿です。
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この城は、1573年に宇喜多秀家がその前の領主である金光 (かなみつ) 氏を滅ぼして入城、改築したもの。関ヶ原の戦い後は小早川秀秋が城主となった。例の、関ヶ原で西軍から東軍に寝返ったとして後世評判の悪いあの武将だが、そのときわずか 19歳で、岡山入場後 2年後、1602年に 21歳で急死した。その後の岡山城は、池田氏の居城として明治維新に至った。その天守閣は惜しくも 1945年に戦災で焼失、現在のものは 1966年に鉄筋コンクリートで再建されたもの。焼失前の写真は以下の通りだから、現在の天守閣はかなり忠実に復元されたものと思われる。
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戦争で焼け残った月見櫓が重要文化財に指定されており、中に入ることもできる。
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城の敷地内には、過去を偲ばせるものがあれこれ残っている。宇喜多氏が城を本格的に改築した際の古い石組が地中から発見されている。
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天守閣横の御殿の跡には、地上に間取りの線が引かれており、また、礎石や台所の流しなどを見ることができる。
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城に来るといつも、周りの風景を見ては過去に思いを馳せる。天守閣最上層より旭川越しに後楽園と、その手前の例の「散歩道」を望み、かつての城主たちも「こちらが後楽園までの散歩道でござる」と誘導されたものかと、夢想してみた。日本全国で、戦争で失われた城は結構多く、その損失は計り知れないものの、それも長い歴史の中の人間の営みの結果と思って、せめて今再建された天守閣の眺めを楽しみたい。
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その後、岡山市内で家人が昔通った小学校など覗いてみたが、なんでも創立 140周年とのこと!! すごい歴史である。そういえば岡山には、閑谷学校という藩校があったことは有名だ。昔から教育熱心な地域であったわけだ。古代に巨大な王権を持ち、近世から近代にかけて豊かな文化が花開き、日本で最初に西洋美術館ができたこの岡山には、まだまだ尽きせぬ魅力があるようだ。またの機会、イヌ、サル、キジのトリオでまた出かけてみたい。

by yokohama7474 | 2015-11-07 18:03 | 旅行 | Comments(0)
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