ダニエル・ハーディング指揮 新日本フィル (トランペット : ホーカン・ハーデンベルガー) 2015年11月 8日 サントリーホール

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新日本フィルとともに進化を続けるダニエル・ハーディング。このところこのブログで何人かご紹介している、東京の指揮台に立つ世界の有望指揮者の中でも、特に頭角を現すのが早かった人だ。1975年生まれなので、既に (?) 40歳になった。今調べてみると、来年からパーヴォ・ヤルヴィの後任として名門パリ管弦楽団の音楽監督にも就任するらしい。この新日本フィルとは、"Music Partner for NJP" というよく分からないタイトルでの関係が続いているが、来年からの次期音楽監督である上岡 敏之の就任までは、このハーディングが実質的な首席指揮者と考えてよいものと思う。

さて今回ハーディングは、2曲の日本初演を指揮した。

 ブレット・ディーン : ドラマティス・ペルソネ (トランペット : ホーカン・ハーデンベルガー)
 ブルックナー : 交響曲第 7番ホ長調

ちょっと待った。1曲目は何やら現代音楽のようで、日本初演は分かるけど、2曲目のブルックナー 7番とは何だ? 散々日本で演奏されているし、このブログでも、先般ハイティンク指揮ロンドン響の演奏について書いたばかりではないか。いやいや、それどころか私は知っている。ブルックナーの 7番を日本初演したのは、金子 登 (のぼり) という昔の指揮者ではないか。随分古い話のはず。その通り。でも、今回使用される楽譜は、今年出版されたばかりの、ベンヤミン・グンナー・コースによる新版なのだ。この版による日本で初めての演奏なのだ。

まず 1曲目だが、このディーンという作曲家、1961年生まれのオーストラリア人で、長らくベルリン・フィルのヴィオラ奏者を務めたという異色の経歴の持ち主。この曲は 2013年に今日のソリスト、ハーデンベルガーのために作曲された。彼も同じく1961年生まれのスウェーデン人。現代音楽中心のイメージもあるが、世界の第一人者のトランペット奏者である。
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この曲は 3楽章からなる 30分程度の大曲で、オケもソロも、様々な音色が出るように工夫されているので (ソロはトランペット 2本に弱音器も 2個だ)、生で聴いているとなかなかに面白い。題名はラテン語で、劇作品におけるメイン・キャラクターを意味し、トランペットが様々な役を演じるという具合。第 1楽章「スーパーヒーローの転落」、第 2楽章「独白」、第 3楽章「偶発的革命」と、何やらコミカルな雰囲気で、実際ににぎやかな部分が多いが、第 2楽章では都会の孤独を思わせるトランペットらしい音楽もあり、サービス精神にあふれている。ただ、変拍子を多用するなど、演奏は技術的に難しそうであるが、ハーディングの明確な指揮ぶりのもと、危うげないオケの演奏が、ハーデンベルガーの超絶技巧を盛り立てた。聴衆の拍手に応えて彼が吹いたアンコールは、いかにもジャズの即興風だ。演奏後にホールのアンコール表示を見てびっくり。それは、My Funny Valentine であったのだ。このスタンダードナンバーはさすがに私もよく知っているが、演奏において旋律はほぼ溶解していた (笑)。マイルスもびっくりだ。

さて、メインのブルックナー 7番であるが、この新版、耳で聴いてもほとんど新しい箇所は感じられない。時折、トロンボーンとかチューバの伴奏が違うかなぁと思って聴いていたりしたが、例えば突然オケが休止するとか、第 2楽章と第 3楽章が入れ替わっているとか、終楽章コーダがベートーヴェンの 5番風にしつこくなっているとか、あるいはアルト・サックスが編成に入っているとか、そんな極端な箇所は皆無であった (あぁよかった・・・でも、これら冗談のうちひとつには、後でまた触れます)。そもそもこの版は、ブルックナーの弟子のシャルクやレーヴェという人たちが手を入れた改訂版を出発点とし (なぜなら、ブルックナー自身がその改訂版を認めていたので)、草稿や書簡やピアノ編曲譜を参照しながら、改訂版で修正すべき細部をピックアップして修正して行ったものだということだ。この曲、改めて思ったのだが、ほとんどの箇所では弦楽器が旋律を奏でており、そこに管楽器が入っては消えて行くという作りになっている。もちろん、管が旋律を奏でて弦が伴奏する箇所もあるし、第 2楽章アダージョの終結部、ワーグナーを追悼する慟哭のような箇所では、ワーグナー・チューバとホルンが朗々と響くし、第 3楽章スケルツォの中間部 (トリオ) のように木管が主役の箇所もある。だが、基本的に大きな弦の大河があって初めてロマン性が滔々と現れるのだと思った。その意味では、細部の強弱がどうなっているかは、曲の本質にはあまり関係がないとも思われるし、もともとこの曲は版によってそれほど違いがないわけで、要はその場の演奏が充分に音楽を感じきっているか否かが最も重要だろう。この曲、昨今ではトスカニーニとかミュンシュといった、およそブルックナーのイメージに似つかわしくない指揮者の演奏も聴くことができるが、それは (特にイタリア人のトスカニーニの場合) このシンフォニーが弦の歌に溢れているからではないか。

そのように考えると、今日のハーディングと新日本フィルの演奏には、残念ながら、前回のマーラーの「復活」を聴いたときほどの感動はなかった。ブルックナーの歌は、小細工 (新しい版を使うことが小細工だという失礼なことを申し上げるつもりは毛頭なく、一般的に「うまく聴かせよう」という態度のことを言っている) を寄せ付けない大きな山脈のようなもので、指揮者の適性も如実に出るものだと思う。どこがどう不満ということもあまりないのだが、最高のブルックナー演奏にある「何か」が足りないのだ。音楽とはなんとも不思議なものだ。

これまでに私が生で聴いたこの曲の最も珍奇な演奏は、第 2楽章と第 3楽章をひっくり返したものだ。ギャグではない。つまり、スケルツォを先に、アダージョを後にしたということで、実はこれは、ブルックナーの残り 2曲の交響曲、つまり 8番と 9番で取られている順番だ。もしブルックナーの最後の交響曲をシリーズと考えれば、この 7番を 8番・9番と合わせるという考えもあるのだろうが、何か文献上の根拠でもあるのだろうか。私としては、終楽章が未完の 9番がこの順番になっていないと、スケルツォで全曲を終えることになって甚だ不都合だということしか思いつかない (笑) ので、7番でその順番にする理由は分からない。ところで、この 7番でそんなヘンなことをしたのは誰だかお分かりだろうか。答えは、あの堅実な指揮者、サー・コリン・デイヴィスで、オケはロンドン交響楽団だった (2008年のことだったと思う)。デイヴィスがそのかなり前にバイエルン放送響と来日したときには普通の順序で演奏していたので、その真意をいぶかったものだ。今調べてみると、Orfeo 盤のデイヴィスと同じバイエルン放送響の 1987年の録音は、第 2楽章と第 3楽章を入れ替えているらしい。ウーム、謎だ。ブルックナーが生きていれば、なんと言っただろうか。弟子たちの改訂を唯々諾々と受け入れた人だから、「まあそれもよいのではないか」とでも言うのでしょうかね。
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またまた話がそれてしまったが、ハーディングと新日本フィルの相性はかなりよいと思うので、今回に懲りず、これからも聴き続けたいと思う。来年は、1月にブリテンの戦争レクイエム、7月にはマーラー 8番と、声楽を伴う大曲が予定されており、今から楽しみだ。

by yokohama7474 | 2015-11-09 00:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)