内田光子 ピアノ・リサイタル 2015年11月15日 サントリーホール

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ことさらに日本の音楽家の世界での活躍について気にするつもりはないが、私の経験において知る限りの事実として申し上げると、日本人の器楽奏者で、世界のどこでも超一流として認められている人は 2人しかいない。ピアノの内田光子と、ヴァイオリンの五嶋みどりだ。私としては、内田が日本人であろうと何人であろうと、聴く価値のある音楽を奏でる人である以上、機会があればなんとしても聴きに行きたいと考えている。幸い東京でも数年に一度はリサイタルを開いてくれているが、今回はシューベルトとベートーヴェンの晩年の作品を組み合わせたコンサートが 2回開かれた。私の出掛けた 11/15 (日) の曲目は以下の通り。

 シューベルト : 4つの即興曲作品142、D.935
 ベートーヴェン : ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲ハ長調作品120

実はシューベルトは 4つの即興曲という作品をもうひとつ書いていて、そちらは作品90、D.899 (ちなみにこの D というのは、ドイッチュ番号と呼ばれ、シューベルトの作品の研究者であるドイッチュという人がつけたもの。モーツァルトにおける K、すなわちケッヘル番号と同様) であった。今回、東京での 2回の演奏会では、いずれも後半はベートーヴェンのディアベッリ変奏曲であったが、前半の曲目は、11/10 (火) が D.899、11/15 (日) が D.935 であった。

内田のレパートリーと言えば、なんと言っても彼女の名を高からしめたモーツァルトをはじめ、ドイツ・オーストリア系が中心になる。とは言っても、ベートーヴェンのソナタを全曲録音しているかと言えばそうではなく非常に限定的だし、リストを弾く彼女は想像もできない。バッハを弾いたのを聴いた記憶もない。一方で、新ウィーン楽派を集中的に採り上げたり、ドビュッシーの練習曲を録音していたり、あるいは歌曲の伴奏をしたりと、なかなかにユニークな活動ぶりで、少なくとも網羅的にピアノのレパートリーを記録に残そうという欲はなく、本当に自分が採り上げたい作品だけを採り上げているようである。その意味では、彼女の演奏会は、まさに内田の感性によって厳選された曲ばかりということになろう。今回もそのこだわりが見られる。

シューベルトの即興曲 (Impromptus) はいずれも、彼の死の前年、1827年に書かれている。それぞれ 5分から10分程度の小品で、シューベルトらしい歌に溢れてはいるものの、曲集として統一感がある感じはしない。31歳で亡くなった彼であるから、晩年の情緒という言葉は似つかわしくないものの、でもどこかにもうすぐこの世から旅立ってしまう人の見る夢幻的な要素を感じさせるとも言えよう。内田は既にシューベルトのソナタ集とともにこれら即興曲も録音していて、私も CD を持っているが、今回の演奏は CD (1997年録音) よりもさらに丁寧な仕上がりだったのではないだろうか。音の粒立ちがよいという感じとも少し異なり (彼女のモーツァルトならこの言葉を使ってもよいであろうが)、音にほんのわずか厚みが加わっているように思える。別に情念がこもっているというわけではないが、あの世に向かい始めた青年作曲家の甘美な憧れのようなものが、諦念とともに空気を染めている、そんな音だと思った。それぞれに美しい曲で、ただ心地よく耳を傾けるだけでも充分ではあるものの、聴く人それぞれが自分の経験から自由に想像を膨らませることで一層豊かな広がりを持つはずだ。

後半のベートーヴェンのディアベッリ変奏曲であるが、これは実に変わった曲だ。私が冗談交じりに「ベートーヴェンはヘンソウの名人だったんだってよ」と言うと、人は大抵、「へー、探偵の趣味でもあったの? それともコスプレ?」という反応をするが、「変装」ではなく「変奏」だ。主題を様々に変化させてつなげて行く曲だ。このディアベッリ変奏曲は、作曲者であり出版業者でもあったディアベッリという人物 (上記のシューベルトの即興曲も彼が出版した) が自作のワルツ主題を使った変奏曲を様々な作曲家に依頼したものである。ベートーヴェンはその生涯に様々な変奏曲を書いているが、これは晩年、1823年の完成。変奏曲とは、普通は英語では Variation だが、この曲の原題は「変容」という意味のドイツ語らしい。確かにこの変奏曲、気の利いたあの手この手で聴衆を楽しませるというより、異様な変形を繰り返すような奇妙な曲である。あるいは、ほとんどの曲が諧謔と哄笑に満ちている感じで、ほんの少し透明な叙情性をたたえた箇所があっても、すぐに「がっはっは」というような音に取って変わられてしまうのだ。中でも面白いのは、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」開幕早々にレポレッロが歌う箇所がパロディ化されて出てくるところで、これは、もともとのディアベッリのあまり上質とは思われないワルツの主題に、このレポレッロの歌に近い箇所があるからだろう。でもこれ、なんとも野蛮な感じで出てくるし、曲全体を通して、ベートーヴェンが同時期に書いた最後の 3つのピアノ・ソナタの清澄で深遠な世界とは程遠いことに驚かされる。内田の演奏はまさにその野蛮さを執拗に再現するもので、あれだけの密度で野蛮してしまうと、心理的にも肉体的にも相当疲れることだろう (笑)。ただ、さすがにこのピアニストは野蛮さの中に強烈な美意識を感じさせ、忘れがたい名演であった。その意味では、この日のコンサートではアンコールが演奏されなかったのも、当然のことと思われた。

プログラムに内田の興味深い言葉がいくつか載っているので、ここでご紹介しよう。

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シューベルトがどちらかというと死に向かって近づいていく美しさを表現したとしたら、ベートーヴェンには死に近づく際に宇宙を見渡すような特別な世界観がある。
(中略)
(ディアベッリ変奏曲の作曲が一旦中断し、30・31・32番のピアノ・ソナタ、ミサ・ソレムニス、第9といった作品と創作時期が重なってくること) の結果、姿を現した作品の全体像は、人間が生きていく上で遭遇する最大の深みにスポッとはまってしまったようなもの。その一方で、深みに落ち込んだ者を上に引き上げる力がある。それはベートーヴェンにしかできないこと。

UNQUOTE

これを読むと、上記の私の感想の背景がそのまま演奏者の口から語られていることが分かる。音楽の持ちうるメッセージ性と、音を通じてそのメッセージを発することができる優れた音楽家の素晴らしい能力に、改めて感じ入る。

さて今回は終演後のサイン会はなかったものの、その場で販売している新譜 CD を買うと直筆サインがもらえるというので、早速購入。これは、ソプラノのドロテア・レシュマン (今伸び盛りの歌手で、7月のハーディング指揮新日本フィルの素晴らしいマーラー「復活」でも歌っていた) の歌うシューマンとベルクの歌曲の伴奏をしたもの。
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実は内田さんには、ニューヨーク在住時に、カーネギーホールでのリサイタル後のサイン会で、家人とともにサインをもらったことがある。そのとき、我々夫婦を見てにこやかに "He~llow~" とおっしゃったので、「日本人です」と言ってしまい、若干気まずい思いをしたものだ。大体私は国外では日本人に見られることはほとんどなく、ではイタリア人かフランス人にでも見られるかというと、どう転んでもさにあらず (笑)、まあどこかの怪しげなアジア人というわけだろう。いやいや、そんなことをいちいち気にしてはいられない。冒頭に書いた通り、私は音楽家の国籍でどうのこうのということは考えない。それと同様、私自身が何人に見えようと、音楽鑑賞には関係ないはずである。ベートーヴェンがディアベッリ変奏曲を書いたときの気持ちで、がっはっはと笑いながら、虚心坦懐に音楽を楽しみたいと思う。

by yokohama7474 | 2015-11-16 00:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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