村上隆の五百羅漢図展 森美術館

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世の中には食わずぎらいというものがある。子供の頃嫌いだったピーマンや、場合によってはビールなども、人生の過程のある瞬間、理屈ではなくビビッと来ることがある。現代日本を代表する美術家、村上 隆。私はどうも彼の作品が好きになれず、数年前に芸術新潮が「まだ村上隆がお嫌いですか?」という特集を組んだ際に、「おぉ、それそれ」と思ったものである。ただ、正直に白状すると、彼の様々な場での発言を見たり聞いたりするにつけ、もしかして日本美術の歴史と伝統を新たなかたちで伝承する、すごい美術家ではないかと思い始めたことは否めない。だが、回顧展が開催される機会がなかったので、私にとって村上隆が意味のある芸術家であるのかそうでないのか、考えることすらも忘れていた。そんな折、六本木ヒルズの森美術館で開かれているこの展覧会に足を運んだのであった。そして、いまさらのように、世の中には食わずぎらいというものがあることに気付いたのである。
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この展覧会は、以前このブログでもご紹介した、芝増上寺で開催中の狩野一信の五百羅漢図の展覧会とも連動した企画で、村上が 2012年に、その前年に発生した東日本大震災へのカタール国からの援助に感謝するために同国首都ドーハで開催した巨大壁画を日本で初めて公開するもの。一言で言おう。ここに展示されている作品、いずれも素晴らしい。美しくて、しかも強い表現力がある。これによって、私が今までこの美術家に対して描いてきたイメージが見事なまでに反転したのである。

今回展示されている巨大な五百羅漢の壁画は、中国伝来の四神である、青龍 (東)、朱雀 (南)、白虎 (西)、玄武 (北) に合わせた四面からなる (後述)。それに因んで、この展覧会の入り口にはまず、白虎と青龍が。
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ここで私の心はチョイとばかり緩む。なぜなら、この 2匹の動物 (神?) が子供の声で何やら喋っているからだ。もちろん録音によるものだが、なんだかちょっとわざとらしい感は否めない。冷静になり、村上隆には騙されないぞと自分に言い聞かせる。そしていよいよ会場に足を踏み入れ、通常の美術展とは異なる雰囲気に気付く。写真撮影バリバリ OK なのだ。
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ここで村上の先進性に思い当たる。分野を問わず美術館では、撮影不可のケースがほとんどであるが、その理由は明らかにされていない。古美術であれば、フラッシュを禁止にすることで美術品の保護を促す場合もある。だが、現代美術の場合はどうなのであろう。著作権という問題は多分あるのだろう。だがしかし、このような時代になってくれば、美術作品のオリジナリティとは何ぞやという議論は避けて通れない。私も学生時代にボードリヤールのメディア論を少しかじった口だ。すなわち、今日の消費社会における諸事物は、プラトン的な「オリジナル」と「コピー」(「本物」と「偽物」) の対立において存在しているのではなく、ただその「模像(シミュラークル)」の循環のみによって存在していることになるという理論。しかもこれは何十年も前の理論で、インターネットが人生のかなりの部分を占めるに至った現代にあっては、オリジナルの意味など、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる一反もめんのようなもの (水木しげる先生、ご冥福をお祈りします)。もはやペラペラで、一体何がオリジナルであるのかも定かではない。そのような時代にあっては、展覧会場でももったいぶって撮影禁止にする必要がどこにあるのか。村上のような美術家にとっては、いくらでもコピー可能な芸術が所与のものとなっているがゆえに、来訪客がいかに作品の写真を撮ろうと、全く問題にはならないのだろう。

そして、肝心なことは、作品自体が美しいこと。これは連作で、最初の方に描かれている村上の自画像が段々なくなって行く様を表している。色彩の配置が絶妙で、作品の意味などどうでもよくなってくる。なぜか心に残る不可思議な連作だ。
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これは別の作品だが、この美しさは観客の足を停めるに充分だ。うーむ、作品が美しければ、誰も文句のつけようがない。しかも逆説的であるのは、実物を目の前にしたときと、このように写真で再確認するときで、得られる深みが全然違う。すなわち、写真による作品の複製が可能な環境において初めて、オリジナルがいかに美しいかを思い知るのである。これはすごいことだ。
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様々なところで紹介されているが、村上は日本美術の伝統を強く意識していて、過去の日本の芸術作品へのオマージュを多々見受けることが可能だ。そのことによって作者は、見るものの美術史に関する知識や感覚の冴えを試しているのだ。例えばこの、腕が切断された一種グロテスクな作品は (日本美術に造詣の深い方はすぐに分かる通り)、雪舟の描く「恵可 断臂図」へのオマージュなのだ。雪舟のオリジナルと併せてご覧頂こう。
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ここで描かれているのは、後に恵可 (えか) と名乗ることになる高僧が、禅宗の開祖である達磨が少林寺において面壁座禅中、参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。見る者は皆、この切り離された手首にギョッとするだろう。村上の作品は、そのような鑑賞者の心理を反映した作品になっている。

展覧会のタイトルは五百羅漢図なのであるが、それにとどまらず、ここには村上の多彩な近作が多く展示されている。これなどは、一見真っ白だったり真っ黒だったりする、いわゆるまっとうなモダンアートの雰囲気の作品だが、何もない真っ白なキャンバス自体がそのまま作品になっているのかと思いきや、近づいてよく見ると、このような模様が一面に散りばめられている。これ、手塚治虫描くところのヒョウタンツギにそっくりではないか。なんとも人を食っている。
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手塚治虫と言えば、今回の五百羅漢の壁画の中には、このような「火の鳥」へのオマージュもある。
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また、先に追悼の意を示した、水木しげるへのオマージュもあるのだ。
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このような楽しげな龍もある。
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今、「楽しげ」と書いたが、これこそが村上芸術のキーワードであると思い知った。過去の日本美術に自らの作品のオリジナリティー (?) を対比するこのような作品にも、そのキーワードが生きている。これは、ロラン・バルトの「表徴の帝国」の表紙でも知られる、京都国立博物館に寄託されている宝誌和尚像のパロディだ。
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もちろんそれだけではなく、例の狩野一信の五百羅漢像にも類似の造形が見られる。というわけで、この展覧会にも、その五百羅漢像の一部が展示されている。
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さて今回の目玉である、村上描くところの五百羅漢像であるが、全長 100m に及ぶ世界最大級の絵画のひとつとなった。全部で四面からなり、それぞれに中国の四神の名前がついている。まず、入り口にあったぬいぐるみと同じ組み合わせの白虎と青龍は以下の通りだ。
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そして朱雀と玄武。
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この壁画には、大小様々な羅漢が、本当に五百人描かれているらしい。もちろん、このような規模の作品をひとりで仕上げられるわけもなく、工房による作品だ。これぞ日本古来の絵画製作方法だ (ヨーロッパにもあり)。端っこにこのような銘が。今や会社となっている村上の率いる集団、カイカイキキの名前が記されている。
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さてここで五百羅漢図の一部をたっぷりお楽しみ頂こう。羅漢に混じって赤鬼青鬼も暴れているので、お見逃しなく。
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この展覧会で写真撮影が許されているのと同様、村上のオープンな態度とその裏にある自信を示すのが、この五百羅漢図の製作過程での様々な資料が展示されていることだ。これはまず前例のないことではないか。
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このあたりの展示を見て行くうちに、これまでの村上隆への嫌悪感が雲散霧消、すばらしい芸術家への感嘆の念へと変わって行った。展覧会の出口近くにあったこの作品。なにやらグジャグジャ書いている上に、「馬鹿」と読める字が書いてある。
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展覧会場にある説明板によると、村上は世界的な名声が高まるにつれ、多大なるプレッシャーに苛まれたとのこと。このボードにも、あれこれ自分の目指してきたことや、未だに残る課題がびっしり書かれており、そこに最後に「馬鹿」を加えているのである。自己嫌悪は芸術家にとって飛躍のステップボードだ。常に課題に直面している孤独な芸術家像が目に浮かぶ。

というわけで、私としては目からウロコの村上隆再発見。出口では玄武と朱雀が、やはり何やら録音された声で何やら喋っている。
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そして観客は、会場から出たあと、村上グッズを売っているコーナーを通り、あれこれのキャラクターに、「かわいいー」などと言いながら金を払うのだ。かく言う私も、ガチャガチャカプセルで 2つの根付型羅漢フィギュアをゲット。早速拙宅のフィギュアコーナーに仲間入りだ。
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まあさすがに金儲けの達人、村上隆だけのことはある。それから、これは実に巧妙な手だと思うのだが、展覧会の図録は未だ作成されておらず、実際の展覧会風景を取材してから作成するらしい。それをやられると、図録の完成を待ちきれず、きっともう一度会場に足を運ぶことになろう。私もまんまとその手に乗ってしまいような予感 (笑)。このような経験をしてしまうと、以下のようないかにも村上隆的キャラクターにも、何か得も言われぬ雰囲気を感じてしまい、ついつい財布の紐が緩んでしまうのであるが、まあそれもよいではないか。日本の景気回復のため、どんどん財布を開こう。ありがとう、DOB 君!!
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by yokohama7474 | 2015-12-25 01:09 | 美術・旅行 | Comments(2)
Commented by dezire at 2016-03-20 22:43 x
こんにちは。
私も村上隆の五百羅漢図展を見てきました。作品のスケールが大きいだけでなく何層にも刷り重ねられた色彩感と密度。羅漢たち異形の霊獣たちは昔の五百羅漢的なものからアニメ的なイメージも入り交じり、膨大な視覚情報の嵐に圧倒されました。画結局何を描きたかったのかはわかりませんでしたが、巨大な画面から伝わってくるオーラに私の五感が共鳴してきて、画家の意図が分らなくてもアート鑑賞を楽しめる、まさに現代アートとはそんなものだと村上隆の作品を見て感じました。

画家の意図を理解するアートから五感で感ずるアートに変革した、美術史に巨大な足跡を残した巨匠画家についてレポートしてみました。現代絵画やアートを理解する上でご参考になると思いますので、ぜひ覗いてみてください。
Commented by yokohama7474 at 2016-03-21 11:16
いつもコメントありがとうございます。2012年のポロック展には私も行きました。昔、エド・ハリスが主演・監督した伝記映画もあって、なんとも痛々しかったのを覚えています。抽象表現主義という名前でくくってしまうことで多少毒抜きにはなってしまいますが、おっしゃる通り、鑑賞者の五感に訴える芸術だと思います。
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