杉原千畝 スギハラチウネ (チェリン・グラック監督)

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子供の頃から他人の押しつけが嫌いで、文部省特選映画など、最も敬遠するひねくれ者であった私である。大人になった今でも、まあ社会通念上の常識はあるものの、美談とか教訓といったものにはまず一旦距離を置くのが習慣となっている。従って、このような映画を見に行く予定は、本来なかったのである。劇場で予告編も何度か見たが、正直それほど食指を動かされずにいた。しかし、どういう風の吹き回しか、ほかに見たい映画もないし、まあこれでも見るかと思ってある朝、劇場に行ってみたのであった。

上のポスターにもある通り、杉原千畝 (スギハラ チウネ) は、第 2次世界大戦中の外交官で、ユダヤ人にヴィザを発行することでナチの迫害から命を守った人物である。「日本のシンドラー」とも呼ばれて、近年ではマスコミで紹介される機会も多いので、昔に比べて知名度は格段に上がっている。いや、実はシンドラーよりも救ったユダヤ人の数は多いのだとも聞いたこともある。この映画は、戦時下においてそのようなことがいかにして可能になり、またこの杉原という人物がどのような人であったのかについて、史実に基づいた作劇がなされている。

まず気づいたのは、タイトルに杉原千畝の四文字が浮かび上がったときに、その間に見えた文字。"PERSONA NON GRATA" である。ペルソナ・ノン・グラータ。これは、国際関係において他国が分類する「好ましからざる人物」のことだ。その意味が分かる人は、このタイトルを見て最初におやっと思うはずだ。何千人もの命を救った立派な人が、好ましからざる人物だなんて、一体どういうことだ。そして、ここからドラマが進むにつれ、世間に流布する聖人君子としての杉原のイメージは実に皮相的な通り一遍のものであって、実際には複雑な事情が絡み合っていたことを、観客は理解することになる。杉原自身にも心の動揺があり、また危険を冒して彼の判断に従った人たちもいて、彼らがいかに呻吟したかも描かれている。そして、歴史の歯車の冷酷さとその中の人間の非力さを思うとき、人は大きく心を揺さぶられるのだ。もちろんそれを観客に感じさせるには、映画としてのテクニックが必要で、その点でもこの作品は高い水準をクリアしている。

まず諸国が戦争をしている時代の外交官の役割を考えてみよう。まさに自国の命運のかかった極限の緊張状態で取るべき道を知るには、まずは他国の動向をよく知る必要がある。その意味で、母国を離れて他国に暮らす外交官とは、スパイに近いか、またはスパイ顔負けの諜報活動を行う必要が、多少なりともあったものと思う。この映画でまず明確にされるのは、1934年時点における、諜報活動に長けた、かつかなり際どいところで危険に身をさらすこともいとわない、杉原のしたたかな行動力だ。同僚であるロシア人女性との関係も、なにやらいわくありげだ。これはとても聖人君子とは言えまい。実際、そのインテリジェンス能力を警戒したソ連政府は、彼をペルソナ・ノン・グラータ、つまり好ましからざる人物と認定して、在モスクワ日本大使館への赴任に際して入国を拒否。一旦日本に帰国する。その後 1939年になって、バルト三国のひとつ、リトアニアに新設される領事館に総領事として派遣されることとなる。この映画のプログラムに載っている当時のヨーロッパの地図は以下の通り。当時のドイツの勢力と、ソ連の位置に鑑みれば、なんとも危険な国に派遣されたことが分かろう。彼の帯びた使命は、「複雑怪奇」な欧州事情をつぶさに観察・分析することであったろう。
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ストーリー (及び史実) を追うことはこのあたりでやめにするが、私が言いたかったことは、この杉原という人物、何も伊達や酔狂、あるいは根拠のない正義感に駆られてユダヤ人たちにヴィザを発給したわけでないということだ。この危険な環境に身を置いて、日本の取るべき道について考えた人物であり、諸々の事情の錯綜の中、あえて言ってしまえば行きがかり上、ユダヤ人たちからあてにされることになる日本が行うべきことを、政府の命令ではなく自らの信念に従って行った人物。そのように考えるのが妥当であろうかと思う。主演の唐沢寿明は、大変真摯にこの人物像と向かい合っているように思われる。ただ、ないものねだりであえて言えば、さらに狂気を含んだ表情が見えてもよいようにも思った。実在の杉原という人物は、一筋縄ではいかない人物であったに違いない。以下、映画の中の唐沢と実際の杉原の写真。
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誤解を受けないよう、もう少し説明しよう。杉原千畝は信念の人であり、人間の命を救うという人道的な使命に燃えた人でもあったことは事実であろう。だがそれは、慈善事業を行ったということではなく、日本の誤った方向 (すなわち、独ソ不可侵条約締結により、ドイツはソ連と事を構えて消耗することを避け、日本をサポートしてくれるだろうという期待をもって、アジア太平洋地域に進攻すること。つまりアメリカとの正面衝突回避の後ろ盾をドイツに求めたこと) に異議を申し立てても聞き入れてもらえないことから、憤懣やるかたなく、政府の指示ではなく、自分の信念を貫いたということだ。しかも、リトアニア領事館が近く閉鎖されることを見込み、ヴィザの例外規定の解釈を故意に多様化しながらの、いわば土壇場での頭脳的な作戦を取ったわけである。つまり、決して単純な正義感だけに駆られてやみくもに政府に背いたわけではないのだ。杉原が発給したヴィザは、日本を最終目的地とするものではなく経由地としているものであり、もちろんそれだけでも政府の方針に反する危険な反逆行為であったわけだが、日本に難民が定住することを前提としたものではない。そして映画の中で彼はユダヤ人たちに、「これはただの紙切れで、あなたたちの身の安全を保障するものではない」と警告するのだ。なんという現実主義。そして、その現実主義を貫ける、なんという勇気!

正直に白状しよう。私はこの映画で杉原がヴィザの発給を決意する静かなシーンで、胸からこみあげるものを我慢することができなかった。「命のヴィザ」などという言葉はあまりに陳腐すぎる。杉原自身が劇中で言う通り、ヴィザなどはただの紙切れにすぎないのだ。問題は、そんなただの紙切れに翻弄されてしまう人間の命の儚さと、政治の責任の重さということにある。だからこれは、勇気あるひとりの男の、特殊な物語なのではない。人間の愚かさについての、普遍的な物語なのだ。いつの時代でもなくなることのない、戦争という人間の愚かさについての。

役者に関して。妻役の小雪は、激動の時代を杉原に寄り添って生きた女性像を優しく静かに演じていたが、ちょっと優しすぎるような気がしないでもない。その点、男性の脇役陣 (石橋凌、滝藤賢一、板尾創路、濱田岳ら) にはリアリティがあってよかったと思う。そして、外人俳優たちも、それぞれいい味を出していた。
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外人役者のほとんどはポーランド人。それもそのはず、この映画はほとんどがポーランドでのロケで撮影されているのだ。エンドタイトルには延々とポーランド人スタッフの名前が連なっている。私はワルシャワを 3度訪れたことがあり、ユネスコ世界遺産の中で最も新しい建造物である旧市街を散策したこともある。この旧市街、実は戦後にできたものなのである。ナチス・ドイツが完全に破壊した街を、壁紙やそこにかかっている時計に至るまで、完全に復元したものなのだ。ナチの暴虐を見返す、人間の生きる力を示す町並みなのだ。それゆえポーランドでは、ナチの迫害から多くのユダヤ人を守った杉原の伝記映画撮影への惜しみない協力があったと聞く。

さて、この映画の監督はチェリン・グラック。
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初めて聞く名前だが、1958年、アメリカ人の父と日系アメリカ人の母の間に和歌山に生まれたとのこと。映画人としてのキャリアは、なんと 1980年、寺山修司監督の「上海異人娼館」というから恐れ入る。その後、リドリー・スコットの「ブラック・レイン」、シュワルツェネッガー主演の「ラスト・アクション・ヒーロー」や、ジョディ・フォスター主演の「コンタクト」、あるいは「トランスフォーマー」まで、多岐に亘る映画で助監督を務めた由。助監督と言っても、監督に次ぐエラい人ではない。音楽の世界における副指揮者と同じで、要は雑用係である。つまり、かなり長い苦労の末に監督になることができた、たたき上げの人なのであろう。この映画の演出は、これみよがしなきれいごとにならない点、なかなかよかったと思う。杉原が妻となる女性と出会って公園でデートを重ねる間に季節が移り変わるシーンは大変美しかったし、上記の通り、杉原がヴィザの発給を決める瞬間の静かな時の流れもよかった。名前を覚えておいて損のない監督であろう。

ほかには、佐藤直紀の音楽が印象に残った。大河ドラマ「龍馬伝」や「るろうに剣心」シリーズそのままに、情緒のある箇所は映像の邪魔をしないように美しく、風雲急を告げる箇所ではうねり上がる音が緊張感を演出していた。

というわけで、この映画はその外見ほど単純ではない。正直なところ、文部省推薦タイプの予告編の作り方には問題があって、潜在的な観客を確保できないような気がしてならない。本当に信念を貫くのなら、誰に対してもよい顔などすることはできない。重大事を成し遂げるには、誰かから「好ましからざる人物」というレッテルを貼られる覚悟を持たなければならない。あ、会社の出世などは世界の重大事ではないので、ニコニコとして誰からも好まれる人物であった方が成果はあると思いますがね (笑)。まあ程度問題だが、基本は各人の生き方の問題になってきますな。人間誰しも、日常生活で杉原千畝になる必要はなく、ここという大一番で彼の勇気を思い出すというのが、平和な時代に生きる我々の心構えではないでしょうか。

Commented by 杜の二日酔い at 2016-01-01 09:44 x
明けましておめでとうございます!
駐独大使?の小日向さんのツンデレ振りが、パティシエ(朝ドラ『まれ』)の池畑大悟に見えて、困りました。
確かに、主人公は善人ベースで描かれ過ぎていたように思いますね。その分、小雪が、実は夫のキャラを知り尽くしつつ表には出さない外交官の妻を演じきっていたのではないでしょうか?
というわけで、今年もよろしくお願いいたします。
Commented by yokohama7474 at 2016-01-01 22:36
> 杜の二日酔いさん
あけましておめでとうございます。さすが愛妻家の杜のバッカスさんですね。そういう見方もありますね。今年も楽しい一年にしましょう!!
Commented by Keith at 2016-05-16 18:06 x
一番の写真を借りることができますか?私もウェブサイトで映画の紹介を書きたいです。ありがとうございます。
Commented by yokohama7474 at 2016-05-16 21:50
>Keithさん
もちろん、どんどんお使い下さい‼
by yokohama7474 | 2015-12-29 00:38 | 映画 | Comments(4)