アンジェリカの微笑み (マノエル・ド・オリヴェイラ監督 / 英題 : The Strange Case of Angelica)

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昨年の 4月、実に 106歳で亡くなったポルトガルの巨匠監督、マノエル・デ・オリヴェイラの 2011年の作品である。この監督が日本に紹介されたのは、1990年前半くらいであったであろうか、私の世代の芸術映画好きなら避けては通れない存在、というよりも、崇拝者模倣者追随者 (髭だけマネするとか 笑) を多く生んだ、かの蓮實 重彦 (はすみ しげひこ) の功績であった。この方、フランス文学者であり文芸評論家であり映画評論家であり草野球のプレイヤーであり、後には (これはびっくりだったが) 東京大学総長にまで登りつめた人物である。ここで詳述は避けるが、私にとっても大変に影響を与えて下さった方。だが蓮實先生と呼ぶのではなく、仲間とともに「ハスミ」と呼び捨てにするのが、我々世代の彼への屈折したリスペクトの表現であったと言ってもよいだろう。因みに「ヒコ」の字は旧字体でないと本人が怒るのだと、中学 1年のときのクラス担任の現国教師が、蓮實の初期の代表作「反=日本語論」を教材として使用したときに言っていたのを昨日のことのように覚えているが、この映画のプログラムに寄せている文章の名前表記には、通常の「彦」が使用されており、さすがの硬骨漢ハスミ先生も、今年 80歳というお年になり、少しは丸くなられたのかと思ってしまうが、その一方で、飛行機の機内誌でさくらんぼの宣伝に出ているのなどを見ると、笑ってよいのか否か、複雑な気持ちになるのである。ハスミ節健在ということか。

おっと、映画の紹介前に雑談が長くなってしまっているが、私自身のオリヴェイラの映画との出会いはあまり幸運なものではなく、昔ヴィデオで「神曲」「アブラハム溪谷」「メフィストの誘い」などを録画して見ようとしたが、ちょっと見るとどうも面白くなくて、なかなか自宅での鑑賞が続かなかったのだ。ハスミ先生には、お前には映画を語る資格などないとお叱りを受けるだろうが、それでも本当のことだから仕方ない。「コロンブス 永遠の海」などは劇場で見たような気がするのだが、さっぱり思い出せない。それどころか、これは劇場で見たことをはっきり覚えている「リスボン物語」がてっきりこの監督の作品かと思いきや、それはヴィム・ヴェンダース (この人もハスミが熱心に日本に紹介したのだが) 監督で、オリヴェイラは特別出演しているだけであった。これは 2008年、オリヴェイラ 100歳の頃の写真。元気そうだなぁ。
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さて、そろそろこの映画について語ろう。いや実に素晴らしい。現実と幻想の境が曖昧となり、人間の感情の錯綜があり得ない現象を引き起こすのだが、それを描くオリヴェイラの手腕は自然そのもの。ある意味魔術的な作品と言ってもよいだろう。ストーリーは単純で、アンジェリカという若い女性が亡くなり、その死に顔を写真に撮ったイザクというユダヤ人のアマチュア写真家が彼女の魅力に憑りつかれるというもの。これはその「出会い」のシーン。この映画を通して言えることだが、室内でも恐らくは実際に天井や床に備え付けられている照明以外を使わずに撮影しているように思われる。つまり、薄暗い室内のシーンは本当に薄暗く、多くの場合には逆光になったりもするのだが、空は南欧のイメージとは異なる曇天ばかりだ。また、音楽が使用されているシーンも本当に限定的だ。
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そういう映画は陰湿な内容かというとさにあらず。上のポスターにあるアンジェリカの表情をご覧頂きたい。まさに微笑みを浮かべており、映画の中では、まずイザクが覗くファインダー (いつの設定であるかの明示はないが、デジカメではなくフィルム式カメラである--- 尚、このオリヴェイラ自身による脚本の構想は 1950年代に遡るという) の中で、彼女はぱっちりと目を開けて微笑むのだ。そして、イザクの魂はアンジェリカの (今も近辺に漂っているらしい) 魂と同調を始める。このようなモノクロの幻想的なシーンもある。これは、スーパーマンやスパイダーマンが彼女を抱きかかえて宙を飛ぶのとは大違い (笑)。本来飛ぶ力などないはずの男が、憧れの女性と魂の同調を起こすことで初めて生まれるシーンなのである。ある種甘美でありながら、でも実はかなり危ない精神の均衡状態であると言えよう。ワーグナーを俟たずともヨーロッパ文明において時折見られる「愛と死」の観念が感じられる。
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前回の歌舞伎の記事で、亡くなった遊女夕霧の亡霊と踊る男の話を書いたが、設定はかなり異なるものの、このようなヨーロッパの愛と死の観念も、日本の情念も、共通する部分はあるのではないか。明らかな共通点は、このような超常現象の中で当事者たちは本当に恍惚としていることだ。主人公イザク (オリヴェイラの孫が演じている) は実際、アンジェリカに入れあげるにつれ、下宿での奇行が目立つようになり、いわば現実の中に暮らすことが困難となって、ひたすらアンジェリカとの夢の世界に漂って行くのである。プログラムに記載されているオリヴェイラのインタビューによると、もともとこの脚本が構想された 1950年代には当然ながらユダヤ人虐殺の記憶が生々しく残っていたので、主人公イザクはそこからくる精神的苦痛から逃れることを求めていて、アンジェリカがその苦痛から解放してやるのだとのこと。

だが私がこの映画を思い出すときに気づくのは、森羅万象に息づく命を、監督が実に自然に映像として形象化していることだ。あるシーンでは、床の上を歩いて来た猫が、壁際の高いところにぶら下がったかごの中の小鳥を見て狙いを定め、座り込んで静止するが、しっぽはゆっくりと左右に振られている。役者たちが台詞を終えて退場しても、カメラはその情景を捉え続ける。すると屋外から犬の吠える声が聞こえて、猫は一瞬それに反応して視線を外に向けるが、すぐに小鳥に興味を戻し、またしばらく静止した後、やがてあきらめて動き出すのだ。すべてが計算づくの映像ではなく、即興性あるシーンであろうが、その場面には人工的な照明も音楽も何もなく、ただ過ぎて行く時間だけが淡々と描かれている。またあるシーンでは、金魚鉢に大きく映る金魚であり、ほかのシーンでは幻想の中を飛び回り、現実世界では命を落としてしまう小鳥なのだ。ここではオリヴェイラが命を司る神のような存在なのだと言ってもよいと思う。

イザクの撮影対象にはほかに、ブドウ畑で働く農夫たちがある。実はこの映画の撮影地、ポルトガルのドウロ川上流 (同じ川の河口にあるのがオリヴェイラの出身地ポルト) はポートワインの産地で、「アルト・ドウロ・ワイン生産地域」として世界遺産に登録されているらしい。ここでは農夫たちが素朴な歌を歌い、昔ながらの方法で畑を耕している。アンジェリカの象徴する甘美な死の世界とは対照的な、無骨な生きる力の世界がここにある。この映画での限定的な音楽使用については前述したが、実は 2種類の音楽が使われている (上記の飛行シーンのような、金属的な効果音の使用は別として)。ひとつがこの農民の歌。もうひとつは全く対照的に、ポルトガルの偉大な女流ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスの弾くショパンのピアノ・ソナタ第 3番と、マズルカ作品 59-1 だ。オリジナル録音ではなく CD 使用であろうが (エンドタイトルの「協力」の最初に彼女の名前があったので)、よく知られるようにこのピアニストは本当にピュアで繊細な音を奏でる人で、この映画の抒情性の多くを、「沈黙」とこの人のピアノが分け合って貢献していると言えるだろう。
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イザクが写真を現像して部屋の中に干しているときにも、アンジェリカの優しい死に顔と、農夫たちの逞しい姿とが入り混じっていて、この対照性において森羅万象に潜む様々な力が表現されているように思う。

このように、ポピュラーなタイプの映画作品に慣れた人にはとっつきにくいところがあると思うが、芸術性という点では極めて高いレヴェルにある映画で、これを 101歳で撮ってしまった監督に、今更のように深い尊敬を覚える。全国で 5館でしか上映していない (東京では Bunkamura ル・シネマ、大阪では梅田リーブル、名古屋では名演小劇場と、いずれも芸術系ミニシアターだ) 点、少し不便だが、映画によって芸術を体験できる機会はどんどん減っているので、私としてはお奨めしておきたい。

プログラムに掲載されているオリヴェイラのインタビューには興味深い発言がいろいろあるが、この映画の一面である鬼気迫る雰囲気と共通する発言を引用しよう。101歳でこんなことを喋れる頭脳って一体・・・。

QUOTE

絶対的な愛とは両性具有になりたいと望むこと。ふたつの存在がひとつになりたいと切望すること。不可能な欲望だが、それが真実だ。この映画ではすべてが暴力的だ。非常に暴力的な映画で、私の戦争映画よりもずっと暴力的だ。戦争映画は多少計算された暴力を描いているからね。この映画はリアルであり、人を殺す。個人、つまり人物が殺す。映画を撮る行為・・・撮影そのものが暴力的なんだ。監督は殺人者のようだと、かつて私は言ったことがある。そして殺人者が殺人をやめられないように、監督は映画撮影をやめられない。

UNQUOTE

なんとも物騒な発言で、私が上で繰り返したこの映画の静謐さが嘘のように思えてしまうではないか (笑)。でも、何やら分かる気がする。ハスミ先生、さくらんぼの宣伝も結構ですが、オリヴェイラ監督の紹介も引き続きお願いします!!
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by yokohama7474 | 2016-01-05 01:00 | 映画 | Comments(0)