フランス組曲 (原題 : Suite Française / ソウル・ディブ監督)

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音楽好きの方はこの題名を見て、当然バッハの音楽との関連を思うことであろう。バッハには、イギリス組曲とかフランス組曲という鍵盤楽器のための組曲があるからだが、この映画はそれとは一切関係がない。その証拠に、原題がフランス語である。むむ。バッハはドイツ人で、その作品の題名はドイツ語だ。フランス語で綴られたフランス組曲とは一体いかなるものか。一方、原作を通してこの映画をご存じの方もおられよう。私の場合は、原作が書店に並んでいるのを見て、また、同じ作者、イレーヌ・ネミロフスキーのほかの作品も翻訳がきれいな装丁で出ているのを見て、まずは興味を惹かれたものだ。そしてどこかの記事で、この作者がユダヤ人女性で、戦時中の 1942年にアウシュヴィッツ収容所で亡くなっていることを知り、また、この「フランス組曲」の原作は、彼女の死後 60年以上トランクの中に眠っていた未完の作品を、娘たちが 2004年に発表して世界的なベストセラーになったのだということを知った。上のポスターにもそのようなことが書いてある。この映画を見る人のほとんどが、そのような予備知識を持って見ることになるだろう。それではストーリーはいかなるものか。第二次世界大戦の初期である1940年、ドイツ軍占領下のフランスで、ドイツ人兵士に恋するフランスの人妻の話。これだけでは月並みなメロドラマのようだ。でも、私の中の勘が呟くのだ。この映画は見ておいた方がよいと。

これは、実に呵責なく人間の本質を描いた作品である。ここで描かれる恋愛は、平常時の安穏なものではなく、明日の命をも知れない人たちの、生きる意味を求めての切実なものであり、何の比喩でもなく、命がけのものだ。もちろん、恋愛だけでなく、他人へのいたわりや共存への希求、あるいは社会的なつながりの中での処世術や裏切り、レジスタンスへの熱意、嫉妬、怒り、恐怖、またその反証としての自尊心等々の人間の感情が様々に渦巻くさまが描かれている。原作を読んではいないが、プログラムの解説によると、ストーリーは原作の後半をかなり忠実に辿っているらしい。そうすると、この作家が描いているものは、当時実際に起こっていた世界大戦に翻弄される人々の生々しい姿である。実際にドイツ軍に占領されているフランスで、ドイツ軍兵士に恋するフランス女性を描くということは、どういうことか。後世の人間が想像力でストーリーを作ったものではなく、リアルタイムで戦争の時代を描いていることは大きな驚きだ。現代の我々は、その後連合国軍がドイツ軍を壊滅させてパリを解放したことを知っている。しかし、原作者のネミロフスキーがこれを書いていたとき、いや彼女がその生を終えるときでさえ、その後の世界が一体どうなるのか、誰にも皆目分かっていなかったわけだ。そのような時代にこれだけ深い人間描写ができたことに心底驚く。ナチに捕まる直前の彼女は、以下のようなメモを残しているらしい。

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決して忘れてはならないのは、いつか戦争は終わり、歴史的な箇所のすべてが色あせる、ということだ。1952年の読者も 2052年の読者も同じように引きつけることのできる出来事や争点を、なるべくふんだんに盛り込まないといけない。

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やはり、彼女の視線は目の前の悲惨な出来事を超えて、人間の真実の姿に向けられていたのだ。また上記のメモは、ただ単なる夢物語としての決意表明ではなく、小説執筆に関する極めて実務的な視点での発言であるように思う。感傷のない透徹した思いに、ただ感嘆する。ネミロフスキーのこの写真がいつ頃のものか分からないが、1903年ウクライナ生まれで、ロシア革命時にフランスに移住。既に 1920年代から人気のある作家だったという。
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さてこの映画は、そのようなネミロフスキーの原作の精神をかなり忠実に再現しながら、随所に細かい気配りのある名作となった。劇中、もちろん敵がドイツ人であることは明示されるものの、普通の映画なら頻出するはずのナチの鉤十字が画面に出て来る場所は、もし私の記憶が正しければ、処刑の場面の俯瞰ショットだけだ。もちろん戦時下の恋は描かれているものの、物語は意外な展開を見せ、後半はまさに息詰まるサスペンスとなって行くなど、ただの恋物語ではない。上述のように、人それぞれに様々な感情にさいなまれて必死に生きる姿には、凄まじいリアリティがあるのだ。戦争という存在が人の真実を暴くためのひとつの大きな装置になっていて、その装置を使って人間の行動を冷静に書き留めるネミロフスキーのペンが、現実を超えたドラマを創り出している。映画化にあたっては、その点が充分認識されていると思う。

主役の恋人たちの描き方にも細心の注意が払われている。占領地の名家の嫁で、戦役中の夫の留守を義母とともに守っているリュシルと、その家に宿泊所と書斎を求めて住みつくが、リュシルとその義母に対して非常に礼儀正しいドイツ人中尉、ブルーノ。
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二人が恋仲になってからのショットがこれだが、もちろん物理的な距離が近くなっているのは当然として (笑)、注目すべきはリュシルの髪型である。リュシルはこの映画の中で、自分に目覚めた瞬間から、それまで束ねていた髪を下ろすのだ。
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そして彼女は様々な誤解を受けながらも、危険を冒して人の命を守る。だが彼女の守る命は、敵方であるブルーノにとっては、奪うべきものなのだ。この映画の描写の細かい点は、例えばブルーノが徹夜で山狩りをした翌日のシーンでは、うっすらと無精ひげが疲れとともに彼の顔を覆っているあたりにも表れている。このようなリアリティの積み重ねが、原作の本質を逃さずに映画全体にリアリティをもたらしている。この映画は全編、フランスとベルギーでのロケで撮影されているとのこと。また、今時珍しい 35mm フィルムによる撮影だそうだ。このリアリティの創出には、そういった点も貢献しているに違いない。

つまりこの映画は、原作の素晴らしさを映画に置き換える才能をもった監督の手に委ねられたのである。1968年生まれの英国人監督、ソウル・ディブの名前は初めて聞くが、ドキュメンタリー出身で、劇映画ではキーラ・ナイトレイ主演の「ある公爵夫人の生涯」という作品を 2008年に撮っている。原題 "the Duchess (公爵夫人)" というこの映画のポスターは、当時ロンドンに住んでいた私はしょっちゅう目にしたものの、作品は見ていない。これがその撮影風景だ。
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この「フランス組曲」においては、特になじみの俳優は出ていないが、主役のリュシルを演じたミシェル・ウィリアムズは、「ブロークバック・マウンテン」でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた実績があり、同作品で共演したあの故ヒース・レジャーと一時婚約して、娘を設けているとのこと。正直、とびきりの美人とは思えないが、繊細な役柄を誠実に演じている。
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相手のブルーノ役はベルギー人のマティアス・スーナールツ。かなり逞しい感じだが、戦争前は作曲家という役柄設定が、意外性のある優しさ (?) を見せる結果となっている。彼の弾くオリジナル曲が、「フランス組曲」だ。自分の書斎に忍び込んだリュシルを叱り飛ばすシーンがあるが、彼女が軍の秘密を知ることを恐れるのでなく、彼女の夫についての悪い情報を知ることを恐れてのこと、つまり、リュシルを思いやってのことであると分かる。職務に忠実であろうとしながら、人間的な思いを一貫して持っているという複雑な人間像が描かれている。
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もうひとり、リュシルの義母、アンジェリエ夫人役のクリスティン・スコット・トーマスの抑えた演技も素晴らしい。厳格な姑でありながら、後半にはこちらも意外性ある優しさ (笑) を見せる。少しマドンナを思わせるシャープな顔だちだが、気品も備わっている。
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ところでこの映画、原作は当然フランス語であるが、劇中では英語がベースとなっていて、フランス語はラジオ放送とか街に貼ってある宣伝とかに限られている。また、ドイツ人同士はドイツ語で喋っている。この点はスタッフが協議しての決定とのことだが、全体の雰囲気からすると、本当はフランス語をベースにして欲しかったような気もする。もちろん、役者の能力の問題もあるし興行の容易さの問題もあるので、現実的な判断ということだろうが。

それから、原作は未完のままであるので、この作品の結末も、語りで終わっている。それは、現代から過去を見ての主人公の語りであり、物語の本当の終結を告げるものではない。だが、それはそれでよいのではないだろうか。ネミロフスキー自身の言葉にある通り、どんな悲惨な戦争にもいつかは終わりは到来し、その一方で、人間の文化活動の持つ力は、世代を超えて生き残って行くものであるから。ネミロフスキーが戦争の終結を知っていても知らなくても、彼女の描く人間像は、既に充分描きつくされているのだ。

一時期はシネコンでも上映されていたこの作品、今では東京では TOHO シャンテでのみ上映中だ。だが、私の見たときにはかなりの混雑であった。もしこれをただのメロドラマだと勘違いしている方がおられたら、是非だまされたと思って劇場に足を運んでみることをお奨めする。様々な予備知識を一旦忘れて、映画の流れに身を委ねればよいと思う。

by yokohama7474 | 2016-01-24 23:47 | 映画 | Comments(0)