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始皇帝と大兵馬俑 東京国立博物館

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世界に残る遺跡の中には、想像を絶するスケールのものが幾つもあり、この世に生を受けた限りは、そのような驚くべき遺跡をできるだけ見て回りたいと思ってはいるものの、未だ訪れたことのない遺跡の数を思うだに、絶望的な思いに囚われるのである。この秦始皇帝の兵馬俑坑 (兵士や馬の彫像が地中に埋まっている遺跡という意味だろう) などはさしずめその代表であろう。記録には一切残っておらず、1974年にたまたま発見されたというこの空前絶後の墳墓。現在でも発掘・調査が続いており、まさに世界の驚異のひとつだ。正直なところ、こんな規模の遺品が 2,200年ほど地中に眠っていたということを信じろという方が無理という気すらする。
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私は残念ながら現地に行ったことはないが、中国国宝展の類には必ず兵馬俑は出品されているし、1994年に世田谷美術館で開かれた「秦の始皇帝とその時代展」、2004年に上野の森美術館で開かれた「大兵馬俑展」で、まさに驚天動地の彫像の数々に間近に接したことをよく覚えている。今回東京国立博物館で開催されているこの展覧会、果たして過去の同様展覧会を凌ぐような内容であるのだろうか。ある日曜日の朝、東京国立博物館が開館する 9時30分過ぎに会場に急ぐ。寒いが、このような看板と空の蒼の対象がなんとも心地よい。
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これは、博物館内の古い建物、表慶館。扉を開けている期間は短いが、4月開催予定のアフガニスタンの黄金展の垂れ幕が早くも下がっている。
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さて、開館後間もない時刻に入ったものの、会場は既に大混雑。小さな展示品を見るにはかなりの忍耐を要し、残念ながらその種の忍耐を持ち合わせていない私としては、勢い、人垣越しの鑑賞であったり、たまたま列の切れ目に控えめに割り込んだり (?) することで、一通りの展示品を楽しむことができた。以下、図録から撮影した今回の出品物に沿って展覧会を概観したいと思う。

そもそも、秦始皇帝とはいかなる人物か。私はいつも分かりやすく整理しているのだが、あの広大な中国の全土を掌握したのは、まずこの始皇帝が初。そして次に同じ版図を確保するのは、遥か時代を降った毛沢東なのだ。すなわち、歴代王朝、隋・唐・宋・元・明・清の領土は現在の中国より狭く、また秦始皇帝が制圧した領土よりも狭いのだ。今手元で世界史年表を開いてみると、始皇帝の統治は紀元前 221年から 210年のわずか 11年。世界で同時代人を探してみると、紀元前 247年生まれとされるカルタゴ (現在のチュニジア) の将軍ハンニバル、あの第 2次ポエニ戦争で象を連れたアルプス越えという奇策でローマを苦しめた英雄が近い。つまりその時代、ユーラシア大陸の東の方では春秋戦国時代で中国周辺での小国たちの争いが継続し、西の方ではローマ帝国が周辺各国と戦いを繰り返していたわけだ。その双方はお互いの存在を知らなかったのであろうか。尚、日本語で一口に皇帝というが、この始皇帝が中国初の皇帝の座について 200年ほど経ってからようやく、ローマ帝国にも初代皇帝アウグストゥスが現れる。ということは、始皇帝は人類初の皇帝ということではないか。このような英雄的な肖像は、イメージにぴったりだ。
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さて今回の展覧会、「『永遠』を守るための軍団、参上」というコピーがついてはいるものの、実は兵馬俑が展示のメインというわけではなく、秦がいかにして大国にのし上がったか、過去のいかなる王朝に倣ったか、周辺民族とどのように融合したか、また始皇帝の築いた首都咸陽 (かんよう) とはどのような場所だったのか、といったテーマをかなり丁寧に辿って行く。

もともと秦国は紀元前 8世紀 (古いなぁ~) に、以前の王朝、殷を継いだ周王朝が分裂してできた西周 (せいしゅう。ちなみに明治日本の元勲は、同じ字を書いて「にし あまね」と読むが、ここでは無関係 笑) の後継者との位置づけであるらしい。以下の写真はいずれも青銅の鐘だが、左が西周のもの、右が秦のもの。一見したところそっくりではないか。
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これは玉の胸飾り。西周時代のもの (紀元前 10 - 9世紀!!) で、貴石が実に 297個使用されているという。始皇帝の登場する遥か以前に、既にこれだけの文明がこの地にあったということになる。
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秦は周辺各国と盛んな交流があったらしく、これは楚からもたらされた、紀元前 6世紀の玉の飾り物。なにやら古代インカにも通じるユニークな造形だ。展覧会にはこれ以外にも、秦にもたらされた他国の文物があれこれ展示されている。
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そして秦の文化は独自の洗練を果たす。この動物形容器は紀元前 5 - 3世紀のものらしいが、注ぎ口になっている動物のユーモラスな味わいと、蓋の上でにらみ合うガマと犬の間の抜けた感じがなんとも面白い。こんな時代にこのようなユーモアの精神を持って実用的な容器を作った陶工とは、一体どんな人だったのであろうか。
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秦はまた、北方の草原の民とも交流した。この剣は実に紀元前 8 - 9世紀のもの。草原地帯に栄えたスキタイ文化を思わせるものがある。玉の剣に金の鞘である。いやー、ちょっと信じがたい古さですな。
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とまあ、シコウ帝登場前のシコウ錯誤があったのち、いよいよ英雄登場と相成るわけであるが、まあその施策の思い切ったこと。高校の世界史でも、度量衡の統一、貨幣制度、焚書坑儒などの始皇帝の事績を習うわけだが、例えばこの分銅。驚くなかれ、始皇帝と二世皇帝の時代のもので、当時の単位で 1鈞 (キン) という単位の重さらしい。ここに刻まれた銘文に「始皇帝」の文字もあるという。リアルタイムだ。
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貨幣鋳造の方はこれだ。実際に始皇帝の時代の銅貨である。この円形に四角い穴という形状は日本に渡来し、和同開珎以降の貨幣のモデルとなった。なにやら急に不安になって、現在日本の五十円玉と五円玉を確認したところ、穴は四角ではなく丸でした (笑)。
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それから面白いのは、当時の公文書だ。紙ではなく木に文章が記されており、削れば改ざんは容易ということで、重要文書は紐や糸で縛ってハンコで封印したという。このハンコ、実際に土で作ったものがいくつも発掘されているらしいが、2,000年以上経った現代日本の一部の会社では未だに、このハンコという奴がなんらかのお墨付きになっているという事実もあるらしい (笑)。
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本展覧会によると、始皇帝の時代の首都、咸陽は最近発掘が進んで、様々なことが分かってきたらしい。例えばこれは水道管。この時代、人工物で水を制御するということを考えただけでもすごいことだ。
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これは、咸陽の宮殿の壁面を飾っていたであろう壁画だ。2頭立ての馬車。素朴ながらスピード感を感じさせる立派な芸術作品である。
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そしていよいよ兵馬俑の展示に移って行くわけであるが、その前に、始皇帝の兵馬俑坑に先立つ人物像がいくつか展示されている。兵馬俑に先立つこと 100年程度のようだが、その小ささ (高さ 22cm) といい素朴な表現と言い、かなりの差がある。そうすると、シコウ帝の時代に人々のシコウも活発になったということであろうか。
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そして兵馬俑の一群。全部で 8,000体とも言われる等身大の彫像は、ひとつひとつ表情が異なっており、実在の軍隊をモデルにしているとも言われる。でも私は思うのだ。絶大な権力を持った始皇帝のこと。自らの威信を示すためには、彫像ではなく実際の生贄を数千とは言わずとも数百地中に埋めることもできたはず。それがなされていないのは、皇帝の権力が早くも傾いていたのか、はたまた軍団の中に知恵者がいて、実際の人間をうまく彫像に変えることに首尾よく成功したのか。記録が何もないのなら仕方ない。想像力の翼を思う存分広げることにしよう。これは将軍の像。将軍と認識できる像は、兵馬俑坑広しと言えども、10体程度しか発掘されていないという。
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これは馬であるが、その写実性に驚くばかり。左の鬣から一房垂れているが、これは兵士がつかめるようにという工夫であったとの説もあるらしい。右側に回って見てみたが、そちら側には房はなかった。
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それから、様々なポーズの彫像と、それらがそもそも備えていたとおぼしい武具などの再現図は以下の通り。いちばん最後のものは雑技俑 (ざつぎよう) と呼ばれていて、力士風の巨体が何やら芸をしているところらしい。顔は失われているものの、そのリアルなこと、鳥肌立つばかり。
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さて、会場出口近くには兵馬俑のレプリカ群像が置いてあり、そこで自由に写真撮影ができる。はいはい、押さないで押さないで。
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ところでひとつ驚くべきことがある。これらの大軍団の彫刻は、どうやら往時はリアルに色がついていたらしく、中には彩色ありの状態で発掘されるものもある模様。いやホント、出来すぎとすら思えてくる。
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この展覧会で再認識したのは、兵馬俑は国際親善大使の役割を果たしていて、多少の混雑でも頑張って見たいと思わせる展覧会なのである。様々なグッズも売っていて、私は兵馬俑チョコと、2体の兵馬俑フィギュアをゲット。後者は例によって拙宅のフィギュアコーナーの仲間入りだ。
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大変充実した展覧会で、きっと日本初の展示品が多いだろうと思ったのだが、帰宅して 1994年及び 2004年の展覧会の図録を引っ張り出して見てみると、実は今回の展示品のうちのかなりの数が、既に過去に日本で展示されていると分かった (笑)。兵馬俑はかなりはっきり記憶があれども、それ以外の小さい展示品を覚えておくのはなかなかハードルが高い。これを教訓として、一回一回の展覧会鑑賞を、もっと心して行おうと自分に言い聞かせた。

by yokohama7474 | 2016-01-28 00:31 | 美術・旅行