2016年 01月 28日
始皇帝と大兵馬俑 東京国立博物館
そもそも、秦始皇帝とはいかなる人物か。私はいつも分かりやすく整理しているのだが、あの広大な中国の全土を掌握したのは、まずこの始皇帝が初。そして次に同じ版図を確保するのは、遥か時代を降った毛沢東なのだ。すなわち、歴代王朝、隋・唐・宋・元・明・清の領土は現在の中国より狭く、また秦始皇帝が制圧した領土よりも狭いのだ。今手元で世界史年表を開いてみると、始皇帝の統治は紀元前 221年から 210年のわずか 11年。世界で同時代人を探してみると、紀元前 247年生まれとされるカルタゴ (現在のチュニジア) の将軍ハンニバル、あの第 2次ポエニ戦争で象を連れたアルプス越えという奇策でローマを苦しめた英雄が近い。つまりその時代、ユーラシア大陸の東の方では春秋戦国時代で中国周辺での小国たちの争いが継続し、西の方ではローマ帝国が周辺各国と戦いを繰り返していたわけだ。その双方はお互いの存在を知らなかったのであろうか。尚、日本語で一口に皇帝というが、この始皇帝が中国初の皇帝の座について 200年ほど経ってからようやく、ローマ帝国にも初代皇帝アウグストゥスが現れる。ということは、始皇帝は人類初の皇帝ということではないか。このような英雄的な肖像は、イメージにぴったりだ。
もともと秦国は紀元前 8世紀 (古いなぁ~) に、以前の王朝、殷を継いだ周王朝が分裂してできた西周 (せいしゅう。ちなみに明治日本の元勲は、同じ字を書いて「にし あまね」と読むが、ここでは無関係 笑) の後継者との位置づけであるらしい。以下の写真はいずれも青銅の鐘だが、左が西周のもの、右が秦のもの。一見したところそっくりではないか。