パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (バリトン : マティアス・ゲルネ) 2016年 2月 7日 NHK ホール

今シーズン (2015年 9月から) NHK 交響楽団、通称 N 響の首席指揮者に就任したパーヴォ・ヤルヴィはエストニア出身。文字通り、世界で今最も高い名声を誇る名指揮者である。私としては、彼の就任が、名実ともに N 響が世界に誇れる一流オケにのし上がるためのマイルストーンであり、これが日本の音楽界を変えて行く端緒であると、勝手に期待が盛り上がっているのである。会場の NHK ホールには CD/DVD 売り場があるが、そこにはこのような等身大 (? ではないと思うが 笑) の自立式ポスターが。
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昨年 10月の就任記念の定期演奏会の数々はひとつも聴けず、年末の第九でなんとか喝を癒したものの、2月に早速再登場とは有り難い。今回、ほかのプログラムでは、ピアノのカティア・ブニアティシュヴィリやヴァイオリンのジャニーヌ・ヤンセンなどの名花が共演するが、そのような気の散るものではなく (笑)、バリトンのマティアス・ゲルネとの共演のこのコンサートを選んだ。まあ、正直に言ってしまうと、ほかも全部聴きたいが、日程が合わずに行くことができないということなのであるが。今回の曲目は以下の通り。
 マーラー : 亡き子をしのぶ歌
 ブルックナー : 交響曲第 5番変ロ長調 (ノヴァーク版)

このマーラーの歌曲は、ドイツの詩人リュッケルトが自身 2人の子供を亡くした経験から書いた詩の中から、マーラーが 5篇を選んで作曲したもの。ウィーン国立歌劇場の音楽監督という最高のポストに辿り着き、最愛の妻と子供に恵まれた幸せな時代 (1901年から 04年) に書かれた不吉な曲は、後にマーラー自身が長女を失うことで、交響曲第 6番「悲劇的」と同様、予言めいた存在となった。5曲からなり、交響曲第 5番との共通性も感じさせる耽美的な箇所もあって、痛々しい内容なのに、澄んだ音が美しい点にこの曲の特異な点があると言ってもよいだろう。歌うのは現代最高のバリトン歌手のひとり、オペラよりも歌曲を中心として活躍するマティアス・ゲルネだ。
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彼の歌は、深い呼吸を伴って感情の起伏をくっきりと描き出すので、このマーラーの歌曲集などぴったりである。実際、かなり大きな身振りで豊かな表現力をもって哀しみの歌が切々と響き、ヤルヴィと N 響の繊細な伴奏とともに、密度の高い時間が現出した。ただ、この曲はやはりバリトンよりもアルトの方が聴き慣れているし、曲の内容にも適している。その点のみ、多少の違和感があったと正直に書いておこう。

さて、メインは 70分を要する大曲、ブルックナーの 5番である。ヤルヴィは N 響のドイツ音楽の伝統を高く評価して、リヒャルト・シュトラウスから一連の録音を始めたが、マーラーとブルックナーも、今後順番に採り上げて行く気配がある。実は会場とプログラムの速報で、今年の 9月には、N 響創立 90周年記念のマーラー 8番と、定期の中でブルックナー 2番が演奏されると知った。ヤルヴィはこの両方の作曲家をよく採り上げているので、いよいよその成果を N 響で聴けるとはなんとも楽しみであるが、さて、今日の 5番はいかがであったか。
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ブルックナーの 5番は、対位法を駆使した大曲という能書きよりも、音楽史上数ある交響曲の中でも、クライマックスが最も盛り上がるものと言う方が分かりやすいだろう。うねる弦楽器、連打するティンパニをバックに、山を越えたらまた山があるといった風に、すべての金管楽器がこれでもかと咆哮を続けるのだ。以前どこかで読んだのだが、「作曲者はこの曲が実際に演奏されるとは思っていなかったので、金管楽器奏者の限界を考えずに、ひたすら輝かしいクライマックスを書いたのだ」ということだ。真偽のほどは知らないが、確かに金管の爆発という意味では、晩年の交響曲でもこれだけの迫力にはなっていない。実際、作曲者の生前には一度だけしか演奏されていない。またそのときには作曲者は列席しなかったので、ほかの交響曲と違って作曲者自身の改訂が少ないことでも知られている。

今日のヤルヴィの演奏は、早めのテンポでグイグイと押して行く、しんねりむっつり型とは正反対のブルックナーであり、特にスケルツォの後半から終楽章にかけては、明らかに集中力が上がっていった感があった。だがそれを換言すると、第 1楽章は休止部分の緊張感にさらに改善の余地があったし、ブルックナーのアダージョとしては短いながらも深々とした呼吸を必要とする第 2楽章も、絶美と呼ぶには今一歩。ブルックナーの演奏は本当に難しいのだなと改めて実感した次第である。つまり、ただブカブカと鳴っても説得力がないし、かといって音楽の前進力がないと聴けたものではないのだ。理屈では説明できない指揮者自身の持ち味というか適性のようなものも、明らかに存在する。ブラームスなら、まずは鳴る音の密度や精度で勝負しないと始まらないが、ブルックナーはそれよりも、なんとも言えない呼吸のようなものがまず求められる。ヤルヴィの場合、抜群の指揮のテクニックがあるので、音が鳴るには鳴るのだが、ブルックナーの音楽としての話法のようなものとは少し違うような気がする。もっとも、それぞれの指揮者に個性があるので、「絶対こうでないといけない」と言うつもりは毛頭ないが、不思議なもので、聴き手の中のイメージというものも、やはり存在するのである。以前アバドがベルリン・フィルとの来日公演で披露したこの曲の演奏は、私がここで言っているブルックナーの音のイメージとは少し違っていたが、いわば表現主義のブルックナーといった体の独特な演奏で、大変説得力があった。なので、ヤルヴィと N 響も、試行錯誤を繰り返してブルックナー演奏を継続してもらいたい。

そうそう、最近私はこのブログで、日本のオケの金管楽器のレヴェル向上必要性を声高に (?) 唱えているが、ヤルヴィがブルックナーで最初にこの 5番を採り上げたのも、そのあたりの期待に沿うものだ。今日のクライマックスの金管の咆哮はなかなかのものであったが、もっともっと炸裂して欲しい。また、静かな部分でのミスも散見されたので、今後はこの指揮者のもとでビシビシ鍛えて頂けることを期待しましょう。

ところで、今日ヴィオラのトップを弾いていたのは、都響の鈴木学さんではなかったか??? 日本のオケメンバーでも、やはりヴィオラの店村眞積が読響→N 響→都響と移籍したり、チェロの木越洋が新日本フィル→N 響→新日本フィルと移ったりということもあるので、もしかして彼も移籍かと思って N 響の楽員表を見てみたが、そのようなことはなく、ゲスト出演であったようだ。ネット検索すると、過去にも下野達也指揮 N 響の演奏会に出ていたこともあるらしい。このような楽員の交流も、大いに意味があることではないだろうか。
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いろんな意味でヤルヴィと N 響の今後から目が離せません。是非、東京の音楽界に大きな刺激を与えて欲しいものだ。

by yokohama7474 | 2016-02-08 00:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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