ダニエル・バレンボイム指揮 シュターツカペレ・ベルリン ブルックナー・ツィクルス第 1回 2016年 2月 9日 サントリーホール

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東京では今、未曾有の音楽イヴェントが開始した。もちろん東京では初めて。世界的にも多分初めてか、どう控えめに見ても歴史上極めて稀なイヴェントである。それは、ブルックナーが書いた番号つきの 9曲の交響曲を順番に演奏するツィクルスで、1番から 9番までをわずか二週間足らずの間に演奏するのである。以前の記事でマーラー・ツィクルスについて少し触れたが、マーラーの場合、大規模な楽器編成や声楽の導入という意味で、演奏の難易度はもちろんブルックナーの上を行くが、ほとんどすべての交響曲が親しまれている (強いて言えば、7番のみ比較的マイナーと言えようか)。また、各曲ごとの明確な個性の違いが、ツィクルスとしての面白さを一段と増すのである。翻ってブルックナーの場合、いわば常に同工異曲を書いた人で、どの曲も同じ、という言い方はもちろん乱暴であるが、基本的な構成はどれも似通っている。加えて、1番、2番、6番など、明らかに不人気の曲があって、全部通して聴きたいと思う人は、(経済的な利用もこれあり) さほど多くないだろう。ところが、それが今東京で始まった。オーケストラはベルリン・シュターツカペレ、つまりベルリン国立歌劇場管弦楽団。指揮はもちろん、音楽監督のダニエル・バレンボイム。現在 73歳だ。
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バレンボイムは言うまでもなく、現代を代表する指揮者であり、また長らく一流のピアニストであり続けている。今回のツィクルスでは、演奏時間が比較的短い交響曲の前座として、彼自身がピアノを弾いて、モーツァルトのピアノ協奏曲が組み合わせて演奏される。番号でいうと、第 20番、22番、23番、24番、26番、27番だ。こんなことができるのは世界広しと言えどもバレンボイムだけであろう。アシュケナージは同じくピアノを弾く名指揮者だが、彼はマーラーは演奏するものの、ブルックナーを演奏したとは聞いたことがない。ほかには、クリストフ・エッシェンバッハに可能性はゼロではないにせよ、ブルックナーの全曲は無理であろう。なので、冒頭に掲げたチラシの文句のごとく、「あなたは歴史の目撃者となる」なのである。

今回私は全 9回のチケットをシリーズで購入した。だが、一介のサラリーマンにとってこの 9回全部を聴くのは至難の業。私の場合は 9回中 2回は出張で行けないことが明らかとなり、既に処分してしまった。だが、残りの 7回は絶対に行くので、逐一記事を書いて行く所存。しかしながら、各曲によってそれほど違ったことを書く材料がないと思われるので、私にとってのブルックナーや、過去のバレンボイム体験などをつれづれに記述して行くことになろう。以前記事を書いた、現在 92歳のスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが読売日本響を指揮した第 8番は、宣伝で「究極のブルックナー」と謳われていて、実際その通りであったが、今回のバレンボイムのツィクルスは、とりあえず「9曲のブルックナー」というところから始めよう (笑)。9曲が究極のブルックナーになるか否か、それをこれからしっかり見届けたいと思う。

バレンボイムはもちろんワーグナーのオペラを中核レパートリーとしているが、そのワーグナーに心酔し、でもオペラではなく巨大な交響曲を書いたブルックナーも、彼の大事なレパートリーだ。既に、シカゴ交響楽団とベルリン・フィルという世界の二大スーパー・オーケストラを指揮して全集を録音しているが、現在の手兵シュターツカペレ・ベルリンとも、主要交響曲は録音・録画している。だが率直なところ、彼のブルックナーを多くの人々が口を極めて絶賛しているかというと、必ずしもそうではない。今から 30年くらい前だろうか、最初のシカゴとの録音 (どの曲かは忘れたが、7番だったろうか) をレコード芸術誌の月評で大木 正興 (私の世代にとっては、尊敬すべき教養主義の辛口音楽評論家) が、「このように美麗なブルックナー演奏は、つい最近、先輩のカラヤンが行って通り過ぎて行ったばかりではないか。バレンボイムは、そこに自分の演奏を加える意味をどう考えているのだろうか」といった厳しい批評が掲載されていた。当時バレンボイムは、ピアニストとしては高い評価を得てはいても、指揮者としての評価は今ひとつで、しかもあまりフレンドリーな人柄でないこともあって、彼のブルックナー録音が世の中で愛聴されてきたとは思えない。私自身を振り返ってみても、今手元にあるブルックナー全集は、カラヤン、ショルティ、ヨッフムの新旧 2種、朝比奈、スクロヴァチェフスキ、インバルというポピュラーなものに、マゼールがミュンヘンで録音したものや、世界初の全集であったフォルクマール・アンドレエ、遺稿を様々収録したロジェストヴェンスキー、はたまたルーマニアのクリスティアン・マンデアルなどのマイナーなものも持っているが、バレンボイムの 2種の全集はいずれも所持していない。今回のツィクルスを聴くまでの状態はそんな感じである。

初回の演奏会の曲目は以下の通り。
 モーツァルト : ピアノ協奏曲第 27番変ロ長調K.595 (ピアノ : ダニエル・バレンボイム)
 ブルックナー : 交響曲第 1番ハ短調

上記の通り、バレンボイムはまずピアニストとして名声を博し、よしんば彼の指揮に異論がある人も、彼のピアノには沈黙せざるを得ないという事実が、過去何十年も存在している。私自身も、初めてバレンボイムがモーツァルトのピアノ協奏曲を弾き振りしたのを聴いたのは、1989年のパリ管弦楽団との来日公演。「英雄の生涯」をメインとした前座であったが、そのあまりの素晴らしさに驚愕したことをよく覚えている。今調べてみると、なんとなんと、その時の曲も今日と同じ、27番のコンチェルト、つまりモーツァルトが書いた最後のピアノ協奏曲であった。
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今回の演奏では、ピアニストが指揮も兼ねる以上当然ながら、オケの中にピアノが入ったかたちでの配置となり、蓋は取り外されていた。バレンボイムは暗譜での演奏。さて、演奏開始から明らかになったことは、これは昨今ともすれば耳にしがちな、ただ小さい編成で音の痩せたモーツァルトではないということだ。音自体はクリアであるが、どちらかというと重みのある、情報量の多いピアノでありまたオーケストラであった。流れの強い演奏と言ってもよいだろう。そんな中バレンボイムのピアノは、昔より一層自由にテンポを揺らしタメを作り、安易な聴き流しを許さないようなものであった。これはその後のブルックナー演奏でもそうであったが、音が舞い上がって力を溜め、そして一気になだれ落ちるような箇所では、頂点でほんの一瞬流れを止めて、波との遊びを楽しむかのように走り出すような印象であった。このオケは、とびきり音色がきれいであるとか水際立った技術があるという感じではないが、どのセクションにも音の均一性があり、このような音楽監督との親密なコラボレーションが大変説得力と安心感を持って響く点に、歴史あるオケの伝統を聴き取ることができた。総じて驚愕の名演奏というよりは、滋味深い音楽の行為という印象で、素晴らしいと思った。

メインのブルックナー 1番であるが、これもまた、均一性のあるオケの音が見事に交響する、誠にドラマティックな演奏であった。冒頭のリズムの刻みは若干おとなしいようにも思ったが、今にして思うと、これは前半のモーツァルトで最初にピアノが入ってくる箇所と似通った表現だった。上記の通りの、音が登りつめてからの雪崩のような動きは極めて効果的で、ブルックナーの別の一面を見たように思われた。後年の大交響曲のような滔々たる流れはなく、若干偏執狂的に短い音形が果てしなく繰り返されるが、これだけ緊密な演奏であれば、そこに得も言われぬ独特の迫真性が生まれて、初期の作品であるからこその冒険心も感じることができた。スコアに書かれたあらゆる音が、最初から最後まで、途切れることのない長い絨毯のように千変万化の模様を見せ、何か今まで知らなかった宝を見つけたような気がしたものだ。オケのモチベーションも高く、各パートの献身ぶりには瞠目すべきものがあった。終楽章での集中力は全く素晴らしいもので、演奏者たちにとっても、回心の演奏であったに違いない。

そんなわけで、大変順調な滑り出し。バレンボイムならではの特別なツィクルスになるという予感がする。若き日のブルックナーも、これを聴くと満足したのではないだろうか。
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by yokohama7474 | 2016-02-10 01:13 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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