恩地 孝四郎展 東京国立近代美術館

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ある週末、知人宅に数名で呼ばれてひとしきり歓談し、ほろ酔い加減で帰宅する途中、地下鉄東西線に乗っていてふと思い出した。東西線竹橋駅近くの東京国立近代美術館 (最近では MOMAT = Museum of Modern Art Tokyo、つまりあのニューヨークの MOMA に T がついている = の略称を自称しているが、残念ながらあまり定着しているとは思われない) で、恩地 孝四郎 (おんち こうしろう) 展を開催中なのである。既に 16時に近いが、ちょうど閉館間際の静かな環境で鑑賞できるだろう。まあ、この展覧会が押すな押すなの大混雑であるとは思われないし、実はほろ酔い加減というよりもベロンベロンと言った方がよい状況ではあったので、おとなしく帰って別の機会にすべきかと考えたが、いや、ここでちょっと頑張って足を伸ばすか否かで、人生大きな差が出てくるものである。やはりここは竹橋まで足を伸ばそう。というわけで見たのがこの展覧会である。

恩地孝四郎 (1891 - 1955) は、日本のモダニズムを代表する画家である。ただ、その活動範囲は油絵よりも版画や本の装丁が中心であり、一般的にはそれほど知られた名前ではないかもしれない。だが私は、あの伝説的な展覧会、1988年に東京都美術館で開かれた「1920年代・日本展」で知った日本のモダニズムの流れの中でしっかりと彼の名前を記憶し、それ以来、様々な展覧会で彼の作品に接することがあり、私にとっては親しい名前であったのである。今回は版画作品 250点を含む 400点近い作品が一同に会する、オンチファンには絶好の機会である。まずは、彼の晩年の肖像から始めよう。
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柔和な表情に見える。だが彼の創作の初期にあたる 1909年、18歳のときの自画像はこれだ。ふてぶてしさまで感じさせる、若き芸術家の肖像。少しイメージは異なるが、短い人生を全力疾走して去って行った村山槐多すら思わせるパワーではないか。
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実は昨年見逃した展覧会があって、それは、東京ステーションギャラリーで開かれていた、「月映 (つくはえ) 展」である。これは、この恩地孝四郎とほか 2名の東京美術学校の学生が 1914年に創刊した版画と詩を掲載した雑誌、「月映」に関する展覧会であった。そこには若さゆえの痛々しい運命への憧れのような感情が迸っている。以下はこの雑誌に掲載された版画から、「めぐみのつゆ」と「泪」(ともに 1914年)。
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解説を読むと恩地は、竹久夢二に憧れて画業を志し、クレーやカンディンスキーの影響を受けたとある。もちろん、上記からそれは明らかと言えるであろう。あるいはビアズレーを知っていたのかもしれない。だが私が感じたのは (もしかすると世の中の解説にはそうは書いていないかもしれないが)、世紀末ウィーンからの影響である。とりわけ、コスカー・ココシュカの青春の作、「夢見る少年たち」との共通性を見ることができるのではないか (クラシックファンの方は、ベルナルト・ハイティンクのベルリン・フィルとのマーラー・シリーズにこれが使われていたのをご存じであろう)。実はココシュカは恩地よりもたった 5歳年上であるだけ。この作品は以下の写真のようなものであるが、1908年、ココシュカ 22歳の作。恩地がこれを知っていたのか否かは定かではないものの、ほかにも月映に載った恩地の作品には明らかにエゴン・シーレを思わせる構図もあり、世紀末ウィーンとなにか超自然的な力 (!) で結びついていたのかもしれない。
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これは、1915年 11月発行の月映第 7号の表紙。"Separation" (告別) とあり、月映の同志であった田中恭吉の死を悼むものである。だが、これも私の勝手な思いであるが、ここでの Separation からどうしてもドイツ語の Sezession = ウィーン分離派を連想してしまうのだ。
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それからこの月映という言葉自体、何かを連想させないか。そう、萩原朔太郎の第一詩集、「月に吠える」だ。調べてみると月映における恩地や田中の創作は、この詩人に影響を与えており、この詩集、恩地の手になる装丁によって初めて世に出ているのだ。1916年のこと。
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恩地が本の装丁で有名であることは冒頭に述べた通りだが、いかにもな作品の装丁を手がけている。世紀末の王者、ボードレールの「悪の華」だ (1919年、日本初の翻訳)。おー、日本のモダニズムの騎手は、実はヨーロッパと同じく、世紀末にその根っこがあったのだ!!
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だが恩地の感性は、ヨーロッパの真に退廃した世紀末に骨の髄まで侵されることなく、同時にモダニズムにも走っていた。これは 1918年の「消される生体」。マリネッティの「未来派宣言」は 1908年。インターネットやテレビはおろか、電話もろくになく、国際電話は夢のまた夢であった時代、ヨーロッパではアール・ヌーヴォーからアール・デコに移り行く時代に、極東の日本でこのような作品を作った人がいたのだ。
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また彼の感性は、大正モダニズムのモボ・モガカルチャーにも大きく影響を与えた。1927年、ということはもう昭和に入っているが、「美人四季」という雑誌の「春」。なんと、題名はフランス語だ。
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これは 1929 - 30年の「帯」というシリーズ。夢二に憧れたという青年時代を彷彿とさせる。だが調べてみて分かったことには、恩地は夢二よりも 7歳年下であるだけだ。同世代人と言ってもよいだろう。
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それから、面白い肖像画がいくつも展示されている。以下は、まず山田耕筰。1938年の作だ。恩地は山田の作品の楽譜の装丁も出がけている。
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これは北原白秋 (1943年)。後ろの青や赤がモダニズムのしっぽを引きずっている。
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これは、同じく 1943年作の萩原朔太郎。上記のような関係もあり、いわば恩地の同志と言ってもよいだろう。荻原は 5歳年上で、やはり同世代の人。今回、久しぶりに書棚から朔太郎の詩集を引っ張り出し、月に吠えてみたくなってしまう私である。
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これは誰だかお分かりだろうか。戦時中のヨーロッパで活躍し、クナッパーツブッシュ指揮のベルリン・フィルとも共演した、ヴァイオリニストの諏訪根自子だ。1946年の作。命を削るヴァイオリンが響いてくるようだ。
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先日、NHK Eテレの「日曜美術館」でも恩地を採り上げているのを見たが、戦後は前衛的な版画家として欧米で人気を博したという。それは知らなかった。道理でこの展覧会でも、ボストン美術館や大英博物館から出展されているはずだ。そのような戦後の前衛版画家としての恩地の作品をひとつだけ紹介しよう。1950年作の「ポエム No. 9 海」。これはもちろんクレーやカンディンスキーとも共通性があり、またミロを思わせるところもあるが、敗戦間もない日本で、これだけ自由な感性で作品を作っていた画家がいたとは。
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これだけの数の作品が並んでいると、ここでご紹介しきれない様々な画家の顔を見ることができる。日本の近代美術史には、本当に多様なページがあるということだ。私のようにほろ酔い、いや真っ赤な顔のヘベレケ状態で見るのではなく、ちゃんとシラフで見ることをお奨めします (笑)。ところで上述の「日曜美術館」で、恩地の展覧会は約 20年ぶりと言っており、何やらピンと来るものがあったので、例によって我が家の書庫をゴソゴソ探してみると、出てきましたよ、1994年に横浜美術館で見た「恩地孝四郎 色と形の詩人」展の図録が。パラパラ見てみると、今回の出展作の多くが出ていたことが分かる。いやいや、瞼に焼き付けたものは、脳が忘れても、どこかで覚えているものですな。願わくば、脳が覚えていてくれればよいのだけれど、生まれつき脳の容量が狭いので、ま、それもよしとしよう。

by yokohama7474 | 2016-02-13 23:25 | 美術・旅行 | Comments(2)
Commented by PineWood at 2016-02-28 11:19 x
世紀末ウイーンのココシュカの影響という指摘は面白いです。本展では竹久夢二との共通性に目が奪われて海外の作家へ想いが至らなかったのですが、クレー、マチス、ピカソ、カンデインスキーなども、具象美人画から身体の抽象表現まで多様なスタイルを探究する恩地孝四郎にとって大いに参考になった事でしょう。アバンギャルドな革命当時のソビエト美術もまた造本に活かされたと。
Commented by yokohama7474 at 2016-02-28 13:26
コメントありがとうございます。ロシア・アヴァンギャルドは、まさに時代の最先端でしたからね。両大戦間の文化は、作家の個性と時代の様相がないまぜになって面白いです。
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