ダニエル・バレンボイム指揮 シュターツカペレ・ベルリン ブルックナー・ツィクルス 第 8回 2016年 2月19日 サントリーホール

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バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンによるブルックナー・ツィクルスもいよいよ第 8回。私としては、出張のために第 6回と第 7回を泣く泣くあきらめた後の再会で、曲は、ブルックナーの交響曲第 8番ハ短調だ。その内容の深遠さを知っている者としては、身震いするほどの期待感が走る。このコンビは前日、一旦東京を離れて川崎のミューザ (これも素晴らしいホールだ) で同じ曲を既に演奏しており、この日が日本での 2回目の 8番の演奏ということになる。

この曲はブルックナーが完成した最後の交響曲であり、演奏時間も全 9曲の中でも最も長い、80分前後である。この曲にはいろいろ特徴があるが、ひとつは、それまでの交響曲では、第 2楽章が緩徐楽章、第 3楽章がスケルツォであったところ、それをひっくり返していること。これはベートーヴェンの第 9と同じ順番だ。楽器編成では、この前の第 7番でも使われていたワーグナー・チューバと、それからなんと言ってもハープの使用が特徴的だ。そして曲想は、本当に深い深い神秘的な森のようでもあり、死を前にした人間の恐れと神への憧れを表すようでもある。暗さ、巨大さ、そして天から差して来る厳かな光。何度聴いてもすごい曲だ。以前、1月23日の記事で、ポーランド出身の 92歳の巨匠、スタニスラフ・スクロヴェチェフスキが読売日本響を指揮したこの曲の演奏を採り上げたが、それはまさに「究極のブルックナー」の形容にふわさしいものであった。そもそも演奏の内容以前に、曲としてこの形容を冠することができるのは、ブルックナーの交響曲の中でも、この 8番と、そして未完の 9番だけだろう。つまりバレンボイムのブルックナー・ツィクルスは遂に、最後の高峰に辿り着きつつあるわけだ。

演奏開始前に客席を見ると、満席ではなく、ところどころに空席がある。そして、今回このツィクルスを何度も聴きに来ている NHK 交響楽団の首席指揮者、パーヴォ・ヤルヴィは今日も来るのか。彼の一連の N 響とのコンサートは前日で終了しているはず。だが見回してもいつもの 1階席には彼の姿は見えない。もう日本を離れてしまったのか・・・。と、間もなく開演という頃、ステージに向かって左側、LA ブロックにふらっと現れたのは、ほかならぬヤルヴィではないか! その席は通常 B 席くらいのランクで、決して招待客が座るような場所ではない。まさか、自腹で当日券を買ったのだろうか。ひょっとして、お忍びで来ているのに、ヤルヴィがいたヤルヴィがいたとしつこく騒ぐブログがあるから、あまり目立たない席を関係者に取らせたのであろうか。・・・ブルックナーの深遠な世界に入る前の、なんとも下世話な勘繰りであった (笑)。

そして楽員が登場し、チューニングが始まり、指揮者が登場して、いよいよ大作第 8交響曲が重々しく開始した。それからの 80分間を、いかに形容すればよいだろう。もちろん、レヴェルの高い演奏であったとは思う。だが、先の 5番で示された超絶的なレヴェルとは言えないような気がする。弦のうねりや木管の繊細さも、今日はなぜか今一つと感じた。金管はかなり鳴っていたし、場面場面では凄まじい音の奔流を聴くことができる、このコンビの本領発揮と思われるシーンもあったが、でもやはり、タメが少なく、持続した音の高揚感を欠いていたと言っては言い過ぎだろうか。実は、聴いているうちに思い当たったのは、やはり先日のスクロヴァチェフスキの壮絶な演奏が耳の奥に残っていて、知らず知らずのうちにそれと比べてしまっているのであった。これはいかにバレンボイムといえども分が悪い。そしてそれをもう少し考えながら聴いて行くうち、この曲の特性に思い当たった。それは、録音史上、この曲で至高の演奏をした指揮者たちは、ほとんどが高齢で、人生の最後に差し掛かった時期であったということだ。思いつくまま列挙する。
 ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィル (1963年 = 指揮者 75歳 = 死の 2年前)
 カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィル (1963年 = 指揮者 80歳 = 死の 4年前)
 ジョージ・セル指揮クリーヴランド管 (1969年 = 指揮者 72歳 = 死の 1年前)
 ルドルフ・ケンペ指揮チューリヒ・トーンハレ管 (1971年 = 指揮者 61歳 = 死の 5年前)
 オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン (1976年 = 指揮者 74歳 = 死の 11年前)
 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィル (1988年 = 指揮者 80歳 = 死の 1年前)
 セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル (リスボンでの演奏、1994年 = 指揮者 82歳 = 死の 2年前) 
 ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィル (2001年 = 指揮者 89歳 = 死の 1年前)
もちろん、上記の例でもヨッフムは晩年の演奏とは言えないし、ほかにも、ハイティンク指揮のコンセルトヘボウやウィーン・フィル、またジュリーニ指揮ウィーン・フィルなどは、素晴らしい演奏でありながら「晩年の法則」からは外れている。だがしかし、上記の名演リストを眺めているうちに漂ってくる、いわく言い難い、何か特別な雰囲気がこの曲にはあって、今回のバレンボイムの演奏には、その「何か特別な雰囲気」が足りなかったような気がしてならない。

ひとつ気になったのは、バレンボイムの唸り声だ。指揮者が唸ることは別に珍しくはないのだが、1回から 5回まで私が聴いてきた今回のツィクルスでは、そのような場面はほとんどなかった。それが今回は、冒頭からかなり力んでいたために、ついつい唸り声が出てしまったものではないか。第 1楽章の最後の方では、なんでもない弦のパッセージを丁寧に、若干ギクシャクしたリズムで振っていて、何か不自然であったし、また指揮中に時々咳をする場面もあり、深い深い呼吸を必要とするブルックナー演奏にとってはよくないなぁと思っていると、第 2楽章では今度は客席からびっくりするような大きな咳がかなり長いこと続いて、そのような流れの中、少し会場全体の集中力が落ちて行ったような気がするのだ。

もうひとつ、私のこだわりポイントとしては、あの超絶的に美しい第 3楽章アダージョの頂点でシンバルが鳴り、一瞬すべての音が止まってから弦が深く切り込むその間に、ハープがポロポロと響くシーンである。そこでハープがよく聴こえない演奏は、デリカシーがないと思ってしまうのだ (昔、確かクルト・マズアとゲヴァントハウスの録音を同じ理由でけなしていた批評を見た記憶がある)。今回、残念ながらハープはほとんど聴こえなかった。バレンボイムは、私が以前記事でも書いた、第 4番のリハーサルの後の聴衆への語りかけで、この第 8番でハース版を使用する理由を、「ノヴァーク版はアダージョ楽章にカットがあって、それは何か尊いものを求めて延々と彷徨い歩くようなこの楽章の趣旨に合わないから」と説明していた。それはよく分かるのだが、では、長い曲折を経て神の栄光に辿り着いた瞬間、天からの閃光のようにハープに響いて欲しいと思わないのだろうか。

このように、この極めて特殊な大作の演奏としては、既に我々が聴いてきた超名演の数々を凌ぐものにはならかったように思う。拍手も、5番のときにようにはすぐさまスタンディング・オヴェイションとはならず、そしてあの、5番のときに率先してスタンディング・オヴェイションをしたパーヴォ・ヤルヴィは、今回は拍手もそこそこに、席を立って帰ってしまったのであった (じろじろ見てしまって申し訳ありませんが)。

ブルックナー 8番。この厄介なる巨大なシンフォニー。ここで思い出す異色の演奏がある。1988年、ズービン・メータがイスラエル・フィルを指揮した来日公演だ。まだ学生であった私はその日、40度近い熱が出て朦朧としており、まさに這うようにサントリーホールに辿り着いたのであるが、その時の演奏は、枯れたところの全くない、いかにもメータらしく、音がパンパンに張った演奏であったのだ。熱に浮かされながらも私は、この曲に精神性を求める聴き手には、かなり俗っぽく響いているなぁと思って聴いていたのだが、曲が進むうちにそのスーパー・マッチョなブルックナーがなかなかの説得力を持って来て、高熱の中でも最後まで飽きることがなかったのである。終演後、楽員も徐々にステージから三々五々消えて行く頃、私も熱っぽい頭で帰ろうとすると、客席で何やら舞台に向かって叫んでいる男性がいる。どうやら、「神聖なブルックナーの交響曲を冒瀆するようなひどい演奏しやがって」という内容であるようだ。私がこれまでに行ったコンサートでも、このような事態に遭遇するのはそのときが最初で、それきり一度もない。係員につまみ出されたらしいその男性は、ホワイエでずっと「ふざけんなー」と叫んでいたが、そこには聴衆の人だかりができ、中には論戦を挑む人もいて、「そんなこと言うなら、皆の意見を聞こうじゃないかよ。今日のメータさんの演奏、よかったと思う人、手を挙げて下さい。ほら、いっぱいいるじゃないか!!」などと、こちらも大声でがなりたてていた。私は朦朧としながらも、こんな議論を惹起するブルックナー 8番という曲の持つ神秘性に思いを致し、シンネリムッツリした演奏と正反対を目指したメータの勇気に感服したものだ。メータとバレンボイムは、10代からの親友で、バレンボイム 70歳記念演奏会からのショットがこれらである。
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さて、このツィクルスも残すところあと 1回。パーヴォ・ヤルヴィが来るか否かをしっかりチェックしながらも (笑)、バレンボイムという指揮者 = ピアニストの本質、ブルックナーという特異な作曲家の本質に、真剣に耳をそばだてたいと思う。

by yokohama7474 | 2016-02-20 02:16 | 音楽 (Live) | Comments(4)
Commented by 吉村 at 2016-02-20 09:28 x
確かに5番の域には達してませんでしたね。少し空回り感がありました。
唸り声の人は意識が朦朧としていたようで、係員に抱えられて退場しました。
Commented by yokohama7474 at 2016-02-20 11:10
> 吉村さん
あ、やはりあの咳の方は体調不良だったのですね。この曲を聴くにはやはり体調も重要ですからね。
Commented by やすぷんた at 2016-02-20 12:32 x
私もスクロバチェフスキ後で感動には乏しく早々に退出したら、楽屋に向かうヤルヴィとすれ違いました。私の近くにはインバルもいましたが、熱心に拍手するようではありませんでした。ブロムシュテットチェコフィル、ヤノフスキベルリン放響等、真面目なアプローチを期待していた身からするとバレンボイムはまだまだやんちゃだなと感じました。
Commented by yokohama7474 at 2016-02-20 21:43
> やすぷんたさん
コメントありがとうございます。インバルについては第 9回の記事にて触れさせて頂きます。私も近年のブロムシュテット / チェコ・フィル、ヤノフスキ / ベルリン放送響の来日公演でこの曲を聴いていますので、おっしゃることはよく分かります。よろしければまたこのブログにお立ち寄り頂ければと思います。
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