オデッセイ (リドリー・スコット監督 / 原題 : The Martian)

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最近 TOHO シネマズに行くと、MX4D という表示をよく目にするのみならず、劇場の予告編で、LiLiCo とかいうちょっと賑やかな女性が「スゴかったー」などと言いながら喜んでいる宣伝が流れ、一体どういうものか見てみたくなった。そこで選んだのがこの映画。3D メガネ持参でも通常の鑑賞料金よりも 1,500円を余分に払い、好奇心いっぱいで劇場に向かったのである。劇場では、身長 100cm以下の子供は入れないとか、地面にモノを置けないのでカバンはロッカーに預けて下さいとか、鑑賞中に椅子が揺れて飲み物がこぼれるかもしれないから注意して下さいとか、なにやら物々しい。実際に経験してみると、要するに画面に合わせて (?) 椅子は揺れるわ、ライトは目を射るわ、風は吹くわ、匂いはするわ、煙は出るわ、マッサージマシンのように背中をグイグイ押されるわで、見終わったらちょっと船酔いに近い状態になってしまった。ただ、私の持論からすると、これは映画を見る際の本質的な鑑賞態度とは縁のないアトラクションで、場合によっては煩わしいことこの上ない。例えば、映画の本筋と全然関係ない、脇役が滑って転ぶようなシーンで椅子が振動すると、見ている方はドキッとするが、さて、映画の作り手はそのような反応を望んでいるだろうか。そもそも、どのシーンでどのような効果を出すかについて、監督の了解を取っているのであろうか。そうでないとすると、ちょっと問題ではないだろうか・・・。まあ別に肩肘張るつもりはないが、この MX4D があるから人々が映画を見たいと思うかというと、多分そうではないであろう。そういえば私が子供の頃、「大地震」という映画があって、劇場が振動するということで話題になった記憶がある。テーマ曲のレコードも持っていた。今調べてみると (便利な時代になったものです)、「センサラウンド」という音響システムで、低周波の音波で観客に振動の感覚を与えるものだったらしい。だからこの MX4D とは根本的に異なっている。この設備を劇場に据え付けるのにいくらかかるのか知らないが、さて、そのコストを回収するところまで人々の興味を引き続けるか否か。

というわけで、映画自体について語ろう。まずはタイトルだが、オデッセイとは Odyssey、つまり、ホメロスの叙事詩から転じて、長い旅程を意味するあの言葉であろう (有名なところでは、「2001年宇宙の旅」は "2001 A Space Odyssey" である)。しかし、原題は、"The Martian"、つまり「火星人」である。しかも a ではなく the がついているということは、「あの」火星人、つまり、劇中で火星に取り残されたマット・デイモン演じるマーク・ワトニーその人のことを差しているのであろう。
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だがしかし、邦題を「火星人」にすると、「マーズ・アタック」のような映画と勘違いされるかもしれない (笑)。なのでこの「オデッセイ」という邦題にも苦労が偲ばれるが、でも内容を見ると決してよい題名とは思われない。なぜなら、オデッセイという言葉にふさわしいのは、長い試練の旅路であるところ、確かに彼の救出の際の長い旅路は描かれるものの、この映画の本質は、旅路以前に、遠い火星に一人取り残された男の、まさにその火星におけるサバイバル劇であるからだ。原作の小説は「火星の人」という題になっているようだが、そのままでもよかったのではないだろうか。
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なんでもこの映画の原作はネット上で発表された小説で、作者のアンディ・ウィアーは、もともとプログラマーだそうだ。この映画でリアルに描かれている通り、この小説では、火星に一人取り残された男のサバイバルとその救出劇を、あたかもドキュメンタリーのように詳細に描写したことが受け、それがハリウッドの目にとまったものであるらしい。この時代になると、主人公がサバイバルすべき場所は、どこかの未開の土地とか戦争が行われている場所ではなく、生命そのものがほとんど存在しない、隣の惑星なのである。実際この映画では、細部に至る隅々までが大変リアルに描かれていて、これは最近本当にあった話なのではないかと錯覚しそうになるくらいだ。まあそれにしても、主人公の生存能力は大したもので、手元にあるものを活用して植物を育て、水を作り、通信手段を発見し、メッセージを伝える方法を発展させ、移動手段を考案し、火星脱出のために乗り物に加工をし、そして最後には仲間のもとへと帰るために、宇宙空間で大きな賭けに出るのである。いや実際、優れた人物が窮地に追い込まれたとき、このような才覚と努力で道を切り拓いて行くことは人類の歴史でも繰り返されて来たことであると思う。そう考えると、ひょっとしてこの映画のメッセージは、火星に生物がいて (要するに火星人 = Martian だ)、彼らが何もないところから工夫して地球に辿り着くこともありうる、つまり、人類の勇気と叡智が、火星人にも影響を及ぼすこともありうる、ということなのかもしれない。そうすると続編は、マーク・ワトニーのサバイバルを真似た火星人たちが大量に地球にやって来るという展開なのかも・・・ちょっと違うか (笑)。これは火星でジャガイモの栽培に成功したワトニー。
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だが、この映画のリアリティは、実は適度な誇張によって成立している部分がある。例えば、ワトニーがジャガイモを育てるには、人の排泄物を肥料として使うのであるが、そのシーンでマット・デイモンは、両方の鼻の穴に詰め物をしている。これは、極限的な状況において発現する意外なユーモアと解してもよいが、私の見るところ、映画的誇張である。つまり、音を遮るなら耳栓は大いに意味があるが、臭いから鼻に栓をするという事態があるだろうか。音は物理的反応だが匂いは化学的反応である。そして鼻と口はつながっていて、呼吸に必要な器官である。だから、臭いときに人はどうするかというと、息を止めるのであって、それが最も有効的な手段だ。でも、画面上で登場人物が鼻に栓をしていると、なんとなくそれらしく見えるのである。さすが熟練のリドリー・スコット監督だ。あ、それから、ワトニーが自分で手術するシーンが出てくるが、この監督の「プロメテウス」の同様シーンのエグさを思うと、随分とかわいいものだ (笑)。

それから面白いのは、この究極のサバイバル劇においても、ワトニーとその仲間たちとの交信では、下品なまでのユーモアが常に存在していることだ。もちろん人にもよるが、確かに欧米人のユーモアの感覚は日本人とは異なっていて、危機的な状況を笑い飛ばす勇気には、見習うべきところがあると思う。なので私はビジネスの場では、なるべく下品なユーモアで外人に対抗すべく心掛けているのだ (笑)。これがワトニーと同僚のクルーたちだが、左から二番目、船長のルイスを演じるジェシカ・ジャスティン。先般も「クリムゾン・ピーク」での彼女の演技に触れたが、その映画よりも、やはり「ゼロ・ダーク・サーティ」とかこの映画のような精悍な役がよく合っている。
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このように興味深い点はいろいろある映画だが、全体としての出来は、うーん、実はそれほど素晴らしいとは正直思わない。それはやはり、数年前に公開された「ゼロ・グラビティ」(原題は "Gravity" で、Zero がつかないこちらの題の方がずっといい) と比較するからだろう。あの映画では、本当に地球の有難さ、つまりは重力の有難さが最後にぐぐーっと来たもので、それには、ジョージ・クルーニーの演じた役のような、やはり極限でもユーモアを忘れない、でも広大な宇宙の彼方に消えていってしまう存在が欠かせない。どんなに能力の高い人間も、宇宙の中では一個のチリに過ぎないという冷徹な事実が描かれていたからこそ、サンドラ・ブロックの最後の生還が感動的であったのだ。人間は希望を持つ生き物なので、そのような高い能力の人間は、実は宇宙空間でも生き残ってまた宇宙船に帰ってくると考えたいが、もちろん現実にはそんなことは起こりはしないのだ。でもそれだからこそ、生き残った生命がいとおしいのだ。それに比べるとこの映画は、大いなる知恵とちょっとの勇気があれば、宇宙の中でも人間の存在意義があるという描かれ方になっていて、ちょっときれいごとのような気がするのである。

この映画の監督、リドリー・スコットは既に 78歳。イギリス人で、サーの称号までもらっている。私としては、初期の「エイリアン」「ブレードランナー」が忘れられないので、やはり今でもかなり頻繁に公開される新作は、毎回どうしても見たいと思うのだが、本当に内容の良し悪しは、作品によって大きく違っている。近作の「悪の法則」も「エクソダス : 神と王」も、がっかりな内容であった。それらに比べればこの作品はまだ楽しめた方だが、上記の初期の 2作や、あるいは「ブラックレイン」「ハンニバル」のような独特の耽美性からは程遠く、いい年して、相変わらず作風の定まらない監督だ (笑)。しかしまあ、フィルモグラフィに一作でも素晴らしい作品があれば、常にその監督への興味は存在するもの。リドリー・スコットのオデッセイ、まだまだ続いて行くことであろう。
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by yokohama7474 | 2016-02-24 00:23 | 映画 | Comments(0)
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