大野和士指揮 東京都交響楽団 2016年 3月 5日 東京芸術劇場

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東京都交響楽団 (通称「都響」) は、東京都の運営するオーケストラである。このブログでも何度か採り上げている通り、このオケは今絶好調と言ってもよい状態で、素晴らしい演奏を何度も聴かせてくれているが、今回は音楽監督である大野和士の指揮なので、期待もひとしおだ。調べてみると今回大野が指揮する都響の演奏会は 3回。最初は 2月27日 (土) にいわきで、そして翌 2月28日 (日) にサントリーホールで、ラヴェルほかのポピュラー名曲のコンサートがあり、そして 3回目はこのコンサート。都響が続けてきた「作曲家の肖像」シリーズの第 106回にして最終回。題して「日本」となっている。曲目は上のポスターにもあるが、以下の通り。
 武満 徹 (たけみつ とおる) : 冬 (1971年作)
 柴田 南雄 (しばた みなお) : 遊楽 作品 54 (1977年作)
 池辺 晋一郎 (いけべ しんいちろう) : 交響曲第 9番 (2013年作)

会場である池袋の東京芸術劇場には、このような大野の自立式ポスターが。よく見るとこれはサイン入りではないか!!
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この大野の肖像入りのポスターやチラシは、昨年の音楽監督就任からあちこちで見かけるが、クラシックの音楽家というよりも、なにかアングラの匂いを伴った暗めのロック歌手 (例えば黒夢とか 笑) のように見える点、ちょっと気にならないでもない。21世紀の現代、大口あけてガハハと愉快そうに笑う音楽監督では知性が疑われるということか。誤解なきように書いておくと、大野は現代日本の誇る、最高の知性と冒険心を持ち合わせた音楽家であると私は考えている。「オペラ・コンチェルタンテ」シリーズ等に驚愕した東京フィル音楽監督時代に始まり、その後ロンドンで、ニューヨークで、ブリュッセルで、リヨンで、彼の音楽を追いかけてきた身としては、東京で彼を聴ける喜びは何物にも代えがたいのは事実。いわゆる名曲も大変結構なのだが、今回のような現代日本の音楽を聴かせてくれるとは、なんとも素晴らしいことではないか。でもこのポスター、やっぱりちょっと怖い (笑)。

開演に先立って、大野と、今日のメインの曲目の作曲者、池辺晋一郎のプレトークがあった。
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今回の 3曲のうち最初の 2曲の作曲者、武満と柴田は、ともに今年が没後 20周年ということらしい。武満は 1930年生まれ、一方の柴田は 1916年生まれと、年は離れているものの、私の世代にとってはいずれも近しい作曲家である。武満はもちろん、日本が生んだ最も有名な作曲家であるが、柴田もまた、作品よりもむしろ FM のクラシック音楽番組のパーソナリティやエッセイ、またレコードの解説などで、中学生時代からその肉声や文章に触れる機会が多かった人である。池辺は 1943年生まれ。以前 NHK の「N 響アワー」の司会者として、その恐るべきオヤジギャグで、全国のお茶の間 (この言葉がかろうじて生きていた最後の時代であったろうと思う) を心胆寒からしめた実績 (?) を誇る。なにせあのビートたけしまでが、どこかで彼のことをネタにしていたことを覚えている。ここで池辺は、「柴田先生」「武満さん」という異なった呼び方をしていたが、なんでも、池辺にとって柴田は日本作曲界の大御所で尊敬の対象。一方の武満は、一時池辺は彼のアシスタントを務めたこともあり、もう少し身近な存在である由。ここで語られた今回の曲目、交響曲第 9番については、のちほど触れることにする。

最初に演奏された武満の「冬」は、彼の管弦楽曲としては決して知られた方ではない。私にとっても未知の曲で、小学館の武満徹全集を引っ張り出して予習したところ、札幌冬季オリンピックのために IOC の委嘱で書かれたもので、6分ほどの小品だ。だが、いかなる理由か分からぬが、世界初演は 1971年10月29日 (ということは札幌オリンピックの数ヶ月前だ) に、パリで若杉弘指揮読売日本響によって行われている。武満自身の言葉によると (「音楽」という小澤征爾との対談に所収)、その演奏を、20世紀音楽の大巨匠であり、武満自身も大変尊敬するフランスの作曲家、オリヴィエ・メシアンが聴きに来ており、ある箇所の音をどうやって出したのか、トランペットを使ったのかと質問したという。答えは、ティンパニの上に乗せた仏教用の鐘であった由。短いながらも武満らしさいっぱいの曲で、大野の指揮する都響は、ここでも芯の通ったような素晴らしい音質で繊細な演奏を聴かせてくれた。因みに武満には、この「冬」以外にも「秋」という作品を書いているが、これには納得だ。やはり彼の音楽には、「春」「夏」はふさわしくないと思うのは私だけであろうか。
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そして 2曲目の柴田の「遊楽」。16分ほどの曲で、1977年 9月13日に、この東京都交響楽団と、当時の音楽監督、渡邉暁雄の指揮によって初演されている。これは、日本的な題材を使用しながら、後半ではヴァイオリン奏者たち約 30名が即興演奏をしながら歩き回るという、いわゆる当時流行ったシアター・ピースの作品である。私が中学生の頃から FM を通して知っている柴田の語り口は、なんとも教養深い文化人という印象であったが、書いている作品には結構過激なものも多い。私は近年彼の CD を集めていて、昔実演で聴いた若杉弘指揮の「行く川の流れは絶えずして」のライヴ録音も手元にあるが、種々の合唱曲、そして「柴田南雄とその時代」というセット物は第一期、第二期とも持っており、今回演奏された「遊楽」も、このシリーズの CD で予習して行った。あとで気づいたことには、大野はこの曲でヴァイオリン奏者が歩きやすいように配慮したのであろう、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを左右対称配置としていた (後半の池辺の作品では舞台に向かって右側はヴィオラ)。演奏はここでも明確かつ情緒のあるもので、スタイルとしては古いものであっても、それを演奏する意義を感じさせるものになっていた。これぞ教養人柴田の面目躍如だ。
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さて、冒頭のプレ・トークで紹介されていたことには、この都響には、なんと、作曲者柴田南雄の息子がコントラバスに在籍しているという。ここでダジャレの達人、池辺の本領発揮。「柴田先生の息子さんの名前は、乙に雄と書いて『オトオ』。オトオさん・・・息子なのにオトーさんとはなぜですかね。もし娘さんならオカアさんと名付けていたのでしょうかね」とのこと。池辺は、息子柴田乙雄の顔は往年の父親柴田南雄にそっくりとコメントしていたが、確かに面影ありますね (笑)。演奏後のカーテンコールで、指揮者の指名を受けて照れながら挨拶していた。父の作品を演奏するとは、一体どんな感じの経験であろうか。
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さてメインの池辺晋一郎の交響曲第 9番であるが、これは 2013年 9月に下野竜也指揮東京響によって初演されていて、昨年再演されているので、作曲から 2年半で実に 3度目の演奏となる。現代のオーケストラ曲としては破格の頻度である。しかも、ソプラノとテノールの 2人の歌手を必要とする全曲 50分の大作である。大野はかつて同じ作曲家の 5番の交響曲を初演していて、この 9番 (言うまでもなく、ベートーヴェン以降、5番と 9番は交響曲の傑作を表すナンバーだ) も初演を望んでいたものの、音楽監督を務めるリヨンのオペラハウスのシーズン開幕のため、果たせなかったとのこと。その意味では、今回は念願叶っての指揮ということになる。ダジャレだけではなく、数々の映画やドラマにも音楽を提供し、晦渋さのない現代音楽を書く池辺晋一郎の、渾身の大作や、いかに。
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上記の通りこの曲にはソプラノとバリトンの独唱者が必要となり、この 2人が長田 弘 (おさだ ひろし) の詩を歌ったり語ったりする。なんでも池辺は詩が好きで、書庫には沢山の詩集が並んでいるらしく、今回はそこからテキストを得たということになる。我が家の書庫には詩集はそれほど沢山あるわけではないが、長田弘の詩集くらいは常識の範囲で、私も持っている。惜しくも昨年 5月に逝去したが、その作品の率直なイメージには大変共感できるのである。今回歌う歌手は、ソプラノが幸田浩子、バリトンが宮本益光。いずれも現代日本を代表する名歌手である。
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私は池辺の歌劇「鹿鳴館」(三島由紀夫原作) も初演のときに見ており、この 2人はそこでも共演していた。音楽自体は池辺らしい明快な、但し、ときには鋭い叫びにも満ちた味わいある作品と言えようが、ただ、やはり日本語をこのような大編成のオケに乗せるのは大変な困難を伴うのだと改めて実感した。これは、上記の「鹿鳴館」を含む数々の日本の歌劇において何度となく感じてきたこと。今回はオペラではなく交響曲であるが、やはり同様の思いを禁じ得なかった。これはつまり、現代日本で表現活動を行うときに、いわゆるクラシックの形態の伝統的なオーケストラが歌詞を伴って演奏することに、どの程度の説得力があるかという問題であろう。私としては、この作品を経験してもまだ、その点の答えが出ない状態である。もちろん、古い時代に書かれた名作を演奏するだけでなく、同時代の日本の作品を、時には長いインターバルを経て演奏することには大きな意味があって、東京の各オーケストラは多かれ少なかれ、その責務を果たしていることは素晴らしいことだ。今回のように空席の目立つコンサートであればこそ、その意味もまた光ろうというものだ。だが、その音楽の社会的な意義とか、純粋に音楽としての雄弁度については、虚心坦懐に考えたい。武満は、大江健三郎の小説「治療塔」を原作としてオペラを書こうとしていたと言われるが、結局それは果たされぬまま作曲者は逝ってしまった。池辺の挑戦も、まだまだ続いて行くのであろう。

それにしても大野の音楽的センスは相変わらず素晴らしいと思う。次の都響への登壇は 6月。イアン・ボストリッジとのブリテンの「イリュミナシオン」やスクリャービンの「法悦の詩」、また、R・コルサコフの「シェエラザード」など、誰もが認める名曲と、ちょっとだけ通な曲の組み合わせだ。楽しみなことである。
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= 追記 =
ちょうどこの記事を書いている頃に NHK BS プレミアムで、ガウディの特集番組が放送されており、その中で大野が手兵バルセロナ交響楽団と、カタルーニャ国立管弦楽団 (ええっと、カタルーニャって「国」でしたっけ 笑) の合同オケを指揮して、昨年 9月にサグラダ・ファミリア教会の中でフォーレのレクイエムを演奏するシーンがあった。バルセロナでの大野の指揮ぶりはメディアではほとんど紹介されていないので、貴重な機会であった。

by yokohama7474 | 2016-03-06 00:13 | 音楽 (Live) | Comments(0)