マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル 2016年 4月 9日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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現代のピアノ界において誰もが認める最大の巨匠は、言うまでもなくイタリア人のマウリツィオ・ポリーニ (1942年 1月 5日生まれ) である。今年既に 74歳になったということだ。なに? ポリーニが 74歳??? にわかには信じがたい。私が彼の生演奏を初めて聴いたのは 1986年。ついこの間かと思いきや、なんと。ちょうど 30年前である。NHK ホールでの、「青少年のためのコンサート」と称した低価格のコンサートであった。なにせ彼のチケットの値段は破格であって、その辺の外来オーケストラよりも遥かに高い。今手元に当時のプログラムを持ってきて、その青少年のためのコンサートのチケットが 3,000円均一であったのを確認。30年前とはいえ、これは安い。だが、30年経ってもあまり進歩のない私は、今回も最も安い席であるステージの裏側のチケットをゲットして、ようやくこのコンサートに出掛けることができた (笑)。

いかにチケットが高いとはいえ、数年おきに東京にやってくる彼のリサイタルは、やはり万難を排して聴きたいものだ。先の記事でご紹介した、91歳でかくしゃくと指揮をするネヴィル・マリナーに比べると、70代にしてはちょっと老けているように見える昨今のポリーニ。
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私が前回彼を聴いたのは 2010年。既に 6年を経ており、その間に彼の盟友であったクラウディオ・アバドは世を去り、また彼が深く尊敬する大作曲家、ピエール・ブーレーズも、今年の 1月 5日に 90歳で亡くなってしまった。因みにブーレーズが死去した日は奇しくもポリーニの 74歳の誕生日。恐らくは、言葉にはできないいろいろな思いが彼の内部に渦巻いていることだろう。会場ではこのようなポリーニのメッセージが配布された。今回はリサイタル以外に彼の企画になる室内楽演奏会も 2回予定されており、そこではブーレーズ作品も演奏される。
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今回の曲目は以下の通り。
 ショパン : 前奏曲嬰ハ短調作品45、舟歌嬰ヘ長調作品60、2つのノクターン作品55、子守歌作品57、ポロネーズ第 6番変イ長調作品53「英雄」
 ドビュッシー : 前奏曲集第 2番

実は最初の発表では、ドビュッシーの代わりにシューマンのアレグロ ロ短調作品 8と幻想曲 ハ長調作品17が予定されていて、それらが前半に演奏されるはずであった。そしてショパンは後半、しかも一部曲目と曲順が違っていた。ピアニストの真意は分からないが、ロマン的、夢幻的なシューマンよりも、機知に富み音色の幅の広いドビュッシーの方が、ポリーニを聴くには適していると思うので、私としてはこの曲目変更を歓迎したい。しかもこのポリーニ、ドビュッシーの前奏曲集は、第 1巻の録音はあるが、第 2巻の録音はまだないようだ。第 1巻には「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」といった有名曲が含まれていて、そちらの方がポピュラーであるが、第 2巻も目まぐるしい変化に富んだ名曲。安い席とはいえ (笑)、大変に楽しみだ。もっとも今回の来日プログラムは 2種類で、ドビュッシーの前奏曲集第 2巻は、もうひとつのプログラムではもともと予定されていた曲目なのであるが。

ステージに現れたポリーニは、やはり少し年老いた感じがした。猫背になってしまったように見えるし、足取りもヨボヨボとして見えた。だがこの日の演奏、ある意味では変わらない輝かしいポリーニ、またある意味ではさらに深化したポリーニを聴くことになり、大変に感銘深いものとなったのだ。

ショパンの演奏では、すべて通して演奏するのかと思いきや、ほぼ 2曲ずつ終わる度に拍手を受けて一旦ステージから退出していた。体力的な問題なのかと少し心配になったが、出てくる音は我々のよく知っている、感傷のない、切れ味鋭いポリーニの音であって、その意味では持ち味が健在であったとはいえようか。だが一方で、以前のようなバリバリ弾くイメージは少し減退したようにも見える。曲の選択にもよるのであろうが、甘く華麗なサロン音楽を書いたショパンではなく、自己を厳しく見つめ、望郷の強い思いを譜面に書き連ねたショパンを感じることになった。そのようなショパン像を描くには、今のポリーニは孤高ともいえる高みに達しているのではないだろうか。舟歌など、以前から彼の演奏で聴くと、楽譜に書かれた音以上の引き締まったロマン性 (妙な表現だが・・・) が厳しく立ち現われるのであるが、今回もしかりであり、しかも、孤独感が以前よりも深まってはいなかっただろうか。もともと卓越した技術で世界を席巻した人が、その技術は克己心によって懸命に維持しながらも、従来から目指していた技術の先にあるものを、巧まずしてより明確に表現できるようになってきたと考えられるのではないだろうか。もちろん、前半最後に置かれた「英雄ポロネーズ」だけは華やかな技巧を誇示するように書かれているが、これも以前からそうである通り、ポリーニがショパンのポロネーズを弾くときの姿勢は、とても技巧の誇示というレヴェルではない、あえて言えば魂の飛翔のような燃焼力の高さを伴っていた。今回、決して彼の技巧が衰えたとは思わないし、そもそも彼自身が年齢による技術レヴェルの低下を甘受しているとも思わないが、技術など些細なことだとでも言いたげに聴こえたように思う。つまり、70代半ばにして、技術を越えた何かに孤独に迫るピアニストとして、新たな次元に達しつつある、そのような感銘を覚える演奏であった。

後半のドビュッシーは 12曲連続の演奏。圧巻という表現は少し似合わないが、1曲 1曲の丁寧な磨きこみに、聴衆は皆、固唾を飲んで聴き入ることとなった。「霧」「枯葉」「風変りなラヴーヌ将軍」「水の精」「花火」などという標題があれこれついているものの、ドビュッシーが仕組んだ音の交錯は、ロマン的な西洋音楽の範疇を越えて、多種多様な表現となって結実しているので、標題を過度に気にする必要はないように思われる。ポリーニの演奏は、技術的な破綻は皆無であることはもちろんだが、輝きはあるのに、同時にある種淡々としていて、近代音楽特有の前衛性と、それを現代に生きる我々が聴く意味を、改めて考えさせてくれるようなものであった。ドビュッシーは近代音楽の原点であり、いわゆる現代音楽の元祖でもあるわけだが、それから我々は既に 100年を経過してしまったにもかかわらず、未だにドビュッシーの音にドギマギしているようなところがありはしないか。ポリーニの指からは、ドビュッシーの先にいるブーレーズのポートレートも浮かび上がる。そう、このドビュッシーの視線には、「頼むよ、後世の人たち」という意味が込められているのだ。
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ポリーニの仕事は、それに対して「もちろんです。頑張っていますよ」と答えることだ。その姿にはしかし、やはり孤独がつきまとうのだ。ブーレーズは、「まあまあ、一緒に頑張ろうよ」と言っていたが、先に逝ってしまった・・・。
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終演後、最近では珍しくなった、ステージに花束を届けるファンも 2人いて、客席は大きな拍手に包まれた。そしてアンコールでもドビュッシーとショパンが 1曲ずつ。「沈める寺」と、バラード第 1番だ。今回の演奏会を要約するように、輝かしくまた繊細なタッチの向こうに、遥かな美と孤独を感じることとなった。これからポリーニはどこに向かうのであろう。同時代を生きる偉大な芸術家の姿を、これからもしっかりとフォローしたい。

ところで今回、開演前にステージの反対側から見ていると、主として女性たちが大勢ピアノの前に押し寄せて、何やら熱心に写真を撮っている。25分間の休憩時間にも同じことが起きていたので、ちょっと見に行ってみた。そうすると、ピアノの右側面、客席に面した側に見えるメーカー (Steinway & Sons) の社名の下に、何やら太い金色の文字のサインが。Fabbrini と読める。そして、現代に生きる人間の特権を活かし (?)、その場ですぐにネット検索すると、この方はポリーニ専属の調律師であるらしい。招聘元のサイトにもこんな情報がある。
http://www.kajimotomusic.com/jp/news/k=2440/

へぇー、私はこのアンジェロ・ファブリーニさんのことを恥ずかしながら全然知らなかったが、あれだけ多くの人が写真を撮りに来ていたということは、ポリーニ・ファンにとっては常識なのだろうか。ちょっとびっくりだ。中には、なんだかよく分からずに便乗で撮影した人もいたのでは・・・とはゲスの勘繰り (笑)。でも、皆さん熱心に写真を撮っていたにもかかわらず、その場で実際に調律をしている頭の大きな外人さんには、全く注意を払っていなかったようでしたがね・・・。カジモトのサイトでもシャイなので写真はないと書いてあるが、今検索して、若き日のポリーニとファブリーニの写真を発見。年は取っているが、確かにあの場で調律していた人ではないか。あ、それから、この写真のピアノにも、既に Fabbrini というサインが入っている。
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芸術家の孤独な作業の裏には、必ずこのような協力者がいるものだ。よし、これを覚えておいて、次回の公演では真っ先に写真を撮りに行くぞ!! 安い席から駆け付ける分、ハンディにはなるが・・・。

by yokohama7474 | 2016-04-10 10:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)
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