ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2016 庄司紗矢香 (指揮とヴァイオリン) ポーランド室内管 2016年 5月 3日 東京国際フォーラム ホールB7

e0345320_22544280.jpg
前回の記事で採り上げたラ・フォルネ・ジュルネ・オ・ジャポンの初日、エマールの弾くメシアンを聴きおえて足早に次の会場に向かって聴いたのがこのコンサートだ。エマールのコンサート終了が 20時頃。その時刻はちょうどこのコンサートの開場の時刻であって、こちらは開演が 20時30分だ。このように聴衆がコンサートのハシゴをするのもこの音楽祭の特徴である。もっとも、ちょい小腹が減ったこともあって、屋台でケバブなど頬張ってからの移動となった。屋台の皆さん、ありがとう!!

今や名実ともに日本を代表するヴァイオリニストとなった庄司紗矢香であるが、このラ・フォル・ジュルネでは随分以前からの常連演奏家であり、本家本元のナントでの音楽祭にも頻繁に出場している。なんでも今年 2月のラ・フォル・ジュルネ・ナント (テーマは東京でのものと同じ「自然」) で最も話題となったのが、この彼女とポーランド室内管との演奏会であったらしい。
e0345320_17300122.jpg
ここで演奏されたのは、ヴィヴァルディが作曲したあの有名なヴァイオリン協奏曲集「四季」を、1966年ドイツ生まれ、英国育ちの作曲家マックス・リヒターが「リコンポーズ」したもの。このリコンポーズという言葉は、このコンサートの会場で配られている一枚物の説明書きからそのまま引用しているが、直訳すれば「再作曲」ということ。つまり、編曲ではなくて、「四季」という曲をもとに新たな作品を創造したという意味である。これがマックス・リヒター。
e0345320_17372834.jpg
実は私はこの作品をほとんど予備知識なしに聴きに行ったのだが、唯一の情報としては、どこかで目にした「庄司紗矢香、初めて電子楽器と共演」いう一節であって、一体なんだろうと思っていたら、なんのことはない、一部シンセサイザーを使っているというだけであった。「電子楽器」などという前世紀の仰々しい用語を使わずともよいだろう (笑)。一言で言ってしまえばこれは、ミニマル・ミュージックである。この言葉はミニマル・アートと対になる言葉で、要するに小さな部分を少しずつパターンを変えながら繰り返す様式だと思えばよいだろう。1960年代に米国で生まれた様式だと言われる。この時代はもちろん、冷戦の時代、反戦の時代、ヒッピー文化の時代であり、ミニマル・ミュージックの無機的な陶酔感には、もともと熱さと冷たさの入り混じる独特のトリップ感があって、いかにもこの時代の雰囲気にふさわしい。もちろん、その後時代は移り変わり、その受容にも、もちろん作り手側のメッセージにも、当然様々な変遷がある。私は実はこの種の音楽が大好きで、第一世代であるテリー・ライリーやスティーヴ・ライヒのステージやレクチャーには、日本や米国で何度も接しているし、また、フィリップ・グラス、ジョン・アダムズ、マイケル・ナイマンなどは山ほど CD を持っている。なので、今回この演奏を聴き進むにつれ、「お、なんだ。ミニマルか」と気づくと、既知のあれこれの音楽 (もちろんヴィヴァルディの「四季」を含む) を思い出すことで、大変刺激的な機会を持つことができた。

曲の構成は、ヴィヴァルディの原曲そのままで、春夏秋冬それぞれ 3楽章ずつ、つまり全部で 12楽章ということになる。使われている素材はそれぞれの楽章の原曲のもので、それは耳ですぐに分かる (また、各季節ごとに照明が変わって、季節感を演出する)。ところがこれはミニマル・ミュージックであるからして、その定義にある通り、断片が繰り返し演奏されることになり、なるほど素材はバロック音楽のヴィヴァルディなのだが、聴こえてくる音は、細部の音形やリズムが変容し、調も変えられることによって、ミニマル特有の、都会の孤独を背負った疾走感のようなものを伴っている。「春」の第 1楽章の冒頭は誰でも知っている有名な曲であるが、ここではそれは登場せず、その楽章のパッセージの断片がクローズ・アップされ、それが繰り返されるうちに、気が付くとヴァイオリン・ソロと弦楽合奏が立派なミニマル・ミュージックを奏でているのだ。これは特にフィリップ・グラスに顕著なのだが、短い音形が繰り返されて盛り上がったところで突然音楽が切れるという特徴がミニマルにはあり、ここでもそれを頻繁に聴くことができて大変に面白かった。おっと、ヴィヴァルディを素材にそうやって遊ぶか、というシーンがあちこちで見られたので、全く退屈することはなかった。その意味ではこの曲、パロディ音楽と言ってもよいと思うのだが、この種の音楽を、「パロディでございます」とふざけてやったのではダメなのだ。その点、庄司らしく非常に真剣に、また高い士気をもってこの曲に取り組んだことが (あ、もちろん技術的には全く余裕があるだろうが 笑)、結果的には曲の本質を表したと評価できるように思う。
e0345320_18053068.jpg
思い返すと、「秋」の第 1楽章や「冬」の第 1楽章は、かなり原曲に近い始まり方をして、そこでヴァイオリン・ソロの見せ場もあったのだが、原曲と大きく異なったのは、その最終曲、つまり「冬」の第 3楽章だ。原曲では音楽は重層的に疾走して終わるのだが、ここではゆったりとした音楽で、何やら広がりのある抒情性、あるいは哀しみのようなものを感じさせた。思い出したのは、アルヴォ・ペルトの名作「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」である。ペルトの作風はミニマルに近いが、やはり米国のミニマルとは違って、エストニアの自然を思わせるものである。私が生涯で初めて耳にしたペルトの曲は、まさにこの「ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌」で、もう 30年近く前であろうか、リッカルド・シャイーが、当時まだベルリン放送交響楽団と名乗っていた現在のベルリン・ドイツ交響楽団を演奏したライヴを FM で聴いたのであった。その頃はこの作曲家は日本では全く無名で、私はエアチェックしたこの曲のカセットテープを何度も繰り返し聴いて、その度に感動に打たれていたものだ。今 21世紀に至って、このような音楽に若い世代がどのように反応するのか分からないが、私と同世代、1960年代生まれ (ということは、ちょうどミニマル・ミュージックが生まれた頃に生を受けたということだ) の作曲家リヒターの感性には、「四季」によってインスパイアされた創作術をこのようなかたちにして聴衆に提示したいという欲求があるとすると、そこには時代と切り結ぶ姿勢がありはしないだろうか。ヒッピー時代とは異なり、今や世界を覆う秩序や原理や対立の構図は見えにくく、いかに浮かれた出来事があろうとも、常に哀悼の歌がふさわしい時代。まぁ、そう深読みする必要はないかもしれない。古いものから新たなものを生み出す芸術家の姿勢に、まずは好感を持つということでよいとも言えるだろう。今回、音楽祭のサイトに作曲家のコメントが載っているので引用しよう。

QUOTE
今回、「四季」のリコンポーズが東京で初演されることを大変うれしく思います。庄司紗矢香さんの演奏はドイツのテレビで初めて拝見しましたが、非常に素晴らしいヴァイオリニストです。「四季」のリコンポーズは、ヴィヴァルディという風景(ランドスケープ)の中を旅していく"実験的な旅行"として作曲しました。ヴィヴァルディは「四季」の中で、思わず探索したくなるような美しい風景の数々を表現しています。彼の音楽がすぐれている理由のひとつは、まさにそうした風景にあると思いますし、そこからリコンポーズの着想も浮んできました。演奏をお楽しみください。
UNQUOTE

なるほど、「実験的な旅行」ですか。その意味では、今回庄司は初めて (だと思う) 指揮も手掛けていて、士気高い四季の指揮ではシャレにもならないが、やはり音楽祭のサイトで見ることのできる彼女のインタビューによると、なんと、ナントでの (これもシャレにならない 笑) リハーサルの初日に、指揮者なしで演奏することを初めて知ったとのこと。なかなかの大物である (笑)。指揮と言っても、多くは自分でソロを弾きながら、オケにキューを与えるくらいであったが、このポーランド室内管は、同国の名指揮者、イェジー・マクシミウク (私は彼のファンである) が結成したオケで、大変優秀だ。ミニマルのビート感に合わせることさえできれば、この演奏には大して苦労はしなかったろう。

さてこの演奏、実は今日、5月 4日も、18時30分から (あ、ちょうど今だ!!) 繰り返される。ところが今回の会場はホール A で、これは 5008名収容の大ホールである。私が聴いた B7 は 822席で、シンセサイザー以外は PA を使用していないように聴こえたが、ホール A では明らかに無理だ。まぁ、PA を目の敵にするのはクラシック・ファンの悪い癖であるが、やはり弦楽器はアコースティックで聴きたいなぁと思うもの。その点、私が次に聴く庄司の演奏会は今月末、神奈川県立音楽堂での無伴奏リサイタルであって、これはまさに真骨頂を聴ける機会であろう。広い視野と文化的な事柄への興味を持ち、常に新たな挑戦を続ける芸術家は信用できる。期待しております。

by yokohama7474 | 2016-05-04 18:27 | 音楽 (Live) | Comments(0)
<< ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャ... ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャ... >>