サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィル ベートーヴェン・ツィクルス 第 3回 2016年 5月13日 サントリーホール

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会場を埋め尽くした 2000の聴衆は、コンサートが終了しているのにほとんど帰る人もおらず、文字通り総立ちで、既にオーケストラが引き上げて空っぽになってしまったステージに盛んな拍手を送っている。そこに指揮者ラトルが二度・三度と、舞台前面ではなく奥の方に遠慮がちに姿を見せる。ブラヴォーはほとんど聞かれず、ただ温かい拍手が続く。そしてようやくその拍手が静まったときもまだ聴衆は帰らない。全体が一瞬静まったそののち、「ええっと、どうしよう」といった感じの、なにやら気まずい笑いが、そこここで起こる。そして、実はその拍手を実際に受けていた存在である品の良い老夫婦が席を立つと、改めて万雷の拍手が沸き起こる・・・。これがこのコンサート終了時の光景だ。言うまでもなく、その老夫婦とは、天皇・皇后両陛下。先般の仙台フィルのサントリーホールでの演奏会は、その直前に起こった熊本地震への配慮から、予定されていた鑑賞を断念された両陛下であったが、やはり天下のベルリン・フィルのベートーヴェンともなると、聴いてみたいと思われたのだろうか。

時折コンサートで起こるこの光景を見て、やはり日本人一般にとって皇室は親しみと尊敬をもって接するべき存在であると実感するので、ラトルもベルリン・フィルもそっちのけ (?) での拍手に、何か温かいものを感じて、それはそれで大変後味のよいコンサートになった。要するに今回、演奏後の拍手の途中で両陛下がすっくと立ち上がられたので、一般聴衆もほぼ全員がその時点で立ち上がり、両陛下が拍手をやめるまで、そのスタンディング・オベーション状態が続いたということなのだ。それゆえ、拍手が止んだときに気まずい笑いが起こったのも、さっさと帰るわけにもいかないその場の雰囲気をよく表していて (というのも、天皇陛下は拍手終了のあとまた着席され、皇后陛下に促されて席から立たれたので)、そこにいた人たちの中に、ほのぼのとした連帯感のようなものが、期せずしてできたのである。ステージ左側、LA ブロックにいた私の席からは、RB ブロックで鑑賞され、手に手を携えて階段を登って帰途につかれる両陛下のお姿をよく見ることができて、国自体に様々な課題問題はあれど、日本がこのような光景に象徴される平和な国であることに感謝しようという気になった。これは実際にマスコミがその場で撮影したこの日の両陛下。
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さて、ラトルとベルリン・フィルのベートーヴェン・ツィクルス、第 2回を聴けなかった私であるが、この第 3回を聴くことができ、今日・明日で残る 2回にはでかけることとなっている。初回の演奏についての記事では若干の戸惑いを率直に書いた私であったが (もちろん異論のある方も多いと思う)、今回も演奏の傾向は同じであり、また新たな考察をすることができたと思う。今回の曲目は、以下のベートーヴェンの交響曲。
 交響曲第 8番ヘ長調作品93
 交響曲第 6番ヘ長調作品68「田園」

ベートーヴェンの交響曲を連続演奏する際に、どのように組み合わせるかはひとつの課題である。マーラーやブルックナーでよくあるように番号順に演奏して行くと、ベートーヴェンでは必ず演奏時間とメインの曲目の設定にいびつな要素が出てくるので、場合によってはピアノ協奏曲とか序曲を交えての全曲演奏となる。今回のラトルとベルリン・フィルは、第 9以外は基本的に 2曲の交響曲を組み合わせている。順番に言うと、① 1番・3番、② 2番・5番、③ 8番・6番、④ 4番・7番。そして⑤ 9番という 5回だ。2番・5番の回のみ、演奏時間が短すぎるので、「レオノーレ」序曲第 1番を組み合わせている。よくベートーヴェンの交響曲は、荒々しい奇数番号の曲と、優しく穏やかな偶数番号の曲という区分けがなされるが、確かに上記の 5回のうち、①、②、④、そしてもともと 1曲だけの ⑤ はメイン曲目が奇数番号で、今回の ③ だけが偶数だ。実は両陛下が鑑賞されたのは、後半の第 6番「田園」だけであったが、上記のようなほのぼのムードも、曲がこの明るい曲であったことも関係しているかもしれない。

と書いてからまた意地悪のように逆のことを言うと、ベートーヴェンの偶数番号が優しく穏やかって本当だろうか。今回は 8番、6番だから両方偶数。もちろん単純に、長調であるという点からみれば偶数番は確かに奇数番よりも明るい曲調だ (もっとも、奇数番号でも短調は 5番と 9番のみであるが)。だが、この第 8番という曲ひとつを取り上げても、なかなか一筋縄では行かない。既に後期の作品であるので、ベートーヴェンの持つ技術的表現力には多彩なものがあって、これは大シンフォニーと呼んでよい曲だと私は思っている。演奏時間 30分程度と短いし、また全 9曲の中でもとりわけ諧謔味が強い曲とも言えようが、それでも第 1楽章の雪崩を打つような執拗な音の重なりは、聴いているうちに第 9の第 1楽章にイメージがつながってくるような迫力だ。第 2楽章は機械的にリズムを刻むメトロノームへの賛辞なのか皮肉なのか。第 3楽章は舞曲風だが、流麗とは言えない屈折がある。第 4楽章はめまぐるしく駆け回る遊びのようで、最後のティンパニの激しい動きなど、いつも見ていてハラハラする (一度学生オケの演奏で、ティンパニのあまりの熱演に、バチが 1本、途中でびゅーんと飛んで行ってしまう場面に遭遇した 笑)。英国の大指揮者、故サー・コリン・デイヴィスは、子供の頃この第 8番を聴いて指揮者になることを決意したというが、私はその逸話が大好きで、この曲の強い表現力を端的に表していると思う。今回のラトルとベルリン・フィルの演奏だが、私が改めて思ったのは、このコンビの演奏には、「耳がとろけるような流れのよさ」というものが少ないということだ。各パートがよく鳴りながらぶつかりあうが、それらが溶け合って絶妙なハーモニーをなすということには必ずしもならない。うーん、よく考えてみれば、この特色はオケにも指揮者にも、それぞれもともとあったと思う。もともと天下のスーパーオーケストラであるベルリン・フィルには、全体的な規律が際立っていて、それが、ゆるい音を出すウィーン・フィルとの違いであろう。一方のラトルも、かつて実演で聴いたバーミンガム市響とのマーラー 7番とか、アルゲリッチをソリストに迎えてのプロコフィエフ 3番のコンチェルトなどでも、オケの凄まじい練習のあとを思わせる音の数々をギシギシとぶつかり合わせたような音楽であった。そう思って聴いてみると、世界最高のオケと世界最高の指揮者の共同作業は、その相性がよいがゆえに、一音一音にはっとするような洗練の極みという雰囲気とは少し違ってきてしまうのではなかろうか。その分、その表現力の強さには瞠目すべきものがあって、だからこそ 8番の第 1楽章に第 9の萌芽を聴くことができるのだろう。あえて乱暴に言ってしまえば、ベートーヴェンが交響曲で描こうとした世界の究極である第 9に向けて、あれこれ違った音の出し方が試されているわけで、演奏のシリーズのピークも、最後の第 9に現れるのではないだろうか。

「田園」の演奏も、音はクリアであっても、やはり各パートの溶け合いは今一つで、研ぎ澄まされた感覚はあまり感じられなかった。そして、ベルリン・フィルの音はやはり重量があって、多少早めのテンポであっても、古楽オケのような鮮烈な切れ味のよさにはならない。そう、それこそがこのオケの伝統なのであろうが、それゆえに、移り変わる音楽的情景に目を奪われ続けるということにはならないように思う。この演奏の特色が如実に出た個所は、第 2楽章の最後、弦楽器が沈黙して木管楽器が鳥の声を模して歌いあう部分だろう。ここでラトルは通常よりもむしろ遅いテンポを設定し、フルートに大きな表情をつけさせてじっくりと歌わせ、逆にクラリネットのカッコウは音を短く切って演奏させていた。結果、呼び交わしあう鳥たちというよりも、森のあちこちで別々の歌が響いているイメージに聴こえたものである。また、第 4楽章の嵐の部分でオケはその高い能力を発揮し、ここでは大変迫力ある音楽が鳴っていた。これもまたベルリン・フィルのもともとの持ち味。終楽章の神々しい音楽も、音の質は相変わらず高かったものの、やはり絡み合う声部が至高の感動をもたらすということにまではならず、この人たちは本当は嵐の方が好きなのではないか (笑) と思ってしまった次第。

そうして冒頭の光景に戻るわけだが、実際のところ、聴衆の反応はもちろん悪いわけはなかったものの、天皇陛下が拍手をやめられたら聴衆の間から戸惑いの笑いが漏れたことからも明らかなように、満場のスタンディング・オベーションは、今回の演奏だけへのものではなかったことも明らかだ。繰り返すが、レヴェルの低い演奏では全くなく、むしろ指揮者とオケの個性がはっきりと刻印された名演奏であることは確かだろう。それゆえに、「ベルリン・フィルのベートーヴェン」をただ闇雲に賛辞する時代は終わったのだなぁという思いも抱くのである。

今回の演奏会では、終了後にオーボエのアルブレヒト・マイヤーと、クラリネットのアンドレアス・オッテンザマーのサイン会があった。やはり新譜のベートーヴェン全集の CD / ブルーレイディスクの購入者のみが対象だ。このセット、私の家にも届いたが、最近このオケが時々作るかっちりとしたボックス入りの美麗なもの。
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私の勝手な予想では、このシリーズの頂点が上で見たように第 9になるのなら、最終日にはラトルのサイン会が開かれるのではないか。もしそうなら、会場で買ったふりをして、このセットを持って行って素知らぬ顔で列に並ぼうか (笑)。いやいや、そうは行きません。会場の CD 売り場では、このセットをその場で購入した人だけにサイン会参加権利証明書 (?) を配っていて、ズルはできません。でも、同じセットをたまたま別ルートで買っているだけで参加が認められないというのも、ちょっと解せない気がする。まあよい。私は書棚から、1985年のサイモン・ラトルとフィルハーモニア管弦楽団のプログラムを引っ張り出し、31年前にもらったラトルのサインを見てみることにする。このときの曲目、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」序曲、ドビュッシー「海」、そしてショスタコーヴィチ 10番の鮮烈な演奏に驚嘆したことを、昨日のことのように覚えている。
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そしてこんな記事も。まあ、音楽家の個人生活について云々する気はないものの、このとき一緒に来日した糟糠の妻 (歌手のエリーズ・ロス。クルト・ワイルの「七つの大罪」の録音でラトルと共演していた。確か年上だったのでは?) とはその後離婚し、やはり歌手のマッダレーナ・コジェナーとラトルは再婚することになる。
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時の移り変わりを感じますなぁ。しかしまあ、何もノルタルジックになる必要はない。このツィクルスも残すところあと 2回。今のラトル、今のベルリン・フィルをしっかり聴いておきたい。

Commented by yokohama7474 at 2016-05-15 22:15
> 匿名さん
外出していたため、コメント遅れましたが、ご指摘ありがとうございます。記事を訂正すると読まれる方が混同すると思い、適切に処理させて頂きました。
by yokohama7474 | 2016-05-14 10:01 | 音楽 (Live) | Comments(1)