庄司紗矢香 無伴奏ヴァイオリンリサイタル 2016年 5月29日 神奈川県立音楽堂

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このブログでも何度かその素晴らしい才能を称えてきたヴァイオリニスト、庄司紗矢香は、世界各地での活動に加えて日本でも、これまで数々の名指揮者、名門オーケストラとの協奏曲演奏をはじめとして、イタリアの俊英ピアニスト、ジャン・ルカ・カシオリとのベートーヴェンを中心とした 3度のデュオ・ツアー、90歳を越えてピュアな音楽を奏で続ける奇跡のピアニスト、メナヘム・プレスラーとの共演、また音楽祭ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンへの頻繁な登場、加えて水戸を拠点に室内楽を行う新ダヴィッド同盟の結成等々、実に多彩な活躍ぶりを見せてきた。が、今回は一味違う。恐らくは彼女にとって初めてであると思うが、無伴奏 (つまり、通常ヴァイオリンにはピアノの伴奏がつくのにそれがなく、全くのひとりで弾くということ) でのリサイタルである。スケジュールを調べると、5月26日 (木) の北海道 美深 (びふか) に始まり、川口、横浜、名古屋、広島、松江、そして 6月 7日 (火) の東京 (紀尾井ホール) まで全国 7ヶ所でのツアーで、今回はその 3回目、横浜の神奈川県立音楽堂での演奏である。

この神奈川県立音楽堂は、「木のホール」としても知られる中型ホール (収容人数 1,106名)。1954年に建てられた古いホールであるが、数々の名演奏家がその舞台に立っていて、ステージも客席も壁はすべて木でできているので、なんとも落ち着いた気分で鑑賞できる。今調べて知ったのだが、設計は、コルビジェの弟子で、東京文化会館を設計した前川國男だ。ロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールを参考にしたらしい。うーん、正直私はこの県立音楽堂、雰囲気の割に実際の音響は今イチだと思ってきたが、よりにもよって英国のパサパサのパンのような、あのデッドな響きのホールを参考にしていたとは・・・(笑)。ともあれ、無伴奏ヴァイオリンを聴くには最適の空間ではあると思うので、今回の演奏が楽しみであった。
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その無伴奏リサイタルで庄司が選んだ曲目は、以下のようなもの。
 バッハ : 前奏曲とフーガ ト短調BWV.542 (ジャン = フレデリック・ヌーブルジェ編曲)
 バルトーク : 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz.117
 細川俊夫 : ヴァイオリン独奏のための「エクスタシス」(脱自)
 バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第 2番 ニ短調BWV.1004

振り返って考えると、これはまさに驚異的な集中力とスタミナを要する曲目であり、弾き通すだけでも並みのヴァイオリニストではつとまるまい。加えて、ここには庄司ならではの強烈な個性がはっきりと表れていて、音楽をするということ、さらには生きるということのひとつのかたちを、彼女の持つ技能と感情を最大限に駆使して聴衆の前に示して見せたと思う。誠に恐るべきヴァイオリニストであると再認識するとともに、今後の彼女の活動においても大きなステップとなるのではないだろうか。あらそうかしら、と言わんばかりにも見えますが (笑)。
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最初のバッハの前奏曲とフーガでは、若干気合が入り過ぎという感じがしないでもなかったが、いつもながらに小柄なからだから発される大きな音に、早速圧倒されることとなった。昨日ムローヴァのクールなバッハの断片を聴いたわけだが、庄司のバッハはそれとは異なる、もっと温かみのある人間的かつ、あえて言えば大らかなもの。もちろん、それは生ぬるいという意味では全くなく、バッハらしい峻厳さは随所に聴くことができた。

2曲目のバルトークは、私も初演者であるメニューインの録音をはじめ、いくつかの演奏を聴いてきているが、実に恐ろしい曲である。第二次世界大戦中、母国ハンガリーを離れて米国に移住して困窮していた作曲者が晩年に (同僚音楽家の気遣いによる) 委嘱を受けて書いた作品のひとつ。民族性を感じさせる部分もあれば、夜の闇の恐ろしさを思わせる部分もあり、よく分からない狂乱もある。彼の弦楽四重奏曲もなかなかの難物だが、この曲はひとりで弾くだけに一層ハードル高く、めくるめく動きを表現するだけでも至難の業だろう。
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庄司の感性からすると恐らく、バルトークは好きな作曲家なのであろうと推測する。ひとつの例として、2013年にインバル指揮の東京都交響楽団でバルトークの 2番のコンチェルトを弾いたとき、後半の曲目、歌劇「青ひげ公の城」を聴きに客席に入ってきて、終演後は盛んに拍手しているのを見たことがある。バルトークの音楽の強い表現力が、庄司の情念と響き合う面があるのではないだろうか。今日の演奏では、まさに最初から最後まで強い集中力で完璧な音の乱舞が聴かれたが、第 2楽章では休符の部分で静止することなく、無音部分のリズムを全身で刻み、ほとんど足音が響き渡りそうなくらいであった。唖然とするテクニックはもちろんのこと、それを超える表現力に圧倒される 25分であった。

さて、休憩後に演奏されたのは、現存日本作曲家として最も高い国際的名声を持つ細川俊夫が、今回のツアーで世界初演されるべく、庄司のために書いた曲である。Extasis という題名は「脱自」と訳され、プログラムに記載された作曲者の言によると、自分の枠を超越すること、日常的存在そのものの枠を超出しようという欲求であるとのこと。細川は音楽の初源的な姿はシャーマニズムにあると考え、庄司の演奏に巫女の姿を見る。そしてこの曲において、「ヴァイオリンの音は、奏者 (巫女) によって空間へ、虚空へ向かって描かれ投げかけられる東洋のカリグラフィー (書) の線のような形態を持つ」。いわゆる現代音楽に縁のない方にとってはチンプンカンプンかもしれないが (笑)、大体昨今の芸術音楽の作曲者自身による解説には、このような題目が含まれている。だが、ここでの細川の説明はまだ分かりやすい方だ。この解説を読んでこの曲 (20分弱だったか?) を聴いた人は、なるほどと納得したことだろう。これは当日のリハーサルから。今回の演奏で細川は、聴衆の中で演奏を見守り、演奏後には舞台に上って挨拶していた。
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この曲にはヴァイオリンが朗々と歌う部分はほとんどない。演奏開始前、しばし精神集中を行った後に庄司が放ったのは、そっと入ってから急激に切り込むような鋭い音型。そして静止。まるで尺八のような、厳しくささくれだった音が続く。それから、ハチが飛ぶように無窮動風に動いたり、左手のピチカートだけで緊張感を持続したりして、まさにシャーマニズムを思わせる音楽が流れて行った。私は細川の音楽を、確か最初の作品集 CD であった「うつろひ」からあれこれ聴いてきたが、修業の地であるドイツ仕込みの重厚さを、柔軟な感性でうまく中和させて、漂うような作品を書いている彼には、武満徹とは異なる日本の新たな芸術音楽を創り出してほしいと思っている。今回のように、一流の演奏者からインスピレーションを受けて作曲することは、作曲家自身の引き出しを増やすことにもなろう。

そして最後に演奏されたのは、バッハのパルティータ第 2番。言わずとしれた、終曲があの有名なシャコンヌである、あの曲だ。ここで庄司は、それまで使用していた譜面台を脇にどけ、暗譜で堂々たる演奏を始めた。テンポは速めだが音量は大きく、常に深い呼吸を伴っている。やはりこれは人間的な血の通ったバッハである。楽章間の休みももどかしい様子で聴き手をグイグイと引っ張って行く演奏を聴いているうちに、胸が熱くなってきた。神に捧げる音楽ということではなく、あくまで人間の生きる力を表す音楽が、私を感動させたものと思う。また、これまでの曲目があった後でのクライマックスとしてのシャコンヌ演奏であったがゆえに、一層その思いが強かったのだろう。音楽のシャーマニズムには教義も作法もない。ただ、そこにいる人々に対して、音楽の力を伝えるだけだ。通常のピアノ伴奏つきリサイタルや協奏曲の演奏では、ソリストの息づかいが聞こえることはほとんどないが、小規模な会場での無伴奏リサイタルとあって、ここでは庄司の音楽への没入を示す強い呼吸音を何度か耳にすることができ、鳥肌立つ思いであった。

すべてを弾き終えた後の彼女の表情は、ちょっとこれまで見たことのないようなもの。いつものにこやかな笑いを浮かべてはいるものの、怒っているような、ほっとしたような、様々な表情が短い時間に彼女の顔を通り過ぎて行き、また、涙を流しているようにも見える瞬間もあった。そして、全身全霊での演奏に、さすがに今回はアンコールの演奏はないだろうと思ったら、やはりそうであった。終演後にはサイン会があったが、何やらそんなのんきな会に出るのが申し訳なく、私は足早に会場を後にしたのである。

実はこの日、この会場からほんの数 km しか離れていない横浜みなとみらいホールでは、この公演に 1時間先立つ 14時から、庄司の盟友であるピアノの小菅優と、また、同門であるヴァイオリンの樫本大進が、チェリストのクライディオ・ボルケスとのトリオでベートーヴェンのピアノ三重奏曲の演奏していた。これら若き俊英たちが、終演後、横浜で合流して互いの労をねぎらい合ってくつろぐ、などということもあってもよいだろう (それとも、スケジュール多忙で、すぐに移動なのだろうか?)。巫女の憑依現象から日常に戻るには、このような風景が必要であろう。お疲れ様です!!
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by yokohama7474 | 2016-05-30 00:09 | 音楽 (Live) | Comments(0)