ユーリ・テミルカーノフ指揮 サンクト・ペテルブルグ・フィル 2016年 6月 5日 文京シビックホール

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文京シビックホールは、後楽園の近く、春日駅の上にあるビルの中に入っているのだが、このビル、何を隠そう、文京区役所も入っているのだ。今でこそ東京都の南端の川沿いに住んでいるとは言え、私もかつては文京区民。このあたりは庭のようなものなのである。このホールでは、国内外の素晴らしい演奏家のコンサートが時折開かれるが、今回はまたテミルカーノフとその手兵、サンクト・ペテルブルグ・フィルの演奏会。このコンビは確か前回、2014年の来日でもこのホールでマーラーの「復活」を演奏したはずで、その曲目は日本ツアーで唯一このホールで演奏されたと記憶する (残念ながら聴けなかったが)。さて今回のコンサートも、それぞれの曲はほかのホールでも演奏されているが、この組み合わせはツアー唯一のもの。こんな曲目だ。
 リムスキー・コルサコフ : 交響組曲「シェエラザード」作品35
 チャイコフスキー : 交響曲第 6番ロ短調作品74「悲愴」

いずれも、コンサートのメインで演奏されるべき、ロシア音楽の、いや、西洋音楽の傑作を並べた贅沢な演奏会。この 2曲に共通するのは、いずれも弱音で終わることだ。今回のサンクト・ペテルブルグ・フィルの日本ツアーは今日が最終日。弱音で終わるにしても、オケとしても気合の入るところだろう。それから面白いのは、つい前日ヤネック・ネゼ = セガンとフィラデルフィア管弦楽団の素晴らしい演奏で、「シェエラザード」を聴いたばかり。あちらが米国の真に国際的なオーケストラの演奏なら、こちらはご当地ロシアのオーケストラによる演奏である。つい先ごろ、6月 3日の記事でもこのコンビの演奏を採り上げたが、今年 78歳になる老巨匠が、ソ連崩壊直前の 1988年から 30年近く天塩にかけてきたオケの真価を、再度ここで聴くことになるだろう。
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予想通りと言うべきか、「シェエラザード」はニュアンス満点の名演。ロシアのオケとは言え、このサンクト・ペテルブルグ・フィルだけは昔から別格。いわゆるロシア的な泥臭さが皆無な演奏である。いつもながら安心して聴くことのできるテミルカーノフの演奏に、満員の聴衆も圧倒されっぱなしだ。細部がどうのこうのと語る気にはなれないのが、この演奏の一貫性を表していよう。もちろん、ロシア的なイメージの強烈な音を聴くこともできたが、その雰囲気は、これまでこの国が輩出して来た多くの指揮者とは、テミルカーノフはちょっと違う。大音響で吹っ飛んでしまいがちな抒情的な部分を、彼はいつも大変丁寧に描き出すのだ。その点では、6月 2日に聴いたこのコンビによるショスタコーヴィチ 7番の演奏とも通じ合う部分がある。ある意味での完成形と言ってもよいと思う。終曲の船が難破するシーンでは、通常よりもティンパニが派手に活躍していたが、さっと荒波が引いて、最後の静かなヴァイオリン・ソロに移行する際の潔さ。こういう音楽ができる人は、あらゆる人生の諸相を見てきたにもかかわらず淡々とした、大変な人格者に違いない (ちょっと思い込みが過ぎるかな? 笑)。前日同じ曲を指揮したネゼ = セガンと同様、テミルカーノフも途中で汗を拭いたのだが、そのハンカチはここでは内ポケットにしまわれることなく、軽く畳んで指揮台に置かれた。このあたり、ネゼ = セガンの倍近く生きているテミルカーノフの円熟が巧まずして表れていた (?)。

そして、チャイコフスキーの天下の名曲、「悲愴」である。ここで渦巻く大音響は、常に万感の思い (優しさ、憧れ、情熱、絶望、克己心、諦念・・・) とともにある。第 1楽章前半の緩やかな流れは、来るべき悲劇を予感して間然するところがない。平明でありながら、なんと深い音楽であることか。作曲者自身、自らの音楽を同じ国の後輩音楽家たちがかくも見事に音にしようとは考えなかったのではないか。この肖像、髭を除けばなんとなくテミルカーノフの顔に似ていないか。ただ、現在 77歳のテミルカーノフに対し、チャイコフスキーは 53歳の若さで没している。とてもそんな年には見えないが・・・。
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ここ東京では、「悲愴」の第 3楽章の盛り上がりのあとでも、場違いな拍手が起こることはない。曲をよく知っているのだ (あ、当たり前か 笑)。そして死の淵をのぞき込むような終楽章。なんら奇をてらったことはしないが、一音一音の、魂をすりつぶすような鳴り方がすごい。これぞ音楽の力であろう。ただ、この指揮者の場合、感傷が皆無であるのがまた素晴らしい。激情的音楽を激情的に演奏するのもよいのだが、このような小さな身振りでごく自然な流れを音楽から引き出す指揮はなかなかないだろう。改めて音楽の説得力を実感する。そしてまるで心臓が鼓動を停めるように全曲が終わると、指揮者はごく短い時間で彼岸から現生に戻ってくる。だが、演奏後に振り返ったテミルカーノフの表情は暗い。客席からの喝采に会釈しながらも、終始何か人生を達観したような表情をしていた。私は今聴いたばかりの「悲愴」を心の中で反芻する。淡々とした中に万感の思いを込めた演奏に、涙こそ出ないものの、胸が熱くなるのを禁じ得ない。オケの様子を見ていると、何かアンコールを用意していたように見えたが、テミルカーノフは数度舞台に現れただけで早めにオケを解散させ、結局アンコールはなかった。それから彼は二回、単独で舞台に呼び戻されたが、その表情は哲学者のように見えたものだ。

コンサートを聴き終えて外に出ると、空はまだ明るく、後楽園遊園地の観覧車やジェットコースターと青空の対比がシュールである。
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人間の営みには悲劇がついて回る。だがチャイコフスキーが生涯の最後に描き出した世界では、その悲劇すら浄化されるように思われる。複雑に絡み合う観覧車とジェットコースターを見上げながら私は、「悲愴」の最終楽章を口ずさんでいた。ちょっと寂しいような爽やかなような。テミルカーノフの次回の来日を心待ちにしよう。

by yokohama7474 | 2016-06-05 23:13 | 音楽 (Live) | Comments(0)