ギドン・クレーメル (ヴァイオリン) & リュカ・ドゥバルグ (ピアノ) デュオ・リサイタル 2016年 6月 6日 サントリーホール

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人は生きていると、ときに「おっと危ない」という思いをするものである。それをヒヤリ・ハットなどと称してもよいかもしれないが、・・・あっ、あれっ。この書き出しは前回の記事と同じではないか。いや、確かにそうなのである。今回もヒヤリ・ハット。と言うのも、誰もが認める世界最高のヴァイオリニストのひとり、ギドン・クレーメルが東京でコンサートを開くのに、その直前までそれに気づいていなかったのである。危ないところであった。いや正確には、チラシは見ていたのだが、いつ行われるのかまで記憶していなかった。つい先週、この日はコンサートに行く時間がありそうだと気づき、調べてみて初めて、このコンサートの開催日を知り、直前にチケットを購入した。クレーメルのコンサートのチケットを直前に購入? そう、直前でもまだ結構チケットは残っていた。しかも B席で値段は数千円と、このクラスの演奏家にしては破格に安い。一体どういうことなのか。

通いなれたサントリーホール。当日その入り口から中に入ると、何やら通常のコンサートに比べて人影が少ない。まばらと言ってもよいくらいだ。おっかしいなぁ。ギドン・クレーメルだよね・・・。よく見たらキドン・グレーメルとか、グドン・キレメールとか、違う名前の人じゃないよね・・・。上のポスターを何度眺めても、その写真も人名表記も、我々がよく知っている、あのラトヴィア出身の巨匠クレーメルだ。だが、そこに見慣れない名前が併記されている。リュカ・ドゥバルグ??? 知らないなぁ。それもそのはず、未だ国際舞台の注目を集めて 1年程度の若手なのである。上のポスターに、「チャイコフスキー国際コンクールで話題沸騰」とあるが、私は認識していない。そこで、手元のプログラムで経歴を見てみた。こんな髭を生やしているが、1990年生まれだから今年まだ 26歳!!
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フランス人で、なんでも、11歳からピアノを習い始めたが一旦中断。その後理学と文学の学士号を取得、それからまた、プロのピアニストになるべく 20歳のときに勉強を再開したという。フランスのコンクールで優勝したあと、昨年チャイコフスキー・コンクールに出場し、見事 4位入賞。だが、審査員であったボリス・ベレゾフスキーやデニス・マツーエフというピアニストたちがその順位は低すぎると反論。特別に「モスクワ音楽批評家協会賞」をただ1人受賞したのだ。そしてコンクールの審査委員長であったワレリー・ゲルギエフのお眼鏡にとまり、マリインスキー劇場管弦楽団のツアーのソリストに指名されたとのこと。既に SONY Classical から録音も出ている。実はこのときのチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門優勝者、ドミトリー・マスレエフは既に昨年 8月、そのゲルギエフと PMF オーケストラとラフマニノフの第 2コンチェルトを日本で弾いたのを私も聴いており、8月 5日付の記事で採り上げた (それから、あとで気付いたことには、彼もこのあとすぐ、6/10 (金) から東京でヒサイタルを開くのだ)。演奏家の活動において、コンクールはひとつの通過点。いかなる音楽によって聴衆に訴えかけるかによって、その後の経歴は大いに変わってくるわけである。その意味では、若い演奏家をデビューから聴くことができるのは大いなる楽しみである。

というわけでこの演奏会は、ヴァイオリン界の巨星とピアノ界の新星の共演という素晴らしい機会なのであるが、客席に入ってみて改めて愕然。こんなにガラガラのサントリーホールを見たのは初めてではないか。せいぜい半分程度の入りである。多分その理由のひとつは曲目であろう。
 ヴァインベルク : 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第 3番作品126
 メトネル : ピアノ・ソナタ第 1番ヘ短調作品5
 ショスタコーヴィチ : ヴァイオリン・ソナタ ト長調作品134

前半にクレーメルのヴァイオリンとドゥバルグのピアノ、それぞれのソロがあって、後半にデュオという構成だ。だがそれにしても、ショスタコーヴィチはともかく、ヴァインベルクとメトネルは、一般の音楽ファンにはほとんどなじみのない名前であろう。かく言う私も、後者は超絶マニアックピアニスト、マルク=アンドレ・アムランの録音を知っているが、前者は、「バグパイプ吹きのシュワンダ」というオペラ (その中のポルカを大昔カラヤンが録音していた) を書いたヴァインベルガー (1898 - 1967 チェコ) と混同していた。この曲目は渋すぎる。

まず、ミエチスワフ (ロシア名モイセイ)・ヴァインベルク (1919 - 1996) はポーランド人だが、ユダヤ系であったため、1939年のナチスのポーランド侵攻でソ連に亡命した作曲家。ソ連から亡命した人は沢山いるが、ソ連に亡命した人とは初めて聞いた。
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ショスタコーヴィチとも親交を結び、ソ連で活躍した。多作家で、交響曲は実に 26曲、弦楽四重奏曲は 17曲も書いているが、スターリン政権下で非難され、1953年には逮捕されている。幸いスターリンの死によって解放されたらしいが、まさに 20世紀の歴史に翻弄された作曲家である。調べてみると、ロシアの演奏家を中心に演奏・録音された作品も数多い。このクレーメルも、今回演奏した無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 3番を含むアルバムを発表している。
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今回、なんとか CD で予習してから実演に臨むだけの時間はあったのだが、生演奏も録音に負けず劣らず素晴らしいのがクレーメルの常だ。彼のヴァイオリンは、つややかに朗々と歌い上げるものでは全くなく、むしろギリギリと耳に切り込むような鋭利な音で鳴る。もちろん、その気になれば (?) キレイな音も出るのだが、彼の場合、キレイな音はほかのヴァイオリニストに任せておけとばかりに我が道を行っているのだ。そのことはレパートリーにも関係していて、私とても、彼がチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾くのを実演で聴いたことがないわけではないが、時に自ら結成した若いメンバーからなる室内オケ、クレメラータ・バルティカを率いて様々な新しいレパートリーを開拓してくれることこそが彼の真骨頂であろう。このヴァインベルクの曲はそのような彼にぴったりのレパートリーだ。
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超前衛的とは言わないが、充分に刺激的な音に満ちた 25分の曲である。クレーメルの CD の解説には、曲をいくつかの部分に分けて、父の肖像や母の肖像といった解釈がクレーメル自身によって紹介されている。なるほど、作曲者自身の解説ではないものの、そう思って聴くと聴きやすくなるのは事実。いずれにせよ、たとえささくれ立った音であっても、その強い表現意欲によって耳に不快感を与えないクレーメルの演奏は、聴き慣れない曲に注意深く耳を傾けさせるに充分なものだ。身を乗り出して聴き入ってしまった。

2曲目にはピアノのドゥバルグが登場。いわゆるステージ衣装ではなく、普通のスラックスにジャケットといういで立ちだ。この人、ピアノをやめて楽器に触れていなかった期間には、インターネットでピアノ音楽の膨大なレパートリーのあらゆる演奏を検索して聴きまくったとのことで、ピアノの練習においては、鍵盤の前で長い時間を過ごすことよりも、楽譜を読み込んで寝食をともにすることが大事だと唱えている由。これは、幼時からの厳しい鍛錬によってのみピアノは上達すると考える教育者にとっては驚愕の主張であろう。彼がここで弾くのは、ロシアのニコライ・メトネル (1880 - 1951) のピアノ・ソナタ第 1番。
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主としてピアノ作品を残した人で、7歳年上のラフマニノフと親交があり、ロマン的な作風も共通していた。今回演奏されたピアノ・ソナタ第 1番は、22-23歳頃の若書きだが、演奏時間 30分。ラフマニノフよりもさらにダイナミックなロマン性を感じる。ドゥバルグの演奏は誠に堂々としたもので、過度に自己に没入することなく、ある種の計算をもってロマン性を雄大に描き出していたと思う。いかにも難曲であるが、ドゥバルグは技術的にも申し分なく、そのユニークなキャリアが活きれば、本当にピアノ界の革命児になる可能性もあるかもしれない。一方、さらに鋭敏なタッチで繊細さを聴かせるような箇所もあればよかったと思う。それはまた違う曲で聴くことができるだろうか (翌日のコンサートには、ラヴェルの「夜のガスパール」が含まれていて、それはどんな演奏だったか興味がある。チャイコフスキー・コンクールでも、メトネルのソナタともども演奏したらしい)。

後半のショスタコーヴィチのヴァイオリン・ソナタは、1968年 (交響曲で言えば13番と 14番の間の時期) に、オイストラフ 60歳を記念して書かれた晩年の作。60歳記念だから、日本風に言えば還暦であるが、曲の中身は祝典的要素は全くなく、この作曲者らしく、陰鬱な雰囲気と諧謔に満ちたもの。クレーメルにはまたまたぴったりの曲なのである (笑)。いや実際、死神が宙を漂ったり、またダンスを踊ったり、そして生者を憎しみに満ちたまなざしでにらみつけたりするようなこの曲には、情熱的な演奏よりも冷厳な演奏の方が凄みがあってよい。聴いていてあまり楽しい気分にはならないが (笑)、やはり大粒の音で伴奏するピアノのドゥバルグともども、確かに曲のひとつの側面をよく表現していた。

そんなわけで、ガラガラのサントリーホールは、心ある一部の熱心な聴衆による拍手に包まれ、その拍手に応えてアンコールが演奏された。ピアノがポロポロと弾き出したとき、ラフマニノフのピアノ協奏曲第 2番の第 2楽章のテーマだなと思うと、ヴァイオリンが本当にその曲の弦楽器パートを弾き出してびっくり!! 結局、第 2楽章の一部を刈り込んでまとめた曲で、例によって感傷的ではないのにどこか心に響くクレーメルの線の細いヴァイオリンに、例えて言えば透明なパックに入った水を地面に落とすような (ちょっと分かりにくい比喩か??? 笑) 鮮やかで独特の抒情性あるドゥバルグのピアノの組み合わせが、これまで聴いたことのない世界を現出した。帰りにホール出口で確かめると、これはなんとクライスラーの編曲によるもの。へぇー、ヴァイオリンのクライスラー (オーストリア人) と、ピアノのラフマニノフ (ロシア人) とは、イメージではなかなか結びつかないが、調べてみると、年はクライスラーが 2歳年上の 1873年生まれと近く、第一次大戦後、この二人はマネージャーが同じであったことから親交が生まれ、グリークのヴァイオリン・ソナタ 3番などの録音を残した由。はぁー、全く知りませんでした。

誰もが知る名曲ももちろんよいが、このような様々な新発見を可能にしてくれる刺激的な演奏会も、本当に面白いものだ。今回行けなかった方は是非次回、お時間を見つけて行かれてみては。
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Commented by とものり at 2016-06-08 21:05 x
私はこの前日6/5(日)に行われた、兵庫県立芸術文化センターのコンサートに行ってきました。曲目は前半がヴァインベルクとショスタコで、後半がラヴェルとフランクのヴァイオリン・ソナタでした。東京はガラガラだったんですね。こちらは約2000人収容の大ホールで行われたんですが、やや空席が目立つものの前の方は満員で、1600~1700人といったところでしょうか。まあ、こちらはラヴェルとフランクという強力なプログラムがあったからでしょうが、それがなければ1000人割り込んでいたかもしれません。そして肝心の演奏なんですが、私の語彙が乏しすぎて適切な感想が書けません。私の職場の同僚がクラ好きなんですが、クレーメルは以前聴いた時にあまりピン!と来なかったから今回のコンサートは止めた、と言っていて私も同様の感触を持ちました。もちろん演奏それ自体は非の打ちどころのない、超一流のものであることには疑いようのない事実なのですが、ヴァイオリンがあまりにも鋭い、というか冷たすぎてフランクなんかはもうちょっとロマンがあってもいいんじゃないの、と思ってしまいました。そして、クレーメルが我が道を行く、で淡々とヴァイオリンを弾いているのに対し、ドゥバルクがクレーメルの方をちらちら見ながら一生懸命ピアノを弾いていたのが何だかおかしい、というかちょっとかわいかったです。最後はやんやの拍手大喝采で、いつまでたっても拍手が終わらないので、しまいにはセンター側がホールの照明を全部点けてしまったほどでした。ただ、2F左サイドのバルコニー席の一番前で¥4500だったので、満足度はかなり高かったです。それではこの辺で失礼いたします。ありがとうございました。
Commented by yokohama7474 at 2016-06-08 23:33
> とものりさん
詳細なコメントありがとうございます。このように、同じ演奏家の別の場所での演奏の雰囲気を知ることは、大変に興味深いです。東京でも、この 6/7 (火) には、前半がラヴェルのソナタと、ドゥバルグのソロで「夜のガスパール」、後半がイザイの無伴奏ソナタ 5番とフランクのソナタだったので、そちらの方がきっと入りはよかったことでしょう。確かにクレーメルとフランクはちょっとイメージが合いませんが、でもきっと曲の怪しさはよく表現されたのでは、と想像します。また是非お立ち寄り下さい。
Commented by とものり at 2016-06-19 18:03 x
私の拙文にお返事を頂き、まことに恐縮です。読み返してみても小学生の感想文のようで恥ずかしいです。ところで、東京のプログラムではドゥバルグのソロがあったんですね。西宮のプログラムでは、やはり圧倒的な知名度の関係かクレーメルが主役(まあ当然なんですが)だったので、小曲1曲でもいいので何かソロを聴きたかったです。余談ですが、ホールの入り口手前のところでドゥバルグのCDの直売セールをやっていて、売り子のお兄さんが不機嫌になるくらいにCDが飛ぶように売れていたので、私も含めてそう思う人は多かったのではないでしょうか。次回、もしドゥバルグのソロコンサートがあれば絶対行きます!!その前に同僚の友人に借りたドゥバルグのCD聴かなきゃ。(おいおい・・・まだ聴いてないのかよ。)ではさようなら。
Commented by yokohama7474 at 2016-06-19 23:46
> とものりさん
再度のコメントありがとうございます。いえいえ、実際に会場に足を運ばれた方ならではの興味深いコメントを頂けて、嬉しかったです。デュバルグのソロは、きっとそのうち実現すると思いますよ。楽しみに待ちたいと思います。またお立ち寄り下さい。
by yokohama7474 | 2016-06-07 23:48 | 音楽 (Live) | Comments(4)