埼玉県 行田市 その 1 埼玉 (さきたま) 古墳群

古墳と言えば関西、特に有名な仁徳天皇陵などのある大阪南部や、奈良の飛鳥、桜井あたりに集中しているとお考えの方もいるかもしれない。だが実際のところ古墳は、北は東北から南は九州まで広く日本全体に分布しており、貴重な出土品も思わぬところから出ていることが多いのである。例えば、1978年に文字が発見され、その中に出てくる「獲加多支鹵大王 (ワカタケル大王)」が 5世紀の雄略天皇であろうとされて大きな話題となった、あの稲荷山古墳出土の鉄剣。
e0345320_22424843.jpg
この写真は一本の剣の表裏であるが、この古墳からは、この剣のほかにも多くの出土品があり、すべてまとめて国宝に指定されている。この剣の銘によって、雄略天皇が歴史上最初に実在が証明される天皇であるとも言われているわけで、この剣の価値は計り知れない。ではこの稲荷山古墳、何県に所在するのだろう。答えは埼玉県。知らない方にとっては意外なことではないだろうか。さらに正確には、埼玉県北部、群馬県との県境に近い、行田市 (ぎょうだし) というところである。
e0345320_23025109.png
今般、ふとしたことでこの行田市に行ってみようということになった。きっかけは・・・実はちょっと恥ずかしいのだが、JAF が毎月送ってくる雑誌に紹介されていて、それを見た家人が、近くにある忍城 (おしじょう) の跡に一度行ってみたことがあって大変興味深かったし、ちょうどその忍城が、大河ドラマ「真田丸」で石田三成が水攻めをしても落ちない城として登場しているところなので、ブログネタとしてはタイムリーだと強調する。うーん。大河ドラマは見たり見なかったりであまり入れ込んでいないが、古墳に城と来れば、あと神社仏閣が揃えば小旅行の動機 (いや、そんなものなくてもよいのだが・・・笑) には完璧だなと思い、調べてみたところ、隣の熊谷市には国宝建造物もあるし、この行田市にも、通常は非公開とはいえ、いろいろ文化財がある由。そんなわけで、我が家から東京都と埼玉県を縦断し、一路行田市に向かうことになったのである。

朝早めに自宅を出たので、車で 2時間もかからずに到着したのは、「埼玉 (さきたま) 古墳群」。すぐに分かる通り、ここは埼玉県という県名の発祥の地となった。つまり、埼玉県人にとっては聖地のようなものなのだろう(?)。実際この古墳群のエリアはかなり広大であって、「さきたま風土記の丘」という史跡公園として整備されている地域に、前方後円墳 8、円墳 1の合計 9基の古墳が存在していて、そのうちのひとつが、上記の鉄剣が出土した稲荷山古墳なのである。駐車場も完備していて、これから始まる古墳巡りに胸もワクワクだ。
e0345320_23170294.jpg
まず、駐車場のすぐ横にある天祥寺というお寺に詣でる。ここは忍藩十万石の最後の藩主であった松平家 (徳川家康の外孫で、その養子となった松平忠明を祖とする奥平松平家) の菩提寺。由緒正しい藩主を頂いて隆盛を誇ったことであろうが、明治以降衰退したのを昭和・平成になって再興、整備したものらしい。第 9代、11代、12代が並んで眠っている。
e0345320_23260422.jpg
e0345320_23275776.jpg
ここで既に実感するのだが、忍藩、忍城とこの埼玉古墳群とは切っても切れない関係がある。古墳が古代の王族の墓であったことは古来明白であったであろうし、地元の人たちもそこに神秘的な力を感じていたのではないだろうか。さて、これが埼玉古墳群。真ん中上の方に円墳があり、周りに大小の前方後円墳があるのがお分かり頂けるだろうか。
e0345320_23312490.jpg
歩き出すとすぐに見えてくるのが、小さめの愛宕山古墳。堀には水はなく、草が生えていて、墳丘には木が生えているが、ちゃんとした前方後円墳である。
e0345320_23331112.jpg
e0345320_23332015.jpg
さて、ここから道路を渡って歩いて行くと、さきたま史跡の博物館がある。ここにお目当ての稲荷山古墳からの出土品の本物が展示されているのだ。実際、古墳から貴重なものが発掘されても、保管は大規模な博物館など、違うところに運ばれてしまってなされることも多い。だが、やはり古代に思いを馳せるには、出土したその場所で見ることができればありがたい。まさにここは、そのようなありがたい場所なのである。

さて、入ってすぐのところにあれこれパネルが展示してあって興味深いが、これが目に留まった。
e0345320_23385744.jpg
これは関東平野の地図で、赤い点が古墳のあるところ。関東にもこれだけ多くの古墳が存在していることがよく分かる。しかも明らかなのは、ほぼすべて湖畔か川沿いである。実は、我が家が面している多摩川の下流沿いにも古墳があるのだが、規模はさほど大きくない。それに引き替え、利根川を上って行ったこの行田市のあたりには、この埼玉古墳群以外にも実に多くの古墳が存在しているのだ。やはり、外敵の攻撃を考えると川の下流よりも上流が望ましく、しかも渓谷ではなく平地の方が暮らしやすいに決まっている。それがこの地域に古墳が多い理由だと勝手に考えているのだが、いかがなものだろうか。ところで、このブログは何気なく川沿いのラプソディなどと呑気に名乗っているようであるが、これでお分かりであろう。川沿いの地こそは命の生まれ来る源であり、他の世界との境界である。境界線には未知のものが満ち溢れていて、世界四大文明の例を見るまでもなく、その未知のものと対峙し、それを理解し、制御することで、文明が生まれるのである。何気ないようで、実は深い意味を持つのがこのブログのタイトルなのだ。・・・ということにして、先に進もう。
e0345320_23422269.jpg
ここには江戸時代に描かれた忍城と古墳の絵も展示されている。やはり円墳が小山のようで目立つせいだろうか、丸墓山古墳がどちらにも描かれている。この古墳については後述する。
e0345320_23453582.jpg
e0345320_23463018.jpg
そして昭和 40年代にバスで乗り付けた人たちの写真。ところどころ家も建っているし、なんとものどかな雰囲気だ。
e0345320_23481312.jpg
さてその奥に国宝展示室がある。居並ぶ展示物が国宝、国宝、また国宝なのだ。まずなんといってもお目当ての鉄剣だ。展示室の中央に立てられており、刻まれた銘もはっきり見ることができる。ところでこの展示室、フラッシュをたいたり接写することさえしなければ撮影自由なのである。のべつ見学の小学生たちがいて、少々賑やかであったが・・・。もちろん、歴史の遺物に生で触れることは子供たちにとって大いに意味のあることなので、ここは大目に見ましょう。
e0345320_23553432.jpg
e0345320_23551533.jpg
ここを訪れるに備えて、「遺跡を学ぶ」という 100冊シリーズの第 16巻、「鉄剣銘 115文字の謎に迫る」という本を事前に買ってみたが、読み始めたばかりで、ウンチクを垂れるにはまだ早い。だが私の理解では、この銘には、自らの祖先の名前を列挙の上、獲加多支鹵大王 (ワカタケル大王) がシキの宮にいるときに自分はそれを補佐していたので、この百錬の利刀を作らしめて、そのことを記すという趣旨のことが書いてある。この剣の発掘自体は 1968年であるが、剣を磨いてみるとそこからこの 115文字の銘が現れたのは 10年後の 1978年。当時中学生であった私は、連日テレビや新聞が大発見大発見と大騒ぎであったのを、よく覚えている。古墳時代の刀剣で銘文が刻まれているものは日本で 7点。うち国内で作られたものは 5点。その中で、471年という判明する制作年はこれが最古。115という文字数も最大である。非常に貴重なものであるのだ。この古墳からは 2基の埋葬施設が見つかったが、一方は盗掘されていたものの、もう一方は、礫槨 (れきかく) と呼ばれる河原石の上に棺を置いたものであるが、こちらは未盗掘であったとのこと。礫槨は当時、稲荷神社の真下にあったので、さすがの悪人たちも祟りを恐れたのでしょうかね (笑)。これが想定復元図。但し棺も遺体も腐って消滅していたとのこと。
e0345320_00031715.jpg
その他の展示品も興味尽きないのでご紹介するが、展示ケースに光が反射してうまく撮影できていない。ご興味おありの方は、是非現地でご対面を。圧倒的な数の国宝群です。上から、太刀、帯の金具、馬の尻にぶら下げていた金具、神獣鏡、斧やカンナなどの工具。
e0345320_00184563.jpg
e0345320_00191688.jpg
e0345320_00210163.jpg
e0345320_00214666.jpg
e0345320_00231558.jpg
中でも神獣鏡には興味深い事実がある。それは、この鏡と同じ型で作ったと見られる鏡が、群馬、千葉、三重、福岡、宮崎で出土していること。ヤマト王権が全国を支配する過程で各地の豪族に配布したものかと見られているらしい。まさに、今に続く日本という国の成立過程でのことだろう。ワクワクする古代史の生き証人である。
e0345320_00270102.jpg
さて、博物館を出てから残りの古墳をぐるっと一周した。ここではその中で主要なものをご紹介する。まずこれは、奥の山古墳。凹凸がよく分かる。
e0345320_00302334.jpg
e0345320_00312361.jpg
これは鉄砲山古墳。この場所が忍藩の砲術練習場になったことから名付けられた由。ちょうど今発掘作業中であった。埼玉古墳群には未だ発掘調査が行われていないものもあるのだ。しかし、昭和初期の石碑が立っているところからも、古くから人々に親しまれた場所ではあったのだろう。
e0345320_00341673.jpg
e0345320_00343938.jpg
次は極めてユニークな将軍塚古墳。このように再現された円筒埴輪が並べられている。実はここ、墳丘の中に入ることができるのだ。
e0345320_00370675.jpg
e0345320_00372483.jpg
e0345320_00384065.jpg
入ってみてびっくり。石室内の様子が再現されている。実はこの古墳の発掘は 1894年と早く、遺物は東京国立博物館、東京大学にも分散して保管されているとのこと。いやー、それにしても、雰囲気満点ではないですか。こういう展示を見ることができる古墳は全国でも珍しい。
e0345320_00403723.jpg
e0345320_00405300.jpg
そして、いよいよあの国宝ザクザクの稲荷山古墳に行ってみると、本来墳丘に登ることができるようになっているのに、例の遺品の出た礫槨の保護のために整備工事中とのこと。残念ですが仕方ありませんな。
e0345320_00425412.jpg
e0345320_00434284.jpg
そうして最後に辿り着いたのが、丸墓山古墳。埼玉古墳群で唯一の円墳で、上記の通り、江戸時代から親しまれていた場所である。これは横から見たところ。
e0345320_00462013.jpg
実はこの円墳の正面に続く短い桜並木があるのだが、そこは石田堤と呼びならわされている。これは、1590年、秀吉の命を受けて忍城を水攻めにした石田三成が、行田から熊谷にかけて実に 28kmの長さに亘って築いた堤防の一部なのである。
e0345320_00475541.jpg
そしてこの丸墓古墳、その水攻めの際に三成が陣を敷いた場所なのだ。ちょっと登ってみよう。
e0345320_00520221.jpg
そして登ってみると頂上部分にはそれなりの広さがあり、確かに眺望がよい。先刻登れなかった稲荷山古墳も見下ろすことができる。
e0345320_00551065.jpg
e0345320_00555007.jpg
それから、忍城の方を見てみる。おっ、なるほど、現在では建物が多くてちょっと見えにくいものの (小さい赤い矢印)、忍城の三階櫓 (古いものではなく、現代の復元) が見えるではないか!! なるほど三成が陣を置くには最適の場所である。
e0345320_01012658.jpg
少し分かりにくいため、あらぬ方を見やって忍城と勘違いしている家人のような早とちりな人も沢山いるのであろう。その場にちゃんと写真入り説明板があるので、ご心配なく。もっとも「忍城が見える!!」と感動することこそに意味があるのであって、たとえ勘違いであらぬ方を見ても、まあよいではないかと、鷹揚な気分にもなろうというものだ (笑)。
e0345320_01040298.jpg
と、このように見どころ満載の埼玉古墳群。高速道路からちょっと遠いのが若干不便ではあるものの、歴史好きなら訪れる価値は大いにある。帰りがけにはこのようなスローガン (?) も見かけた。是非是非がんばって頂きたい。
e0345320_01062742.jpg
さて、行田市探訪、まだまだ続きます。

by yokohama7474 | 2016-06-26 01:09 | 美術・旅行 | Comments(0)
<< 埼玉県 行田市 その 2 八幡... シルヴァン・カンブルラン指揮 ... >>