埼玉県 行田市 その 2 八幡山古墳、成就院、忍 (おし) 城址、水城公園

さて前回の記事でご紹介した埼玉 (さきたま) 古墳群をあとにして、ごく近いところ (1.5km くらい) にある、もうひとつの珍しい古墳を次に訪れることとした。その名は八幡山古墳。「関東の石舞台」とも呼ばれている。次の写真は私が撮ったものではなく、行田市教育委員会のサイトに掲載されているもの。このような真横のアングルまで入って行くことは通常できないが、確かに、飛鳥の石舞台古墳さながら、石室の石組が露出しているのがよく分かる。
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この古墳、土日祝日に限って石室内を公開しているので、古墳好き (?) の方には是非お見逃しなくと申し上げたい。ちょっとほかにはないような経験ができるのだ。これが石室への入り口。
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中に入ると八幡神を祀る石の祠があり、何やら神秘的な雰囲気。これが名前の由来らしい。上からのしかかる石の大きさを実感しながら、さらに進んで行く。
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そしてついに玄室の中へ。巨大な石と石の隙間から日が差していて、私は思わず、大のお気に入りである「レイダース・マーチ」を口ずさんでいる自分に気が付く (笑)。
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もっともこれらの石がすべて古代のものというわけではないらしく、崩れたものを復元したものが大部分であるらしい。さらに言うと、1935年までは墳丘のある普通の古墳であったものが、干拓工事のために崩されたことによって石室がむき出しになったものとのこと。ただ、その際に発掘調査は行われていて、年代は 7世紀前半から中ごろのものとされている。副葬品の中でも漆塗木棺片は、通常は摂津・河内・大和等の天皇・皇子ら高貴な人や政治的に高位の人の墓から出るものであり、墓の規模に鑑みても、中央からやってきた権力者が葬られていると思われる由。いやー、こんなものが埼玉の住宅街の中にデーンと構えているとは、本当に驚きだ。

次に向かったのは、そこから数 km の成就院というお寺。ここには、埼玉県に 3基しかないという江戸時代の三重塔のうちのひとつがあるとのこと。大変こじんまりとしたお寺だが、なんともよい佇まいで、地元の人たちの深い信仰を集めて来たという雰囲気がある。お目当ての三重塔は、享保 14 (1729) 年に建立された、高さ 11m 程度の大変かわいらしいサイズだ。埼玉県指定の文化財になっている。
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地元の大工によるもので、寺の解説には、「とにかく宮大工なら考えもつかない手法を用いて、それなりにうまく消化して、一つのまとまった形態に仕上げている」とある。建築方法の詳細はよく分からないが、この銅の屋根といい、第一層の扉が地面に達しているところといい、なんとなく手作り感を感じることは確かである。見ていると心が穏やかな気分になってくる。

さて最後に向かったのは、いよいよ忍城 (おしじょう) である。前回の記事にも書いたが、ちょうど先週、6/19 (日) 放送の大河ドラマ「真田丸」で、秀吉の小田原攻めに屈した北条氏政が描かれていたが、会話の中で、小田原城が落ちても、その支城であったこの忍城は落ちなかったということが話題になっていた。秀吉の命でこの城を攻め、ついに攻めきれなかったのは、知将と言われたあの石田三成。この攻防によって忍城は、難攻不落の天下の名城として名を馳せたという。当時のものは何も残っておらず、復元された建物ばかりではあるが、やはり現地を訪れると、イメージは湧こうというもの。
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尚、三成の水攻めに耐えた逸話は、映画にもなった和田竜の小説「のぼうの城」でも描かれている。現地に行くと、今まさに放送中の「真田丸」でひとつのエピソードとして出てくることよりも、当然既に評価の確立した「のぼうの城」を舞台であることの方を前面に立てて、観光アピールされている。
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この城はもともと、利根川と荒川に挟まれた扇状地に点在する沼地と自然堤防を生かした構造となっていて、水に浮かんでいるようであったので、「浮き城」とも呼ばれた。北条滅亡時に開城した後は、家康の四男、松平忠吉が藩主に任命され、のちに阿部氏を経て、桑名から奥平松平氏が移ってきて、松平統治下で明治維新を迎える。江戸時代には江戸近郊の城は天守閣を作ることが許されず、代わりとして三重櫓が作られた。その三重櫓は 1702年に完成し、明治まで残っていたが、競売にかけられ、かつての面影を失ってしまった。現在の建物は 1988年に再建されたもので、中は行田市郷土博物館となっている。入り口はこんなに近代的だ。
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また、寺のような鐘楼も建っている。当初の場所とは違うところに復元されたらしいが、雰囲気はなかなかよいと思いますよ。松平氏が桑名から運んで来た古い鐘も伝わっているが、それは博物館に保管されていて、レプリカがここに懸かっている。
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それから、ここへ来れば必ず足を延ばしたいのが、この城から市役所を越えて少し行ったところにある水城公園だ。ここは往時の外堀のあとで、忍沼 (おしぬま) とも呼ばれていたらしい。16世紀の初めにここを訪れた連歌師宗長は、「水郷なり」と描写しているらしいが、その雰囲気を偲ぶことができる場所だ。今では市民の憩いの場となっていて、釣り糸を垂れる人が多い。水面が高く、石の橋の感じは、なにやら中国風だ。
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そしてこの公園は、道路を挟んだ反対側にも続いていて、人影はほとんどないが、そこにはいろいろなモニュメントがあるのだ。うーむ、今は使われていないが、この西洋風の噴水はなんだろう。「大澤龍二郎」という名前があって、作者名かと思いきや、調べてみると行田市出身の実業家の方 (1887 - 1974) だ。寄付をしたのだろうか。
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それから、このような立派な慰霊塔が。近くには、日本が戦った近代の戦争、つまり、西南戦争から日清戦争、日露戦争、加えて両世界大戦までにおいて犠牲になった行田市民の方々のお名前が刻まれた石碑もあり、思わず襟を正したくなる。市民の犠牲をこれほど立派に顕彰している市も珍しいのではないか。ちょうどシーズンのアジサイの青すら、何やら追悼の色に見えてくる。
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そうかと思うと、行田音頭なるものの歌詞が書いてある。残念ながら聴いたことはないが、この作詞・作曲コンビをご覧あれ!! なんと、西条八十、中山晋平だ。足袋の生産が中心産業であった近代の行田は、経済的にもかなり恵まれていたのであろう。
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それから、こんなお店発見。きっとこれも歴史的建造物なのだろうが (笑)、何やらいわくありげな「ゼリーフライ」とは。ためしに買ってみると、おぉなるほど。いかにもゼリーを揚げたような色合いだ。どんなに甘くて香ばしい、ユニークなお菓子なのであろうか。
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食べてみるとなんのことはない、パサパサのコロッケだ。あとで分かったことには、このゼリーフライ、結構詳しい Wikipedia の記事もあって、それによると、「おからを主としたものをパン粉を使わずに素揚げしたコロッケの一種である。行田付近地域限定の食べ物であり、広範囲に普及はしていない。近年は自治体がB級グルメとしてその存在をPRしている」とのこと。名称の「ゼリー」は、形状が小判のようなので「銭」からきているとされているらしいが、確かなことは分からないようだ。まあその、一口食べてポンと膝を打つうまさかというと、人それぞれであろうが (笑)、近辺の地図にこのようなゆるキャラとして使われていることからも、地元で愛されている食べ物であることが分かる。このような地方色豊かなものを味わうというのは、よいことである。
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そんなわけで、降ったり晴れたりで天気にはあまり恵まれなかったが、行田市の魅力の一端に触れることができて、大変に楽しかった。前回の記事にも書いた通り、文化財指定を受けている仏像が秘仏であったり、ちょっと足を延ばすと国宝建造物などもあるので、また機会を見つけて埼玉観光を楽しみたい。首都圏でもこんなに歴史的な遺物を楽しめるとは、我々はなんと恵まれていることか。水鳥もこのように佇んで、はるかな歴史に思いを馳せている・・・ようにはとても思えないが、ゆったりしていることは確かだと思います。行田、素晴らしい!!
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by yokohama7474 | 2016-06-26 02:43 | 美術・旅行 | Comments(0)