ダニエル・ハーディング指揮 新日本フィル 2016年 7月 2日 すみだトリフォニーホール

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英国の名指揮者ダニエル・ハーディングは、2010年からこの新日本フィルと緊密な共演を続けてきた。"Music Partner of NJP" (NJP は New Japan Philharmonic、つまり新日本フィルのこと) というユニークなタイトルであったが、彼はこの間、もうひとりの一流指揮者、つまり Conductor in Residence という、やはりユニークなタイトルを持って活動したインゴ・メッツマッハーとともにこのオケを大いに盛り上げたものだ。その間に前音楽監督クリスティアン・アルミンクは退任し、そして今年の秋からのシーズンでは、いよいよ期待の上岡敏之がこのオケの新音楽監督に就任する。それに合わせたのであろう、ハーディングの Music Partner of NJP としての契約期間は満了する。従って、今回の共演は、現在のタイトルでの最後のものになる。彼自身はこの秋から名門パリ管弦楽団の音楽監督に就任し、早速そのコンビでの日本公演も 11月に予定されているが、来シーズンの新日本フィルの演奏会スケジュールを見ても、彼の名前はない。つまり今回行われる 3回の演奏会は、ハーディングと新日本フィルにとってはひとつの区切りということになろう。演奏されたのは、マーラー作曲交響曲第 8番変ホ長調。

ハーディングは 6年間の Music Partner of NJP としての期間中にマーラーの交響曲を積極的に採り上げた。そのタイトルを持っての最初の演奏会では 5番を採り上げたが、その日は 2011年 3月11日。東日本大震災当日のその日は 会場に集まった僅か100名の聴衆を前に演奏したが、その翌日の同じ曲目でのコンサートはキャンセルせざるを得なくなった。だが、そのことでオケとの絆が深まったのだ (NHK がこのあたりの状況について番組を制作していた)。そして 3ヶ月後の 2011年 6月に改めて 5番を演奏。その後 2012年 1月に 9番、5月に 1番、2013年 6月に 6番、11月に 7番、2014年11月に 4番、2015年 7月に 2番、そして今回が 8番だ。そうするとあと演奏していないのは、3番、大地の歌、10番だけということになる。かく言う私も、昨年の 2番をこのブログで大絶賛したほか、5番、9番、6番を聴いている。
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そして、この曲、マーラーの 8番であるが、「1000人の交響曲」というあだ名でも明らかな通り、音楽史上一、二を争う巨大な規模の作品で、そうそう演奏されるものではない。普通こういう場合の「1000人」は比喩である場合が多いが、実際にマーラー自身が 1910年にミュンヘン・フィルを指揮してこの曲を初演した際の演奏者は総勢 1000人を超えていたというから驚きだ。これが初演の時の様子。指揮台にいるマーラー自身!!

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そういう作品であるからして、世界のどんな大都市でも、まあ控えめに見ても 5年に一度以上の頻度では演奏されないだろう・・・東京を除いては。なんということか、ここ東京とその近郊では、毎年というと若干の誇張かもしれないが、それに近いくらいこの曲が演奏されている。今年はこのハーディング / 新日本フィルと、9月にヤルヴィ / NHK 響の 2回が予定されているのだ。私自身は、1985年に初めてこの曲の生演奏を聴いたが、それはズデニェク・コシュラー指揮による東京都交響楽団の創立 20年を記念するもの (今プログラムを引っ張り出してみると、東京都知事 鈴木俊一とあって懐かしい)。それ以来何度もこの曲の実演を聴く機会があったが、聴く度に思うのは、この巨大な規模にもかかわらず、随所に室内楽的な緻密さを求められる曲であるということだ。8名もの独唱者の歌唱も、オペラのように劇の進行と共に歌われるのではなく (第 1部と第 2部では音楽の性格が異なるが)、かといってミサやオラトリオとも違う人間くささがある。この作品独特の夢幻的かつ重層的な世界が常にそこにはあるのだ。

今回のハーディングの演奏、かなり早いテンポで進めていて、オケもそれに食らいついて行くことで、フェアウェルにふさわしい熱気あるものとなった。上記に書いたようなこの曲の特質から考えて、第 1部と第 2部、それぞれの終結部での大音響もさることながら、第 2部の冒頭の静かな部分 (ゲーテの「ファウスト」の第 2部最終場面で、荒涼たる岩山が舞台) の緊張感が非常に大事であると私は思っているが、今回のハーディングの演奏ではその部分の表現力が素晴らしく、弦も徐々に高揚して行って、クライマックスでの力の放射につながっていったと思う。常に明確なハーディングの指揮ぶりは、テンポの溜めはあまりないものの、ストレートな音楽が響いてくる点に好感が持てるのであるが、今回も彼の個性がはっきりと出た指揮ぶりであった。歌手陣では、ソプラノのエミリー・マギーとユリアーネ・バンゼという有名な歌手だけではなく、日本の 3人 (市原愛、加納悦子、中島郁子・・・ちなみに中島はドイツ人の歌手のキャンセルにより急遽代役で登場) も、男声陣 (ニュージーランドのテノールで、バイロイトで「ローエングリン」の主役を歌ったサイモン・オニール、ハンガリーのバリトン、ミヒャエル・ナジ、そして中国のバス、シェンヤン) もいずれも見事な出来。特にシェンヤンの深い声は印象的であったが、彼の経歴を見ると、MET で活躍しているほか、グラインドボーン音楽祭やバイエルン国立歌劇場にも出演、最近では上海フィルを振って指揮者としてもデビューした由。これはヘンデルの「ロデリンダ」を MET で歌うシェンヤン。
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ただ、残念なこともある。それは、クライマックスではバンダ (別動隊) の金管が、通常なら会場の中に陣取って高らかに演奏することで、ホール全体が大きく鳴り響くのがこの曲の醍醐味なのであるが、この演奏ではそれが欠けていた。誤解ないように追記すると、緻密な箇所、静かで緊張感のある箇所がこの曲で重要と言った意味は、ひとえにクライマックスでの壮絶な大音響あってのことなのである。巨大なクライマックスなしには緻密な箇所も活きて来ないという意味だ。ではこの演奏のどこに不満であったかというと、バンダがステージの後ろ、オルガンの横に陣取ったことだ。これではステージのオケと音が混じってしまって、立体的には響かない。栄光の聖母の登場シーンも同様で、合唱団の山 (今回はステージ上に並んだので山にはなっていなかったが) の頂上に忽然と現れるか、客席遥か後方から清らかな声が降ってくるのでなくては。市原愛の声は非常にきれいではあったが、やはりオルガンの横で歌うことで、その効果は残念ながら減少していたと思う。これがすみだトリフォニーホールのステージの制限によるものであれば、7月4日 (月) のサントリーホールでの公演では改善されるのかもしれないが。

とはいえ、この厄介な超大作を、自信と熱情を持って演奏した奏者の方々には最大限の敬意を表しつつ、またハーディングが新日本フィルの指揮台に戻ってきて、残るマーラーのシリーズ、特に彼に適性のありそうな 3番を指揮してくれることを切望します!!

by yokohama7474 | 2016-07-03 11:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)