帰ってきたヒトラー (デヴィッド・ヴェンド監督 / 原題 : Er Ist Wieder Da)

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最近の街の話題は、なんと言ってもポケモンGOであろう。日本先行かと思いきや、米国で開発されたゲームで、他国に続いて日本でもつい昨日、7/22(金)から配信開始となった。私はゲームをしない人間なのであるが、その理由は、きっとゲームにはまったら最後、仕事も家庭も放り出してのめり込んでしまうことを恐れるからである(笑)。ただ、報道で見るところのこのゲーム、スマホやタブレットを通して見る現実の風景の中にポケモンが現れ、それを捕獲するもののようだが、私としては幸か不幸か、それほど遊興心を煽られるようなことにはなっていない。というのも、古今東西の歴史的な場所や文化的イヴェントにわが身を置くだけで、残りの人生すべてを費やしても時間が足りないという思いに満たされているからで、架空の動物を捕まえる遊びには、私の心は正直なところ、さほど動かないのである。

だが、もし現代の街中に、アドルフ・ヒトラーがいたらどうしよう。これはちょっと見てみたいし、おそるおそる蹴ってみたり、冗談でハイル・ヒトラーの敬礼をして自尊心をくすぐってみたり、同盟国日本のことをどのくらい知っていたかについて日本語で問いかけてみたい。だがそれは、私の生きている時代も場所も、ヒトラーが生きていたところから遠く離れているから言えることだ。現代ドイツにおいては未だに、ヒトラーの存在がいかに複雑な影を投げかけていることか。本当に深いところは私には知る由もない。ただ、2008年、ということは終戦後60年以上経過したつい最近オープンしたばかりのベルリンのマダム・タッソー蝋人形館において、展示されたヒトラーの蝋人形の首が、早々にして執拗に何度も折られたという事件を聞いたときに、未だ消えることのない歴史の闇に震撼としたものだ。だがこの映画はあろうことか、お膝元のドイツにおいて現代にタイムスリップした本物のヒトラーが、物まね芸人として絶大な人気を博するという話。なんという大胆な企画。原題の"Er Ist Wieder Da"は、第2外国語がドイツ語であった私にとっては簡単だ。「彼がまたそこにいる」という意味だ(なんでもネットで調べられる便利な時代になったものだ 笑)。もともと小説としてベストセラーになったものの映画化である。これはヒトラーが現代に甦る瞬間。
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クラシック音楽を愛する者として、戦時中のドイツの音楽界の状況に多大な興味を持たないわけにはいかないので、その点からヒトラーの行状に対して思うところは多々ある。昨年の夏にはバイロイト音楽祭に参加し、ナチス党大会の会場であったニュルンベルクにも出かけた者として、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターやエーリヒ・クライバーやカラヤンやチェリビダッケの当時の行動に大きな興味を持つ者として、ヒトラーと音楽というテーマについては生涯研究して行きたいと考えている。だが、この映画の冒頭に流れる音楽がバリバリのドイツ音楽であるワーグナーやベートーヴェンではなく、イタリア音楽のロッシーニであるという皮肉は、なかなか面白いと思ったものだ。「泥棒かささぎ」序曲。この疾走感と愉悦感溢れる音楽ほど、ナチスドイツのイメージから遠いものもないだろう。だがこの後、映画の本編においては、数々の非ドイツ系音楽の断片が感性を刺激することとなったのだ。例えば、イギリス音楽であるエルガーの威風堂々第4番(あの有名な第1番ではない)。あるいは、フランス音楽であるオッフェンバックの「ホフマンの舟歌」(あの有名なメロディではなく、その前の序奏の部分だけ)。そして極め付けは、ドキュメンタリー風のラストシーンで流れる痛ましい音楽、イギリス音楽であるパーセルの「メアリー女王のための葬送音楽」だ。これらの音楽の組み合わせがこの映画に複雑な陰影を与えているし、「泥棒かささぎ」と「メアリー女王のための葬送音楽」が使われているとなると、映画好きには常識のこととして、もちろんあのスタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ」を連想することとなる。終末観と諧謔味。ヒトラーが起こした人類史上最大の悲劇は、もう笑うしかないという喜劇にも簡単に転じうる。その人間社会の危うさをうまく表現した音楽の使用法になっている。
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だが、私には分からない。果たしてヒトラーを笑いのネタにしてもよいものか。なるほど映画の歴史においてヒトラーは、未だ実際に勢いのあった1940年、早くもチャップリンがパロディ化しているし(ところでチャップリンの誕生日はヒトラーとわずか4日違いだということをご存知か。これは運命のいたずらとしか考えようがない)、その後も、例えばスピルバーグは「シンドラーのリスト」ではシリアスに、「レイダース」ではコミカルに非難しているように、ありとあらゆる映画でナチスは排撃されてきている。だがしかし、彼が実際に行ったことは人類史上稀に見る極悪非道なこと。その彼が現代のベルリンを闊歩するという発想自体、危険極まりない。この映画のしたたかなところは、そのような危うさを逆手にとって、ソックリ芸人としてのヒトラーを街に出してゲリラで人々の反応を見るという試みに結実する。親し気に挨拶する人。腹を抱えて笑う人。興味なさげに通り過ぎる人。中指を高らかに立ててののしる人。本気で怒りだす人。これが人々の率直な反応である。それというのも、このヒトラー役の役者、オリヴァー・マスッチの存在感、あえて言うならば、そのリアルな「ヒトラーぶり」が凄まじいからだ。
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現代ドイツの政治動向には詳しくないが、この映画においてはメルケル首相もあざけりの対象であり、ネオナチを含む怪しげな人々が沢山出てくる。そして驚くべきは、このヒトラー役の役者が、実際に演説をしたり、政党の党首と議論したりするシーンが、大変なリアリティを伴ってあれこれ出てくるのである。うーん、ヒトラー役に本当に何かが憑りついているように思えてくるのは、一体どういうことか。そして、笑いはいとも簡単に背筋も凍る人間の残虐さを思い知らせる要素となる。ラストに向けてヒトラーが観客に投げかける事実は、「ヒトラーは選挙で合法的に政権を取得した」ということだ。ナチスの残虐性は、人間社会の本質的な残虐性ということであり、その背筋を凍らせる危うさに、今度は笑うしかなくなってしまう。

この映画は、現実と虚構の入り子構造でできている。その意味では特殊な映画であって、決してテンポよい巧妙な演出とは思わない。だが、そのような演出であっても、題材によってこれだけの問題作ができてしまうのだ。ここには得体の知れない魔術がある。ヒトラー役を演じたオリヴァー・マスッチの言葉を借りよう。

QUOTE
いい映画には、心を掻き乱す瞬間があると思う。笑えるけれど、その笑いが凍りつく瞬間が何度もあるんだ。
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上で何枚もヒトラー役の写真を掲げてきたこのマスッチの素顔はこれだ。
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な、なんだ。ヒトラーに生き写しかと思いきや、全然違う顔ではないか(笑)。再びマスッチの言葉を引用しよう。

QUOTE
(街中で撮影した際)僕がメイクをして衣装をつけた役者だということを完全に忘れている人たちもいて、彼らは真剣に僕に話しかけてきた。彼らとの会話で、人がいかに騙されやすいか、そして人がいかに歴史から多くを学んでいないかがわかったんだ。
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このようにして人間の歴史は行きつ戻りつするのだと思う。今日、移民問題やテロで揺れるヨーロッパに、もしヒトラーが再び現れたら何が起こるのだろう。それを考えると、ポケモンGOで街をほっつき歩く人々の生活は、平和なものなのだと思うのである。願わくば人々がゲームに夢中になるあまり、トラブルに巻き込まれないように。これは独裁者の扇動ではないので、自分の身は自分で守りましょう。

by yokohama7474 | 2016-07-23 22:01 | 映画 | Comments(0)