シン・ゴジラ (庵野秀明総監督)

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昨年9月20日の記事で、大田区が主催した区内の歴史的な場所を巡る徒歩ツアーをご紹介したが、その記事に、私のツアー参加の数日前に、蒲田駅前でゴジラ映画のロケが行われたことを書いた。その時撮影されていたのが、ほかならぬこの「シン・ゴジラ」である。この映画は街で相当話題になっているので、それを思うと、妙なご縁で、からこの映画が制作されていることをかなり早い時期実感できた私は、ラッキーであった。

言うまでもなくゴジラは日本が生んだ怪獣キャラクターの王者であり、ハリウッドでも"Godzilla"として2度映画化されている。だが私自身、幼少時からの怪獣好きであり、ゴジラというキャラクター自体には魅力を感じながらも、実は映画館でゴジラ映画を見たことはほとんどない。1954年の最初の「ゴジラ」(もちろんリバイバル上映の際)と、1984年、できたばかりのマリオンが破壊されてしまう「ゴジラ」(これは封切で)がほぼすべてである。その理由は、このゴジラというキャラクターがどうしても「子供用」という位置づけだと思われてならなかったことだ。つまり、妙なガキであった私は、自分自身が子供の頃ですら、いかにも子供用に作られた映画には興味がなかったことになる(テレビの怪獣ものは別)。その意味で上記2作は、シリーズの中では子供用の要素が少ないと見受けられたので、劇場で見たわけである。ハリウッド版ゴジラも、子供用ではないようだったので劇場で見たのだが、これらハリウッド版はどちらも日本のゴジラとは異質なキャラクターとなっており、その点に違和感があったことも事実。その流れで言えば、今回の「シン・ゴジラ」は、久しぶりの国産ゴジラ映画であり、大人の鑑賞に堪えるという謳い文句であったので、自然と期待を抱くことになったわけである。からだが赤く手が小さくて、尾が異常に長いのが今回のゴジラのユニークな造形であるが、さて、どのような展開の映画となったのか。
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結論を急いでしまうと、この映画は怪獣映画というよりはむしろ、災害映画である。ここで改めて気づくことには、このような大怪獣が人間世界に危害を加える場合、人間は当然その対応に追われるわけで、それは取りも直さず、災害発生時の危機対応ということになる。日本ほど数多い天災に見舞われた経験のある国も、そうはないであろうし、そのうちの幾つかは、まさに甚大な被害をもたらす恐ろしい災害であったのだ。なので、今の日本人がこのような怪獣による攻撃をリアリティをもってとらえるには、やはり災害という観点に立たざるを得ないということになるのだろう。実際この映画の製作過程では、東日本大震災発生時の政府の対応などが詳しく調査されたという。このポイントが既に、この映画を支持するか否かの分かれ道になるだろう。私としては、いわゆる日本のお家芸たる特撮空想科学物を、伝統芸能のごとく継承して行くためには、やはりファンタジーこそが最重要であると思う。酷な言い方かもしれないが、災害対応を描きたければ、実際の災害に関するドキュメンタリーを作ればよい。そこにはきっと、言葉が追い付かない凄まじい悲劇があるだろう。ゴジラではない、現実による痛ましい災禍があるだろう。所詮作り物では、そこに到達するのは不可能であろう。そもそも日本政府の中枢に、このような優秀で献身的でしかもGood Lookingな人、どのくらいいるだろう(決してゼロとは言いませんが!)。
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怪獣映画を作るとは、所詮は絵空事の世界なのだろうか。これは難しい根本問題である。人間があれこれ悩んでゴジラを倒そうとするにはストーリー展開に限界があり、ここはひとつ、モスラでもラドンでもキングギドラでもよい。ゴジラに相対する敵役の怪獣がいれば、ストーリー展開はぐっと楽になる。それゆえに、過去のほとんどのゴジラ映画ではその手段が取られ、結果として子供用映画に堕してしまったというのが真相ではなかろうか。この「シン・ゴジラ」、それに気づかせてくれただけでも、かなりの問題作であることは確かである。だが、本当に怪獣物は子供用にしかならないのだろうか? 何か違うアイデアがあってもよさそうなものだ。本作は大人の鑑賞に堪えるという触れ込みであったがゆえに、この点になんとも居心地の悪い思いをするのである。

私の不満はほかにもいくつかあって、例えば、ゴジラの攻撃によって壊滅する東京の描き方に、どこにも逃げ場はないという絶望的な終末感がないこと。あえて終末感を避けたということなら、ゴジラにどこか動物としての感情が描いてあれば、少し奥行きも出たであろうが、それもない。加えて、被害に遭う人たちの個人レヴェルでの悲劇が全く描写されていない。だから、一体ゴジラが何のために上陸して来て、なぜ変態を繰り返してまで日本を襲うのか、そしてそれはいかなる悲劇を人々の中に巻き起こしたのか、全く迫って来るものがない。もっと言うと、米国の出方も妙でしょう。世界全体に脅威を与えるわけでなく、とりあえずは東京だけしか攻撃していない怪獣に、核爆弾を使うなんて言い出しますかね。つまりは、災害としてのリアリティを追求しても、必ずストーリーのどこかに破綻が生じてしまうのである。あ、それから、悪役不在という設定は、リアリティは出てもドラマ性を犠牲にせざるを得ない。もちろん、重いテーマとして、日本という国は今後どうなるのか、こんな集団無責任体制では没落する一途ではないのか、という危惧が描かれているのは分かる。そして、それに対していくつかの改善のヒントが描かれているのも認めよう。でも、いちばん見たかったファンタジーは、一体どこに行ってしまったのか。
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この映画には有名無名、沢山の俳優が出ていて、さすが超大作という感じはあるのだが、正直、個々に採り上げてここで論じたい俳優はほとんどいない。キャラクターとしてユニークであったのは石原さとみで、祖母が日系人のバイリンガルという設定に多少の無理を感じながらも、さすが英会話学校で鍛えただけあって(?)、英語の発音はなかなかよかったし、加えて、米国人の喋る日本語も、それらしくてよかったと思う。
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でも、この役は一体何のために出て来たのか、正直、もうひとつよく分からない。ゴジラに攻撃された東京で、ビルが次々と壊されて行く中、「NOVA」という看板を掲げたビルは無事に立っているシーンがあったと記憶するが、それがきっと石原さとみの宣伝なのだろう・・・とその時思ったが、あれ、後で気づくと、彼女が宣伝に出ているのは違う会社だったような・・・(笑)。考えすぎでした。

ところで、この題名の「シン・ゴジラ」とはいかなる意味か。先の「ゴジラ Final Wars」でもうゴジラ映画は作らないと宣言したはずの東宝がまたこの映画を作ったからには、「新ゴジラ」というタイトルがふさわしかろう。だが私は、「神ゴジラ」という意味も込めていると解釈する。映画の中には確かにそのような会話がある。ただそうすると、ゴジラを神にしてしまってよいのか。私の疑問はここでも続いて行くのだ・・・。庵野監督の代表作であるエヴァンゲリオンには私は全く知識がないのだが、「シン・エヴァンゲリオン」という作品もあるようですな。すみません、そちらは何も知りません。

エンドタイトルを見て気づいた点が2つ。ひとつは、出演者(役名記載なし)の中に、岡本喜八(写真)というものがあったこと。岡本喜八はもちろん有名な映画監督であるが、写真での出演となると、失踪したとして本作には登場しない謎の科学者、牧教授しかないだろう。恐らく庵野の岡本へのオマージュということなのだろうし、ネット検索するといくつかの説が見当たるものの、庵野本人の説明はないようだ。
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それから、エンドタイトルでズラリと並んだ多くの役者の最後に出て来た名前にびっくり。よく知られたその役者の顔は、どう思い出してもこの映画には見当たらなかったからだ。実はこのネタについても、ネットでは多くの情報を取ることができるので、今更秘密でもないのだが、ここではネタバレを避けておこう。ラストに名前が出て来るくらいだから極めて重要な役のはずなのに、顔が出てこない。とすると・・・。答えは簡単だ。この姿勢にヒント萬斎、いや満載だ(そうでもないか 笑)。
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庵野のコメントによると、これ一作きりという条件で引き受けたとあるが、この映画の終結部にはカタルシスは全くない。当然のように次回作ができるように、私は思う。ご覧になった方は合意して頂けようが、あのままでは2020年の東京オリンピックのときにどうなりますか。物珍しさで外人が大挙してやってくるか、または危険と感じて敬遠するか、さてどちらであろう。そんな与太話をしながらも、もはや今日では無邪気な怪獣物も成り立たなくなっている現実に向かい合いながら、でもやはりファンタジーとしての映画作りを、映画人の皆さんには是非とも期待しています。もっと面白い映画、絶対できると思いますよ。

by yokohama7474 | 2016-08-17 21:15 | 映画 | Comments(0)
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