セイジ・オザワ松本フェスティバル ファビオ・ルイージ / 小澤征爾指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 2016年 8月18日 キッセイ文化ホール

今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルにおける最初のオーケストラコンサートに行ってきた。実は昨日、この演奏会のゲネプロを見学したことは前回の記事に記載した通り。今日がその本番ということになる。昨日の記事には期待と不安を正直に記しておいたが、まず最初に書いておこう。素晴らしいコンサートであった。

19時開演のところ、その45分前に会場のキッセイ文化ホールに到着すると、既にかなりの賑わいである。嬉々として自らの写真を撮る人。感慨深げに入り口を見上げる人。そして、「チケット求む」の札を抱えた人も。このコンサートのチケットを取るのはまさに至難の業。当日たまたま行けなくなった人がいれば浮いたチケットも出て来るわけだが、さてさて、果たして「チケット求む」の人の思いは満たされたのであろうか。
e0345320_00330113.jpg
このコンサートには2人の指揮者が登場する。前半がイタリアの名指揮者ファビオ・ルイージ。後半がこの音楽祭の総監督であり主役である小澤征爾だ。ひとつのコンサートを二人の指揮者で分けるとはかなり珍しいことであるが、そこには明確な理由があって、つまり、現在の小澤の体調に、ひとつのコンサートを一人で通して指揮できるだけの余裕がないせいである。これは松本に限らず、小澤が指揮を執るオペラやコンサートの公演においては既に過去何年も続いていることである。40代からの精力的な活躍に身近に接して来た身としては、なんともつらいことではあるのだが、それでも、もうすぐ81歳になる小澤征爾という特別な能力を持った指揮者の演奏を聴くためには、致し方ない。換言すれば、コンサートの半分しか登場しない指揮者を目当てとして、これだけの熾烈なチケット争奪戦になるのは、少なくともここ日本では小澤以外にはあり得ないということだ。

今回の曲目は以下の通り。
 オネゲル : 交響曲第3番「典礼風」(ファビオ・ルイージ指揮)
 ベートーヴェン : 交響曲第7番イ長調作品92 (小澤征爾指揮)

既に昨日の記事で触れた通り、当初発表では、後半で小澤が指揮するのはブラームスの交響曲第4番であったところ、約2週間前に、ベートーヴェン7番への変更が発表されたもの。会場には以下のような貼り紙が。
e0345320_00402584.jpg
この曲目変更の意味について云々するのはやめよう。昨年も諦めたブラームス4番を、今年も諦めざるを得なかった小澤の体調は、それはもちろん心配である。だが、ベートーヴェンの7番はクラシック音楽史上屈指の名作。今の小澤をその曲で聴ける幸運に感謝しよう。私は小澤とサイトウ・キネン・オーケストラによるこの曲の演奏を、1993年にもここ松本で聴いている。また2014年には、水戸まで足を運んで、水戸室内管弦楽団(メンバーがかなりサイトウ・キネンと共通するが楽団規模が小さい)との演奏も聴いた。それらの演奏と比べて今日の演奏はいかに異なるか、記憶を辿りながら聴くこととなった。

だが、小澤小澤と連呼しているだけではもったいない。なぜなら、「前座」を務めるのが、疑いもなく世界一級の指揮者の一人、ファビオ・ルイージであるからだ。1959年生まれで、かつて世界の名門シュターツカペレ・ドレスデンをはじめ、スイス・ロマンド管やウィーン響を率いた指揮者で、現在はチューリヒ歌劇場の音楽監督や、メトロポリタン歌劇場の首席指揮者を務めている。実はこのセイジ・オザワ松本フェスティバル及びその前身のサイトウ・キネン・フェスティバル松本では、今年で3年連続の登場となる。小澤以外でこのように連続で指揮台に立った指揮者はルイージただ一人。聴衆としては、このような優れた指揮者を毎年聴くことができることに感謝しよう。
e0345320_01162131.jpg
今回ルイージはこのコンサート以外にも、明日マーラーの交響曲第2番「復活」という大曲も指揮するが、それについては追って書くこととして、まずは今日のオネゲルだ。スイス出身のアルテュール・オネゲル(1892-1955)は5曲の交響曲を書いているが、この3番はその中で最も知られているもの。私も学生の頃から親しんで来た30分程度の曲であるが、実演にかかることはあまり多くないので、今回の演奏は大変に楽しみであった(余談だが、カラヤンはこの曲をレパートリーとしていて、前半にこれを置き、後半にブラームス1番を置いた演奏会もあった。今回、小澤がブラームス4番を指揮していれば、師カラヤンの例に類似したものになったのだが・・・)。実は昨日のゲネプロでも明らかなことであったが、サイトウ・キネン・オーケストラの水準は、近年演奏レヴェルがメキメキ上がっている東京のオケの数々よりも、さらに上であると思われる。それもそのはず、構成メンバーには在京オケのトップ奏者やソリスト、また、金管にはウィーン・フィルやベルリン・フィルのメンバーもいる。もちろんひとりひとりの技量だけでオケ全体としての性能が決まるわけではないが、このオケの場合は、とても臨時編成とは思えない一体感がある点が素晴らしいのだ。特に弦楽器(全員日本人)は特筆すべきで、舞台の近くの席で聴いていた私の耳にも、それぞれのセクション(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)の奏者間の音色の統一性には惚れ惚れするものがあった。ちなみにこの曲ではコンサートマスターは小森谷巧。その横には矢部達哉。1列後ろには豊嶋泰嗣。順番に、読響、都響、新日フィルのコンサートマスターがずらりと並んでいたわけだ。世界の第一線で活躍するルイージも、この水準には明らかに満足していると見えるし、共演を重ねることで既にオケとの信頼関係が醸成されているように思う。第1楽章で突進する弦楽器の各パートは、分離よくしかもお互いの音に敏感に反応し、素晴らしい推進力だ。第2楽章も抒情が上滑りせず、この音楽の本質がしっかりと表現されていた。第3楽章では破局に向かう行進曲の果てに強烈な不協和音が現れるが、ルイージは、彼らしく音の線を明快に描いてそのカタストロフを表現したことで、その後に続く全曲を締めくくる清澄な音楽(昨日のリハーサルで丁寧に準備していた箇所)を周到に用意した。この曲の持つ複雑な性格を余すところなく描き出した、傑出した演奏であったと思う。

そして、いよいよ後半に入り、小澤の登場である。最近の彼の演奏会では必ずそうなのだが、このような指揮台の椅子と、楽章間に指揮台から降りて休憩を取るための椅子が用意される。
e0345320_01432353.jpg
また、指揮台の脇には、スポーツドリンク、水、ウーロン茶とおぼしき3本のペットボトルが置かれ、楽章間に小澤が飲むことになる。ちなみにこれらのペットボトルはすべてラベルが剥がされていて、銘柄は分からない。NHKの旅行番組のようですね(笑)。まあそんなことは音楽の本質には関係ないのだが。これはリハーサルの様子。
e0345320_02384088.jpg
7番はベートーヴェンの交響曲の中でも一、二を争う人気曲であるが、その理由は躍動するリズムである。緩徐楽章であるべき第2楽章も、アダージョではなくアレグレット(少し速く)なのであって、4楽章すべてがテンポの速い音楽だ。老齢の指揮者がこの曲を指揮すると、往々にして本来あるべきテンポではない遅さに陥ってしまう可能性があるのだが、今回の小澤の演奏は、そのような硬直的な遅さとは無縁のものであり、音には常に量感があり、推進力もある。もちろん、かつての躍動する指揮ぶりを知っていると、その身振りの制限には痛々しさを禁じ得ないが、だがその鳴っている音楽の説得力、生命力はどうだろう。愉悦感に溢れ、次から次へと移り変わる音楽的情景は明確で、それぞれのパートが最大限の力を発揮する。何より、指揮者の体力の衰えをカバーしてあまりあるオケのメンバーの裂帛の気迫を、いかに表現すればよいだろう。こんな音楽はそうそう聴けるものではない。実際のところ、小澤は以前より椅子に座って指揮をする時間が確実に増えており、今回のベートーヴェンでは、第1楽章の序奏から主部に入る部分、第3楽章冒頭、第4楽章の後半という盛り上がりでは立ち上がって指揮していたものの、それ以外は椅子に座った状態。また楽章間では(ほぼ続けて演奏された第3、4楽章間を除き)疲れた顔で「ちょっと休む」と小声で言いながら指揮台横の椅子に座り替えていた。その間客席は水を打ったように静まりかえり、まるで儀式のように次の楽章を待つこととなった。そしてオケの面々は、その沈黙を集中力の肥やしとして、指揮者の肉体を超えた音楽が世の中には存在しうるのだということを、身をもって証明したのである。
e0345320_02380369.jpg
終演後の万雷の拍手の中、小澤が客席に誰かを探すしぐさを見せたが、誰も客席からステージに上がって来ない。そして、主要奏者たちの間を回って握手を終えた小澤は、袖に引っ込むことなく早々にオケに解散を命じた。やはり何度もステージと袖の往復はできないのだろうかと思ったが、小澤の早々の退場に飽き足らない聴衆は、空になった舞台に対して総立ちの拍手となった。すると、オケの面々が再度ステージに登場し、続いて小澤が、既に私服に着替えていたファビオ・ルイージと手を取り合って登場した。どうやら先刻の動作は、ルイージが客席にいるものと勘違いして探したのであったようだ。前半も後半も素晴らしい内容の演奏会で、舞台と客席が一体となった至福の時間が訪れた。そして、二度ほど同じ情景が繰り返されたあと、ステージの袖に、小澤の娘である小澤征良の姿が現れた。その腕には小さな子供が。小澤が、まだおじいちゃんの職業が分かっていないであろう孫に、いとしげに額を摺り寄せるという微笑ましいシーンで、この素晴らしいコンサートは終わりを告げたのであった。小澤征爾という人の人間性、音楽性、築いてきた栄光の歴史、ステージマンとしての命を賭けた戦い。いろんなことを考えさせられたコンサートであった。私の近くに座っていた女性は、演奏の途中から口を両手で覆い、終楽章ではついに声を抑えて涙を流していた。その気持ちは分かるのだが、この音楽を聴いて泣くのはやめよう。また来年、このようなかけがえのない音楽をここ松本で聴けることを心から楽しみに、また1年間を過ごして行きたいと思う。

by yokohama7474 | 2016-08-18 23:47 | 音楽 (Live) | Comments(0)
<< セイジ・オザワ松本フェスティバ... セイジ・オザワ松本フェスティバ... >>