長野県 高山村/小布施町 高山村歴史民俗資料館、一茶館、北斎館、岩松院、浄光寺

長野の旅。海は見えないが、雄大な日本アルプスの山々の眺望や数々の歴史遺産を楽しむ旅だ。昨日の記事に引き続き、車窓からの雄大な浅間山の写真から始めよう。あっ、ここでは前項の写真と異なり、邪魔な電線は写っていないではないか。最初からトリミングすればよかった(笑)。
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さて私はこの日、松本から一旦万座温泉に移動、そこで家族と合流したのだが、この機会にどうしても行きたい場所があった。その場所の名は、小布施町(おぶせちょう)。8月17日付の大妖怪展の記事で、高井鴻山の妖怪画を紹介しながら、「小布施に行きたい」と呟いた私であったが、思ったらすぐに実行すべし。たまたま松本に行く用があるからと言って、小布施はそこからさらに何十kmも、あるいは100kmも北上した場所で、決して近くはない。だが高速道路が完備しているので、その気さえあれば余裕で日帰りできる場所なのである。

だが、小布施に行く途中に少し寄り道をした。高山村という村である。そこで目にしたこの表示。
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なに、福島正則といえば、秀吉の子飼いの部下ではないか。こんな長野の山の中で荼毘に付されているのか???荼毘に付されたということは、当然ながらこの地で亡くなったということである。ということで、車に乗ったままこの火葬の地を探したのであったが、残念なことに見つけることができなかった。よく地方のマイナーな観光スポットにはある話だが、少し離れた場所にはやたら沢山案内板が出ているのに、近くに行くと途端にその数が減ってしまうという、あのパターンだ(笑)。実はこの近くには、福島正則の屋敷跡というのもあって、後で本で知ったところによると、一部当時の遺構が残っているという。残念ながら、そちらも時間の関係で見ることができなかった。また改めて探しに行きたいと思う。だが、本当にあの福島正則がここにいたのだろうか。この謎が後になってきれいに氷解しようとは、このときは未だ知る由もない私であった。
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さて、しばらく行くと、このように面白そうな看板を発見。字がかすれて読みにくいが、高山村歴史民俗資料館だ。
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なになに、「必見! 7000年前の湯倉人骨」とある。この湯倉というのは、その下に「湯倉の洞窟遺跡」とあるので、洞窟の名前であることが分かる。だがそれにしても、「湯倉人骨」と、ひとつながりの名詞にしてしまうというのは、それだけ歴史的な価値が世間で認められているのか、あるいは世間の評価とは関係なく、自分たちが自信満々でそのように謳っているのだろうか。興味津々だ。高山村の歴史民俗資料館はこのような建物。おぉ、これはモダンな建築だ。誰が見ても、ル・コルビュジェのロンシャンの教会を思い出すではないか!! 先に、群馬県立近代美術館が磯崎新の設計と知らずに眺めていた愚か者の私である。ここでも誰か高名な建築家の作品と遭遇したのかも・・・と思って後日調べたが、どこにも設計者の名前は見当たらない。でも、なかなかスタイリッシュな建築であると思う。
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我々が近づいて行くと、炎天下の資料館の前で何やら清掃作業を行っていた男性が、作業を停めて案内して下さった。ご多忙のところ、誠に恐縮でした。これが高山村全体の模型。敷地の2/3が山だそうである。さすが信州。
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そして、必見の湯倉洞窟に関する資料が展示されている。見よこの墨痕鮮やかな達筆を。
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高山村に存在するこの洞窟は縄文時代初期、7,000年ほど前のものとされており、学術的に非常に重要な遺跡と認定されているとのこと。食料とされた様々な動物の骨や土器のほか、石を抱いて埋葬された女性の骨が良好な保存状態で発掘されたとのこと。ここに展示されている人骨は複製だが、雰囲気は大変よく分かる。石を抱いているのは、いかなる意味があるのだろうか。
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なるほど、太古の昔からこの地には人間の営みがあったわけである。この資料館にはその他、既に窯が閉鎖されてしまった藤沢焼という磁器についてや、このあたりの昔の暮らしについての展示がある。そんな中、私の目を引いたのは、このキリスト教禁止の高札。慶応4年とあるので、1868年、すなわち明治元年のものだ。そんな時代でもキリスト教が邪宗門という扱いとして、わざわざ高札まで出されているのは面白い。山深い信濃には品格の高い社寺が多くて、それらへの人々の信仰が篤いことと関係しているのだろうか。
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さて、この高山村、ほかにも見逃せない場所がある。それは、一茶ゆかりの里 一茶館。そう、あの小林一茶ゆかりの地に建てられた資料館だ。これも非常にモダンな建築である。設計者は、今度は判明したのだが(笑)、岡田新一。調べてみると、なんとあの最高裁判所を設計した人だ。また、以前コンサートを聴いた、東京藝術大学の新しい奏楽堂もこの人の設計。その他多くの公共建築を手掛けている。
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小林一茶(1763-1828)が信濃の人であるという知識はなんとなくあったものの、一般に知られている俳句以上に一茶について何か知っているわけではない。ましてや、この場所が一茶といかなる由縁のある場所であるのか、全く知識がなかった。館内の説明によると、一茶は47歳のときにこの高山村の俳人、久保田春耕を訪ね、その父である久保田兎園の自宅の離れ家を逗留先として提供される。それがきっかけで一茶は、65歳で他界するまでこの地を頻繁に訪れ、20人ほどの門人に俳諧指導を行ったとのこと。そのため、これらの家には一茶直筆の遺品の数々が残されたとのこと。一茶が晩年を過ごした家(火事で焼け出されたので小さな土蔵に住んでいたらしい)などは野尻湖近くに残されており、そちらにも資料館が建っているようだが、この高山村の資料館はそれに劣らず貴重な場所である。館内には一茶の生涯をアニメ風に紹介するビデオも流れており、その飄々とした庶民的温かさを感じさせる作風とは裏腹に、幼時から親族との死別を様々に経験して来た気の毒な境遇の人であることを知った。それゆえに、館内に展示されている様々な書や絵画に、この人独特の生きる力を感じる。
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またこの場所には、一茶がしばしば逗留したという離れ家がそのまま残っている。そう思って見るせいか、大変風流だし、この手の建物にしては珍しく中に入れるので、本当に一茶たちの息吹きを感じることができるようだ。
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このように、借り切って句会もできるようだ。なんと風流な。でも飲酒は禁止ですか。ま、やむないですが・・・(笑)。
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さて、それから本来の目的地であった小布施町へ。この町が有名なのは、あの葛飾北斎(1760?-1849)が老年に至ってから何度も江戸からやって来て、大規模な作品を含めた多くの肉筆画を残したことによるのである。私は随分以前に一度行っているが、今回久しぶりに再訪して、観光地としてよく整備されていることに驚いた。

北斎は言うまでもなく日本美術史上最大の画家のひとり。その画業の幅広く力強いこと、ほかに類を見ないし、見る人の度肝を抜くような大胆な視覚イメージを数々創り出した天才である。彼の人生で特筆すべきは、数えで90歳という、当時としては異例の長寿を全うしたことであるが、誠に驚くべきことに、この小布施に初めてやってきたのは既に83歳!!それから江戸との間を何度か往復しながら、足掛け4年をこの小布施で過ごしたという。しかも江戸と小布施の往復は徒歩であったらしい(確か、片道4泊?だったかと聞いた)。うーん、現代、高速道路を車で行くだけでも充分遠く感じるのに、どうすれば老体でこの道を歩いて往復できるのか。超人である。
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そしてここにもうひとりの重要な登場人物がいる。小布施の豪商で、儒学者でもあり、自らも絵をよくした高井鴻山(たかい こうざん、1806-1883)である。彼こそが北斎をこの地に呼び寄せた張本人である。
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江戸時代も末期に近づき、かつては盤石であった幕藩体制が揺らいでいた頃、絶好のパトロンを得た北斎は、この山深い小布施の地で、いかなる作品を残したのか。これが小布施に残された北斎の肉筆画を所有・管理する美術館、北斎館である。つい最近リニューアルオープンしたばかりらしい。道理で中は非常にきれいだ。
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ここではちょうど、安藤広重の東海道五十三次のすべてが展示されていた。実は広重の作品に先立って北斎が同じ東海道をテーマとして発表した連作も数種類展示されている。だがここでは、北斎の作品は明らかに単なるガイドブック代わりで、なんとも手抜きの仕事ぶりであり、広重の傑作には及びもつかない。なので、広重の絵を見て「ほぅー」と唸りながら足を進めることになるのだが、そのうち、なぜに北斎館で広重に感嘆しているのか分からなくなって来た(笑)。だがその後、かなりの数の北斎の肉筆画の展示に大満足。これは「富士越龍」。絶筆に近いと思われる、88歳のときの作品だ。素晴らしすぎる。神韻縹緲たるとは、まさにこのような作品に使うのであろう。
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だがここの目玉は、なんといっても、北斎が二基の祭屋台に描いた天井画である。
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1基には龍と鳳凰、もう1基には男浪と女浪。ここでは鳳凰と女浪をご紹介する。因みに男浪・女浪(おなみ、めなみ)は、北斎のデザインに基づいて、高井鴻山が彩色したと伝わっているらしい。いずれも、人を呑み込まんばかりの生命力だ。
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さて、この北斎館のすぐ近くには、その高井鴻山の旧居が現存しているのだが、残念ながら現在リニューアル工事のため閉館中。残念だが、開き直って、また将来小布施に来る理由ができて有り難い!! と思うことにしよう。せめてここでは、先の「大妖怪展」の記事から、鴻山の妖怪画を採録して渇を癒すこととします。
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小布施で北斎の作品を鑑賞するのに必須の場所が、もうひとつある。岩松院(がんしょういん)というお寺だ。北斎はこの寺の本堂に、実に畳21枚分もある天井画を描いているのである。このようなこじんまりとした佇まいの、曹洞宗のお寺である。
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ここに北斎が描いたのは、八方睨みの鳳凰、つまり、天井下のどの位置から見ても自分の方を見ているような巨大な鳳凰の絵である。
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鴻山が提供した潤沢な資金のおかげで大変質のよい絵の具を使うことができ、そのために、描かれてから170年を経ても、大変鮮やかな色彩が見事に残っている。やはり優れた芸術が生まれるには、経済的な余裕が必要な場合が多い。もちろん、カネがあるだけではダメなのであり、鴻山と北斎のようなパトロンと芸術家の関係は理想ではないか。

実はこの岩松院、この巨大な天井画だけでなく、実はほかにも見どころがあるのだ。まず本堂に向かって右手にある、蛙合戦(かわずがっせん)の池。
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随分と草深くて分かりにくいかもしれないが、さほど大きくない池である。春には多くの蛙がここで産卵するため、あたかも合戦の様相を呈するという。江戸時代に、この場所で蛙合戦を見ながら俳句を詠んだ人がいた。もうお分かりであろう。「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」。そう、あの小林一茶である。この句は、一茶54歳のときに授かった病弱な長男、千太郎への激励の意味で読まれたらしいが、千太郎は生後1ヶ月足らずで他界。その後一茶はできた子供のすべてと、ついには妻まで失ってしまうのだ。

岩松院の本堂にはまた、福島正則の遺品も展示されている。それもそのはず、彼の遺骨はこの寺に葬られているのだ。そうするとやはり、途中で通りかかった荼毘の地というのは本当だったのである!!本堂に向かって左手奥には霊廟がある。行ってみると、古い石塔を覆うように小さな堂がその周りに建てられたものだということが分かる。
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福島正則は、関ヶ原の後、その功績によって50万石弱の広島藩の藩主となったが、江戸時代に入ってから城の改修をしたところ、幕府のお咎めを受け、石高わずか4万5000石の信濃の地に転封されたという。やはりもともと豊臣の中心的な家臣ということで、徳川から疎んじられたものであろうか。武将の運命も人様々である。だが、死後400年近く経っても、終焉の地でこれだけ手厚く祀られていることは、素晴らしいことではないか。

岩松院には多くの観光客が訪れるが、文化財好きはここだけで満足してはいけない。ほんの数百m歩いたところに、観光客があまり訪れない、だが絶対お薦めの寺があるのだ。その名は浄光寺。地名を取って雁田薬師とも呼ばれる。仁王門のところから見上げるとこんな感じ。鬱蒼とした山の雰囲気だが、寺の名前の通り、心が浄化されるような気がする。
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このお寺が面白いのは、仁王門で案内用のスイッチを押すと、境内何ヶ所かに設置されたスピーカーから録音された音声が流れ始め、この寺の歴史や文化財についての説明をしてくれるのだ。それがかなり長いので、門から本堂までえっちらおっちら登って行っても、また先の方にある別のスピーカーで説明を聞けて、移動時間を大変効率的に活用できる。私も全国いろんなお寺に詣でてきたが、このような効率的なアイデアは初めてだ(笑)。

そして石段の先に見えてくるのは、重要文化財の薬師堂。1408年の建立である。檜皮葺で、ギュッと上部を絞ったプロポーションがなんとも洗練されている。この山の中、静かに風雪に耐えてきた建物である。きっとこの景色、600年間変わっていないのではないか。あっ、よく見ると後ろに避雷針が立っていますね。あれだけは600年も経っていないと思う(笑)。
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このように、それほど多くの人が訪れないものの、本当に素晴らしい文化財は、日本のあちこちにある。そのすべてが、本当に貴重な歴史の遺産である。我々が21世紀の社会を生きて行くためにも、歴史に学び気持ちをリフレッシュすることは必要なことである。

川沿いのラプソディ長野編、次回は松本の街歩きです。乞うご期待。

by yokohama7474 | 2016-08-24 00:26 | 美術・旅行 | Comments(0)