奈良 大和郡山市 郡山城址、柳沢文庫、旧奈良県立図書館、源九郎稲荷神社、洞泉寺、薬園八幡神社、矢田寺

前項の興福寺詣でのあと、午後に奈良のどこを見に行こうかと思案した。私のお気に入りである近場の福地院や十輪院で地蔵巡りもよいし、大安寺あたりも最近行っていない。あるいは、ちょっと足を延ばして法隆寺に行ってみようか。近くにある慈光院は、奈良には珍しく庭を楽しむところで、なかなかに楽しいのである。だが、なんの計画性もなく、即興性と道草精神でラプソディックに物事を考える私の頭に、ひとつのアイデアが浮かんだ。それは、大和郡山市。もちろん、金魚の養殖で有名な街であり、筒井順慶がいた城のある街である。実は私はこれまで行ったことがない。それは、見るべき仏像がないということもあり、城自体の遺構が残っていないことも理由であった。だが、それぞれの土地には歴史が宿っており、過去に城が栄えたなら、何か面白いものが残っているはず。そう思ってレンタカーを走らせたのであった。

辿り着いた郡山城址、このような掘が今でも健在だ。石垣は建造当初のものであるという。淀んだ水だけでも、そこに留まる歴史の残滓に想いを馳せるには充分だ。
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再現された追手門に至る道はかなり狭く、ちょっと迷ってしまったが、辿り着いてみるとちゃんと駐車場もあり、門も櫓も、大変立派な佇まいである。
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さて、上に掲げた門の写真をよくご覧頂くと、豊臣家の桐の紋が見えることに気付かれることだろう。そうなのだ、戦国時代に一時この地を治めた筒井順慶が1584年に死去すると、筒井家は転封され、秀吉の弟である豊臣秀長が、大和・紀伊・和泉合わせて百万石の大名としてこの郡山城に入ったのである。従ってこの郡山城の本格的な造営は秀長によってなされたということになる。秀長については詳しく知るところではないが、戦国の世の安定に貢献のあった人物らしい。この城の運命はその後紆余曲折あるが、1724年に柳沢吉保の長男、柳沢吉里(よしさと)が入城、明治維新まで柳沢家が領主であった。天守閣は明治の頃に壊されて今はないが、ここは現在桜の名所として知られ、春には多くの人が訪れる市民の憩いの場所となっているようだ。だが、最近天守閣址の石垣に補修の必要が生じ、現在ではそこまでは入れないようになっている。でも、かつてそこにあった繁栄を偲ぶことのできる場所だと思う。もうすぐ補修作業が完了して、人々がその場所に戻ってくることだろう。
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城址の敷地内を進んで行くと、柳沢文庫の表示を見ることとなる。明治の頃に旧藩主柳沢氏の屋敷として建てられたもので、現在では地方史誌専門図書館となっている。
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私が訪問したときには、柳沢吉里が甲斐の国からどのように転封して来たかについての資料が展示されていたが、正直なところ、展示物よりも、なんとも落ち着いた佇まいの建物の方印象に残った。このような廊下を通り、ふすまを開けて展示室に入る。あー、なんともレトロ。
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奥には地方史誌が棚一面に並んでいる。古めかしいシャンデリアも明治の頃のものだろうか。
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ここを出て門の方へ戻ると、そこにも何やらいわくありげな古い建物が見える。
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これは銭湯ではありません(笑)。もともと明治41(1908)年、日露戦争の戦勝を記念して(古い!!)奈良公園内に建てられた奈良県立図書館だ。設計者は奈良県の技師であった橋本卯兵衛。
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人気がないのでおそるおそる近づいてみて、扉を開けたところ、どうやら週末には一般公開しているらしく、奈良市のお役人さんだろうか、年輩の案内の方に大変な歓待を受けた。この建物について、郡山城の歴史、郡山の見どころや駐車スペースに至るまで(笑)、実に詳しく教えてもらうこととなった。この建物を設計した橋本卯兵衛は、あの辰野金吾の手になる奈良ホテルの設計にも参画したとかで、窓の作り方などはそっくりであるそうだ。当時の紐で今でも窓が上下するらしい。
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古めかしい階段は、現在では使われていないものの、私が興味深そうにジロジロ見ていると、立ち入り禁止の綱を外して2階まで上がらせてくれた。
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郡山城の説明も大変興味深く聞いた。奈良は盆地であり、石を切り出せる山が少ないので、石垣を作るのに、古墳の石や石仏をかき集めてきているらしい。このブログでも、姫路城における古墳の利用や、安土城における石仏の利用をご紹介して来たが、いやこれだけ様々な石材を集めているとはなんとも面白い。天下人の弟、秀長の権力のなせる業なのであろうか。ここの館内には、天守閣の石組における転用石材が細かく表示してある。
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それから面白いのは、黄金の瓦が出土していることだ。出土品実物ではなく、復元品の写真だけの展示であったが、やはり豊臣の派手好きがここにも発揮されていたようで、なんとも興味深い。
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この施設、今は何に使われているかというと、登校拒否の子供たちの教育の場ということらしい。このような歴史的な環境に向き合って自分が何を勉強して社会とどう接して行くかについて子供たちが学ぶ場であるということであろう。帰りがけに玄関を見ると、卒業生の詩が飾られているのが目に入った。
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むむ、どうやら道草をしてよかったという内容である。人生の道草そのもののようなラプソディックなブログを書いている身としては、大いに賛同したくなるものではないか。特に次の一節。私の座右の銘にしたい。そうなのだ。道草こそが人生の醍醐味であり、知恵や勇気の源なのである。
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我が道草人生を肯定されて、よい気分で(?)城を出て、郡山の街へ。この旧県立図書館で細かい街の地図などを頂いたが、その中で目を引いたのが、「金魚ボックス」。どうやら電話ボックスを水槽として利用して、そこに郡山名物の金魚を入れてある場所らしい。街の南の端あたりにある。これ、電話ボックスの隙間をパテで塞いでいるようだが、かつては人の声を運んだ受話器が、既にその使命を終えて水の中をひょろひょろ彷徨っているのが、なんとも面白い。
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この近くにはもと旅館があったり、ちょっと足を延ばすと町屋エステサロンなるものもある。街中には旧遊郭もあるらしく、郡山市のかつての繁栄を思わせる。あ、もちろん現在でも全国の金魚養殖の4割のシェアを持つらしく、繁栄はしているのだと思いますが。
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秀長が城下町を作る際に、各職業ごとに区画を分けたとのことで、現在でも茶町、雑穀町、豆腐町、錦町などの地名が残っていて風情がある。中でも紺屋町は、細い道のど真ん中に水路が流れていて、昔は藍染の水洗いをしたらしい。車の中からパチリ。
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またこの街には、見逃せない社寺がいくつかある。まず、源九郎(げんくろう)稲荷神社。ここで言う源九郎とは、歌舞伎・文楽の「義経千本桜」で有名な佐藤忠信、源九郎狐のことである。小さい神社だが、日本三大稲荷のひとつに数えられている。源九郎狐がある僧の夢枕に立ち、大和郡山に祀ってくれたら守護神になろうと言ったため、その僧の話を聞いた秀長の名によって創建されたとのこと。
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その由来から、歌舞伎役者も頻繁にここを訪れるらしい。何か不思議な力を感じるパワースポットである。
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そして、その隣にあるのが洞泉寺。
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秀長が三河の寺を移築してきたもので、本尊の阿弥陀三尊は快慶の作とも言われ、重要文化財である。厨子内のお姿を拝見するところ、快慶本人の作か否かは別として、鎌倉時代の慶派仏師によるものであろうとは思われる。素晴らしい出来で、しばし見とれてしまった。
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この寺にはもうひとつ面白いものがある。
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これは何かというと、お風呂である。天平の昔、光明皇后が病気の人の治療のために使用したもので、右側の高い部分に地蔵菩薩像を置き、そこからお湯を浴槽に流し入れたものという。1586年に、豊臣秀吉と洞泉寺の住職が同じ夢を見て、郡山城のある場所を掘れというお告げを聞き、掘ってみたところこの浴槽と地蔵菩薩像が出てきたという伝承があるらしい。これは大変に興味深い伝承である。というのも、光明皇后はもちろん、悲田院や施薬院という慈善施設を作ったと言われているし、らい病患者の膿を唇で拭ったところ、病人の正体は実は観音菩薩であったという伝説もあるくらい、慈善事業に力を注いだ人であったからだ。調べてみると、郡山城のあたりは奈良時代には薬園が営まれていたとのこと。もちろんこの出土品が本当に奈良時代に光明皇后が使ったものか否かは分からないが、この土地はそのような病気の治癒に特性のある場所であったのであろう。そのことを如実に示すもうひとつの興味深い場所がある。その名も、薬園八幡神社。
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実に「続日本紀」にもその名が見えるという古い神社で、本殿は重要文化財に指定されている安土桃山時代の華やかな建築だ。天平時代の瓦も展示されている。
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そしてこの神社では今でも、名前の通り薬草が栽培されていて、その種類は50にも及ぶ。太古の昔よりの土地の記憶を今に伝えているわけである。
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さてそこから丘陵地帯に移動し、最後の目的地として矢田寺を訪れることとした。あじさいで有名な寺であるが、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)の開基になると伝えられる古刹である。実は私はこの寺をこれまで訪れたことがなかったのであるが、それは、それなりに重要文化財の仏像を所有するのに、それらを公開していないことであった。だが、古くからの信仰の場には何か感じるものがあるはずだ。これが本堂。
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丘の頂にある本堂まで車で来てしまったが、このように境内を見下ろすのも楽しい。
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重要文化財の春日社(室町時代)や、この地蔵の口の回りに味噌を塗ると味がよくなるという伝説のある味噌なめ地蔵(鎌倉時代)が、中世からの信仰のかたちを伝えている。
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そんなわけで、限られた時間ではあったが、大和郡山市、堪能しました。ほかにもいろいろ見どころがあるが、道が細かったり、名所と名所の距離が意外にあったりして、残念ながらメジャーな観光地という感じには至っていない。だが、城址あり明治建築あり寺あり神社あり、そして金魚ボックスあり(笑)と、その気になれば尽きせぬ魅力を見せてくれる街。通りいっぺんの奈良観光に飽きた方には、お薦めしておこう。

by yokohama7474 | 2016-10-02 02:44 | 美術・旅行 | Comments(0)
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