真田十勇士 (堤幸彦監督)

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このところ戦国時代ネタが続いているので、それではということでこの映画を採り上げることとした。いや、正直なところ、そのような記事の流れを考えてから、慌ててこの映画を見に行ったわけである(笑)。いやもちろん、もともと見たかった映画であることは間違いないのだが。

あれはいつのことだったか、多分5年かあるいはそれ以上前だと思う。長野県の上田市に出掛けたとき、「真田の物語を大河ドラマに」という署名活動を目にした。もちろん、真田幸村のことは知っていたが、最強の敵である徳川家康を苦しめた勇敢な武将というイメージ以上に何か知識があるとすれば、子供の頃にNHKが人形劇で「真田十勇士」を放映していたことくらいであり、大河ドラマになるほどの材料があるのかなぁと、そのときは思ったものだ。そして数年を経て、今年放送している大河ドラマは「真田丸」。地元の人たちの思いが実ったのだとするとご同慶の至りではあるが、私自身はもともと大河ドラマにはそれほど思い入れのある方ではなく、この「真田丸」も時々見ているくらいなのである。だが、ひとつ私の心を虜にした真田幸村に関連する物語があったことを思い出した。それは村山知義の長編小説「忍びの者」だ。ここにはまさに真田の物語が大変面白く描かれていて、5分冊の長い作品を一気に読み切ったものである。忍者の親玉に関するあっと驚くトリックも最後に出て来るので、村山知義が日本のモダニズムにおいていかに重要な存在であったかを知らない人であっても、是非お読み下さいと推薦しておこう。岩波現代文庫版が中古で安く手に入る。市川雷蔵主演によってシリーズで映画化もされているが、私は残念ながらそれを見ていない。

さて、「真田十勇士」である。実は上にNHKの人形劇について書いたが、これは辻村ジュサブロー制作の人形を使ったもので、大当たりした「新八犬伝」に続くものであった。当時小学生の私はこの「新八犬伝」を毎日毎日食い入るように見ていたのだが、それは物語の悲惨さ(かわいそうな姫や、お互い兄弟であることを知らない犬士たち、そして不気味な玉梓の怨霊の出現)、そしてまさに、巡る因果は糸車という運命的な感覚に、子供ながらに強い呪術的なドラマ性を覚え、それに魅せられていたからであった。それに比べて「真田十勇士」の方は、同じ辻村ジュサブローの人形でありながら、ストーリーにロマン性を欠いているところがあると感じ、そのうち見なくなってしまった。白土三平の忍者ものに夢中になったのはそれよりかなり後、高校生から大学生の頃だったので、猿飛佐助や霧隠才蔵という忍者たちの登場にもあまりワクワクしなかったものだ。これが当時の主題歌のレコード。おぉ、あまり本編を見なかった割には大変に懐かしい(笑)!!
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まあそんな私と真田十勇士との過去の関係を長々と書くのはこのあたりでやめにして、この映画について語ろうではないか。今回、この映画と同じ6代目中村勘九郎主演で舞台でも上演されているのを知っていたが、実はこの映画、もともと2014年に制作された舞台作品がもとになっているのだ。私は最近はオペラ以外の演劇に出掛ける機会がめっきり減ってしまって淋しい限りなのであるが、この「真田十勇士」も、実は2年前に舞台にかかっていたとは知りませんでした。だが、この映画はあの堤幸彦(彼の「トリック」シリーズを私は結構好きなのである)の監督作品。彼が舞台版の演出家でもあるのだが(脚本も同じマキノノゾミ)、ここにはきっと、映画ならではの面白みがあるのではないか。
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映画の要点は、稀代の英雄と思われている真田幸村が実は腰抜けで、猿飛佐助や霧隠才蔵の知恵と後押しによって本当に立派な武士になり、後世に名を遺す大活躍をするというもの。嘘か真か。真か嘘か。その深遠な人生哲学(?)の機微を描いた大作映画である。このテーマは私にとってはなかなか共感できるもの。だって苦しいときに無理してでも楽し気な顔をしていると、そのうち本当に楽しくなって来て、苦労を乗り越えられますからね。芥川龍之介の小編「竜」ではないが、嘘から出た真には、ロマン性と現実性の双方がつきまとう。
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この映画、CGも多用しているが、かなりの数のエキストラを動員した群衆シーンが次から次へと出て来るし、殺陣にも凝ったものが多い(ちょっと雑然としすぎかとも思われるが)。役者も、松平健の家康(それと分からないほどの老け役)に、大竹しのぶの淀君。伊武雅刀が忍者の棟梁を演じるかと思えば、加藤雅也が情けない幸村を演じる。若手では、霧隠才蔵の松坂桃李に、その幼馴染のくのいち火垂(ほたる)は大島優子だ。豪華な役者の共演はかなり見応えがあることは間違いないのだが、率直なところ、主役の猿飛佐助を演じる中村勘九郎の演技があまりに歌舞伎風(あ、これは別に江戸時代のような抑揚でセリフを喋っているという意味ではなく、近代ものの歌舞伎に出て来るやんちゃな男のイメージ)で、その点の違和感を払拭することはできない。それから、もうひとつ率直なところで、役者ごとの演技の出来不出来には、明確に大きな差がある。なので、観客は映画の展開の中でいささか居心地の悪い思いをするのではないか。おっと、危ない危ない。あまり率直な感想を述べると、くのいちに命を狙われます。
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さて、私がここまで書いてきたことを悪口だと思う方は、試しに本編をご覧になるとよい。なぜここで大竹しのぶという稀代の女優が淀を演じているのか、なぜ勘九郎が歌舞伎の演技を引きずっているのか、なぜ脇役が目立たない演技をしているのか、分かる瞬間が来るだろう。そうすると私が上に書いたような点が、急にこの映画の美点に思われてくるものと思う。つまりこの映画の中で起こっていることは、すべてが嘘と真のつづれ織り。それこそ歌舞伎という日本が世界に誇る演劇の特性ではないか。その感覚の起爆剤として、大竹ほどの名女優が必要とされたということであろう。・・・うーん、見ていない人にはさっぱり分からない感想である(笑)。つまり私は思うのだ。堤監督自身が演劇で成し得た(であろう)ことを、CGに大群衆にクローズアップや効果音といった映画の特性を利用して達成したのが、この映画なのではないか。だからこの映画は舞台と表裏一体をなすものでありながら、映画としての独自の価値をも持つものだと言ってしまおう。勘九郎が嘘を真に変える瞬間のシーン、見事である。舞台なら当然、「中村屋!!」というかけ声が飛ぶだろう。

ところでこの映画、冒頭はアニメで始まり、「七人の侍」よろしく十勇士のメンバーが順々に揃って行くことになるのだが、それが結構長く続くので、ちょっと驚く。「この映画はアニメ映画ではありません。本編は数分後に始まります」という注釈が画面に出るほどだ(本当です)。それから、エンドタイトルでは、松任谷由実がこの映画のために書き下ろした曲をバックに、画面の左の方で荒いタッチのモノクロの劇画調で後日譚が描かれる。この最初と最後の部分には少し妙な感覚が残るのだが、作り手の意図は一体なんだったのだろう。その点は腑に落ちない思いが残った。

さて、日本人の判官びいきに訴えるこの真田の物語だが、上記のNHKの人形劇など、今見るともしかすると新鮮な思いで接することができるのではないかと思って調べてみると、なんと当時の番組の録画はほとんど残っておらず、実に全445話中たったの4話のみしか現存しないという。私が夢中になった「新八犬伝」も同様で、全464話中、現存はやはり4本のみ。これはなんとも淋しいことだ。幼少の頃に見たあの人形たちは、嘘か真か。もし勘九郎演じる猿飛佐助なら、「どっちでもいいよー。おめぇが本当のことだと思えば、本当のことで、それでいいじゃねぇかー」と言いそうですな。そうそう、こんな感じでした。私の人格形成のどこかに、これらの人形が大いに関係していると本気で思っている。
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映像も情報も限りなく増幅し、容易に手に入る現代には、素晴らしい、また便利な面も多々あるが、限られた娯楽、限られた情報に一生懸命かじりついていた時代のことを、時に思い出す意味もあるように思う。嘘と真の交錯を楽しむ感性があれば、過度にノスタルジックになることも避けられるものと思っている。

by yokohama7474 | 2016-10-27 22:35 | 映画 | Comments(0)
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