マレイ・ペライア ピアノ・リサイタル 2016年10月28日 浜離宮朝日ホール

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1947年生まれのアメリカ人ピアニスト、マレイ・ペライアについては、昨年の9月から10月にかけて、ベルナルト・ハイティンク指揮のロンドン交響楽団と共演した2回のコンサートをこのブログでもご紹介した。その時に聴いたモーツァルトの24番のコンチェルトは、その静謐さで心に残るものであったが、今回のソロ・リサイタルでは、より多様なペライアの音楽を堪能した。

今回の会場は、東京、築地の朝日新聞社の中にある、浜離宮朝日ホールである。上のチラシに「最高峰の至芸を552席の空間で聴く、究極の一夜」とある通り、これは中型サイズのホールであり、主として室内楽に使われる。2000席クラスの大ホールに比べると小さい分、よく聞こえるのであるが、収容人数が小さい分、このような高名な演奏家の場合、チケットが少し高くなってしまうのはやむを得ない。ペライアは10月31日(月)にも今回と全く同じプログラムをサントリーホールでも弾くが、そちらは(席のクラスも様々だが)少し安い。この浜離宮朝日ホール、響きはよいのだが、少々交通の便がよくなくて、私も過去に何度かしか来たことがない。だが今回はここでペライアを聴くのが楽しみであったのだ。その理由は、本来なら翌日、10月29日(土)にここで聴くはずだったロシアの名ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフのリサイタルを聴くことができなくなってしまい、その腹いせ(?)として、前日のこのペライアのリサイタルを聴きに行くことにしたもの。まあともかく、彼らのような世界クラスの演奏家が連日登場することもある、上質の中ホールであることは間違いない。
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今回の曲目は以下の通り。
 ハイドン : アンダンテと変奏曲ヘ短調作品83
 モーツァルト : ピアノ・ソナタ第8番イ短調K.310
 ブラームス : 6つの小品第3番バラード ト短調作品118-3
       4つの小品第3番間奏曲 ハ長調作品119-3
       4つの小品第2番間奏曲 ホ短調作品119-2
       6つの小品第2番間奏曲 イ長調作品118-2
       幻想曲集第1番奇想曲 作品116-1
 ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106 「ハンマークラヴィーア」

これはペライアが得意とするドイツ物を並べたプログラムで、まさに円熟の至芸を期待させるものである。そして、最初のハイドンの第一音が鳴った瞬間から、紛れもないペライアの音に魅了されたのであった。音楽を言葉で表現することは、よいワインを言葉で表現するのと同様、いやもしかしたらそれ以上に難しいかもしれない。だがこの、なんというか、芳醇でいて澄み切った深い音は、ペライアのものでしかありえない。キラキラしているとか、粒立ちがよいというのとは少し違って、一音一音の重量はそれなりにありながらも、決して重くない。うーん、うまく伝わらないなぁ(笑)。曲目構成上は、休憩後の後半に大作「ハンマークラヴィーア」を置き、前半に短い曲を並べているわけだが、前半に注目すると、ハイドンとモーツァルトの短調作品を続けたあと、ブラームスの小品を、短調・長調を入れ替わり5曲弾くというもの。つまり前半を占拠しているのは、悲劇性を秘めた抒情なのだ。この言葉ほどペライアのピアノにふさわしいものがあるだろうか。
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最初のハイドンの曲にはあまりなじみがないが、年下の友人であったモーツァルトの死を悼んで書かれたものと言われているらしい。一方のモーツァルトのソナタの方は、作曲者の母親の死後に書かれていて、その悲しみが表れているとされる。このように最初の2曲には死を見つめる作曲家の目が背後にあり、厳粛で悲痛な要素がある。だがそれは決して泣き叫ぶ悲しみではなく、美しくも透明な情熱がこもった悲しみなのである。このような曲を表現する場合、もう演奏家の人間が試されるとしか言いようがない。モーツァルトのソナタの第1楽章は凛とした行進という雰囲気であり、私も好きな曲であるが、このような透明な音で聴くと、自分の中に普段潜んでいて忘れている悲しい想いが脳裏に沁み出てくるような気がする。もっとも私の場合、そのような想いをまたすぐに忘れてしまうのが特技なのであるが(笑)。ブラームスの曲になると、既にロマン派の時代であり、特にこれらはいずれも作曲者晩年の作なので、曲の要求する表現力は格段に広がっているが、それでもやはりそこはブラームス、華麗な技よりも深い内向性が求められる。ここでのペライアは、相変わらず澄んだ音を鳴らしながらも、音楽はかなりドラマティックな様相を呈した。それはシンフォニックと言ってもよいだろう。小さいホールであったせいか、音量もかなり大きく聴こえたので、昨年聴いたモーツァルトのピアノ協奏曲の静謐な印象とはまた違ったものになったと思う。

シンフォニックなピアノと言えば、後半の大作、「ハンマークラヴィーア」ソナタほどそれにふさわしい作品も少ないだろう。ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタの29番目で、ここから先はあの珠玉の最後の3曲しかないわけだ。ベートーヴェンが心血を注いだこの分野の作品群において、この29番は、なんと表現しようか、突然の大爆発という言葉を当てはめようか。とにかく当時においては破天荒な作品で、この爆発のあと作曲者は、この曲の半分以下の長さのソナタを3曲書いたが、それらはあたかも彼岸の音楽のように響く。対してこの「ハンマークラヴィーア」は、この世とあの世の間にあって強く熱く燃え盛る、異常なまでのベートーヴェンの生きる力を表現していると思うのだ。ピアニストにとっても、生半可な気持ちで取り組める作品ではないだろう。つい1ヶ月半ほど前、現代の若手を代表するスーパー・ピアニスト、ユジャ・ワンの演奏するこの曲を2度に亘って聴いたばかりだが、案の定ペライアの演奏はユジャの演奏とは、同じ曲とは思えないくらい、というと若干誇張かもしれないが、それに近い印象を受けるほど異なったタイプの演奏であった。ユジャの場合は、技術の極限の向こうに、見たことのない無重力のような光景が広がっている印象であったが、ペライアはもう少し正統的。時に音は均一性を失い、いびつなかたちを見せながらも、一貫して現れる前に進もうという作曲者の生命力が、ぐっと胸に迫るとでも言おうか。そうだ、ピアニズムの極致というよりは、ピアノが交響性を希求しているような、そんな演奏だ。だがそこには狂気は感じられない。情熱はあるが、常に前を向き、終結部に向かって着実に進む理性が全体を御している。もちろん、ユジャ・ワンと比較してどちらがよい悪いを言うつもりはなく、音楽家というものは、国籍、年齢、性別など関係なく、それぞれの持つ能力を最大限に発揮して、それぞれに聴きごたえのある音楽を奏でるのであると、再度確認することができた。

この音は耳に残る。ペライアは、昨年の協奏曲の演奏のあとにもアンコールを演奏しなかったが、今日もしかり。だが聴衆はそれぞれ、満足して帰路に着いたことだろう。かく言う私も、一風呂浴び、アルコールを摂取してこの記事を書きながら、ペライアの音を思い出している。アルコール、じゃなかった、アンコールがなくてよかった。そんなコンサートは誠に貴重である。来年70を迎えるペライア、これからも元気で活躍を続けて欲しいものだ。

by yokohama7474 | 2016-10-29 00:31 | 音楽 (Live) | Comments(2)
Commented by エマスケ at 2016-11-01 08:45 x
こんにちは。
連日の投稿失礼します。
私は、31日のサントリーホールの方の公演を聴いてきました。
マレイ・ペライアは、村上春樹氏が「現代のピアニストで『ただ一人』という条件で選ぶとすれば」と名前を挙げていたのを読んだ記憶があります。

「芳醇でいて澄み切った深い音」とおっしゃるように素晴らしい演奏でした。
ハンマーグラヴィーアの最終楽章の、透明なベールを何枚も積み重ねていくような音色は、本当に耳に残ります。
さすがにサントリーホールは満員にはなりませんでしたが、帰途につく人が皆がみんな幸せそうでした。
Commented by yokohama7474 at 2016-11-01 18:59
> エマスケさん
連日の投稿、大歓迎です!! サントリーホールのよい席で聴けば、またひとしお深く澄んだ音で鳴ったことでしょうね。実は浜離宮朝日ホールでも、サントリーホール公演のチケットを売っていたので、売れ行きがもうひとつなのかなと心配していました。あのピアノを聴くことができた人々は幸せだということですね。
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