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アントニ・ヴィト指揮 読売日本交響楽団 2016年10月29日

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前日の記事に書いた通り、この日は本当は浜離宮朝日ホールで、ロシアの鬼才ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフのリサイタルを聴きたいと思っていたのである。だが、どうしてもそれを諦めざるを得ない事情が出来した。この日、池袋の東京芸術劇場で、フランスの巨匠ミシェル・プラッソンが読売日本交響楽団(通称「読響」)を指揮するとの発表があったのだ。今年4月、新国立劇場でのマスネ「ウェルテル」の指揮をするはずであったこの83歳の巨匠は、そのときは来日が果たせず、息子のエマニュエル・プラッソンが指揮することとなった。その雪辱戦というわけであろうか、今回の彼の来日は、この日の演奏会のためだけということであった。プラッソンの業績の偉大さは、何事も(日本と同じで)首都中心のフランスにおいて、地方都市トゥールーズで素晴らしいフランス音楽の精華を極めたということであろう。彼が鍛え上げたからこそ、トゥールーズ・キャピタル管弦楽団は、現在でも天才トゥガン・ソヒエフの手兵として素晴らしいレヴェルを保っているのであろう。そもそもトゥールーズは、フランスどころかヨーロッパを代表する企業である航空機メーカー、エアバス社の本拠地ではあるものの、音楽に関してはそれほど歴史があるわけではない。そのトゥールーズでプラッソンが心血を注いだフランス音楽の録音が、37枚の集大成として出ている。音楽好きなら是非持っておくべきアルバムだ。
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と、ここまで書いたところで、敏感な方は既にお気づきであろう。この記事のタイトルと、私がここで絶賛している指揮者とは、違いはしないか。そう、そうなのだ。アファナシエフのリサイタルを諦めてプラッソンの演奏会の会場に足を運んだ私の目に飛び込んできたのは、このような表示であった。
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な、なぬー。この言葉はふたつの意味が込められている。ひとつは、高齢のプラッソンの手術は大丈夫なのか。もうひとつ、代役がアントニ・ヴィトって、それはいくらなんでも豪華すぎないか???1944年ポーランド生まれのこの指揮者は、一時期ワルシャワ・フィルの音楽監督として知られ(彼の前任のカジミシェ・コルトもよい指揮者だったが...調べてみると1930年生まれのこの指揮者、未だ存命である)、ナクソスレーベルでの数多い録音によって知る人ぞ知る存在。
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だが、かく言う私も、この指揮者についてそれほど多くを知るところではない。マーラー5番のCDを持っていることは覚えているが、その音楽性についてあまり印象があるわけではないのだ。だが、なぜか分からぬが気になる存在であったのである。そんなヴィトの生演奏を今回初めて聴くことができる。私の特技のひとつは、何かがっかりするような事態に直面した場合でも、その状況から何か前向きな要素を探し出して楽しむということなのであるが、この演奏会などはさしずめその典型であったろう。今回のプログラムは、もともとプラッソンが予定していたものそのままなのであるが、これは究極のフランス音楽選である。
 ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲
 サティ(ドビュッシー編) : ジムノペディ第1番、第3番
 ドビュッシー : 交響詩「海」
 フォーレ : 組曲「ペレアスとメリザンド」作品80(メゾソプラノ : 鳥木弥生)
 ラヴェル : 古風なメヌエット
 ラヴェル : ボレロ

マニアックな曲目はほとんどない。だが急な代役でこれらをすべて指揮できる指揮者は、それだけでも大したものである。実演では未知の指揮者、ヴィト。イメージとしては職人的なきっちりした指揮であろうかと思ったが、果たしてその結果やいかに。プラッソンも心配そうに祈っている。ちょっと顔が笑っていますが(笑)。
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そして、結論を言ってしまえば、これは素晴らしい演奏会であり、読響としても楽団史上に残るくらいの出来であったのではないか。まず、ヴィトの指揮は、予想に反して職人的(それが悪いと言っているのではない。念のため)というよりはむしろ、細部まで彫琢を尽くした極めて繊細かつ美的なもの。流れは決してよくないが、ひとつひとつの音の存在感には瞠目するものがある。指揮者のタイプで彼に近い人を探すと、ユーリ・テミルカーノフではないだろうか。奇しくもロシアの巨匠テミルカーノフはこの読響の名誉指揮者。それゆえ、ヴィトと読響(恐らくは初顔合わせ?)との相性がよかったのだと思う。最初の「牧神の午後への前奏曲」とその後の「ジムノペディ」は、静かな音が緩やかに進行する場面が多いが、なんというオケの敏感な反応であろう。私はサティの音楽には心底惚れ込んでいるが、このドビュッシーの編曲にはいつも何か違和感を感じていたところ、このような演奏で聴くと、サティの数少ない理解者であったドビュッシーが、自分とは全く違う個性に向かい合って、それを取り込もうとしたことを理解することができるのである。そして、交響詩「海」は、今月接する生演奏がこれで実に4回目なのであるが、メータとウィーン・フィル、ノットと東響とは異なる個性でじっくり聴かせてくれた。これは標題音楽などではない。純粋な音の絡み合いが大きなドラマを築き上げる稀有な作品だ。ヴィトは細部の音の絡みを丁寧に描き出し、例えば第1楽章で唐突にチェロが歌い出す箇所など、なんとも香気あふれる美しい演奏であった。

そして後半。フォーレも同様の繊細な演奏であったが、圧巻はやはり最後のラヴェルの2曲であろう。「古風なメヌエット」は実演で演奏されることはそれほど多くないが、冒頭から不協和音と典雅な音楽の絶妙の組み合わせを音にするのは、実に難しいと思う。だがヴィトと読響は、なんとも余裕ある雰囲気で、この難曲を美しく楽しく聴かせてくれたのだ。そうして、最後の「ボレロ」が始まる頃には、客席も期待感で満々。クールに指揮棒を振り始めたヴィトの指先から光線が発されるような、鳥肌立つ名演であった。全体を通して技術的な傷はほとんどなし。ただ、「ボレロ」の中で難しい箇所として知られるトロンボーンのソロでわずかにほころびがあったものの、私が素晴らしいと思ったのは、そのほころびをものともしない自発的な演奏。日本のオケは往々にして、技術的には高度だが遊びが足りないと言われる。だが今日のこの演奏に見られるように、そのような汚名はそろそろ返上すべきであろう。そして私の思うところ、読響がこのような演奏ができたのは、今回のコンサートマスターを務めた日下紗矢子の力によるところが大きいのではないか。
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このオケは、彼女以外にも小森谷巧、長原幸太という素晴らしいコンサートマスターを持っているが、私はこの日下の演奏こそ、楽団に新風を吹き込んでいるといつも思うのである。特に今回のようなフランス音楽は、その繊細さにおいて彼女のリードが大きくものを言っているに違いない。思い返せば、マズアやザンデルリンクが振っていた頃の読響は、楽員が全員男性で、力強い音を特徴としていたものだ。今やこのオケの常任指揮者はフランス人のシルヴァン・カンブルラン。時代は確実に30年前とは変わっている。それから、今回の演奏でフルートを吹いていたのは、私の見間違いでなければ、新日本フィルの白尾彰ではなかったか。
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ヴィトは来年2月、新日本フィルへの客演が決まっているが、そのこととこれは関係あるのだろうか。実際、今回のプログラムでは、冒頭の「牧神」といい、「ペレアス」の中の有名なシチリアーナといい、フルートソロが重要だ。「ボレロ」ですら、最初のソロはフルートだ。彼の客演が私の見間違いでないとすると、東京のオケの中でのこのような人材の流動性は、なかなかに好ましいことだと思う。

さて、すべてのプログラムが終了し、客席が大いに沸いているとき、何やらアンコールがありそうな気配。この流れなら、フォーレのパヴァーヌか、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」だろうか。いずれにせよパヴァーヌなのだなと思っていた(笑)。ところが、第1ヴァイオリン奏者を見ていると、何かの曲の途中から弾き始めるようだ。一体何だろうと思うと、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」のあの超絶的に美しい終曲であった!!まさに息を呑むような美しさ。ここで思い出したのは、この曲を得意とした大指揮者セルジュ・チェリビダッケのことだ。彼がこの読響に客演したのは1970年代で、私は聴いていないが、楽団の出来には不満足であったと聞いている。その彼がもし今の読響を聴いたら・・・と、あらぬ夢想を抱いてしまったのである。

終演後にサイン会があった。私はCD(ヤナーチェク)も購入したが、あえてプログラムにサインしてもらった。
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このように、指揮者の交代によって思わぬ出会いがあるとは、やはり東京はすごい街であると思う。帰り際、開演前にはなかったミシェル・プラッソンからのメッセージが出口付近に掲示されていた。高齢とはいえ、なんとか回復してもらい、また東京で演奏して欲しい。
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さて、終了前に話題をもうひとつ。私は上で、このヴィトの指揮を生で聴くのは初めてだと書いた。ところが、演奏を聴いているうちに、例によって脳髄の奥がうずきだした。いや、ある。一度彼の指揮を聴いたことが。あれはスペインのマドリッドであった。自宅に帰って早速調べてみたところ、出てきました。1999年11月26日、ヴィトがスペイン国立管弦楽団を指揮して演奏したメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」抜粋のプログラムが。私とこの曲との関わりは以前にも書いたが、とにかく信じられないような崇高な曲なのだ。ヴィトの指揮ぶりの詳細は覚えていないが、演奏を聴いて充実感を感じたことを思い出した。チケット代は4,500ペセタ(27.05ユーロ)とある。そうか、まだユーロが実際の通貨としてはほとんど出回っていなかった頃だ。プログラムに載っているヴィトの写真も若い。
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ここで教訓。音楽を聴き続けていると、過去の記憶を辿る機会が増え、ボケ防止によいということ。独特の脳髄のうずき、覚えておこう。

by yokohama7474 | 2016-10-30 00:24 | 音楽 (Live)