インフェルノ (ロン・ハワード監督 / 原題 : Inferno)

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気が付くと今年も残り2ヶ月を切ってしまっているが、後世から見て、2016年は一体どういった年であったと評価されるであろうか。今これを書いている11月9日深夜から半日ほど前に決定した米国大統領選の結果は、間違いなくこの年の大事件であると記憶されるであろうし、それに数ヶ月先立って世界に衝撃を与えたBREXITも、もちろん後世に語り継がれる大事件であろう。このブログは私の政治的信条を述べる場ではないので、これらの点について深入りはしないが、今世界で一体何が起こっているのかという、名状しようのない不安に駆られることは事実である。それはトランプ大統領の誕生が不安だという単純な意味ではなく、先進国における民衆の判断が、「まさかこんなことが」と思う結果になること自体が不安だという意味だ。世界の人口は73憶。富の分配はどうなっているのか。安定的な国際秩序は取り戻せるのか。そして将来の世界はどのようになって行くのか。

軽口三昧の私がいつになく神妙に書いているのは、つい最近この映画を見たせいでもある。「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」に続くダン・ブラウン原作、ロン・ハワード監督、ロバート・ラングドン教授を演じるトム・ハンクス主演のミステリー、「インフェルノ」。この言葉はもちろん「地獄」という意味で、古くからのホラーファンなら、1980年のダリオ・アルジェント監督のホラーと同じ題名であることを知っているかもしれない。だがこれは、そのホラー映画とは全く違う内容である。既によく知られていることと思うが、この「インフェルノ」は、ダンテの「神曲」の「地獄篇」を意味するからだ。なるほど、ロバート・ラングドン物にふさわしい題材ではないか。これはボッティチェリ描くところのダンテ。
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ダンテは1265年生まれ、1321年没だから、ボッティチェリらルネサンスの時代からでもざっと150~200年ほども前の人。因みに私よりもぴったり700歳年上だ(笑)。だが彼の代表作「神曲」はルネサンス文化に大きな影響を与えたほか、さらに後世のロマン主義音楽においても、リストやチャイコフスキーなど、文学的素養のある作曲家の手によって音楽化されている。まさに西洋文明の根幹をなす文学作品であると言えるだろう。この映画では、そのダンテに関連するイメージを使いながら、ラングドン教授がフィレンツェ、ヴェネツィア、イスタンブールを舞台に駆け巡るという内容。登場する場所はかなり有名なものが多く、例えば「ダ・ヴィンチ・コード」のサン・シュルピス教会やロスリン礼拝堂などのマニアックな場所は出て来ない。その意味で、この映画に刺激を受けてロケ地を旅行するのはさほど難しくない。尚、私はこの映画の原作本をしばらく前に購入しているが、ほかの沢山の本と同様、未だ手をつけておらず、床に積んであるのだが、その本は普通の版ではなく、「ヴィジュアル愛蔵版」なのだ。
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文化好きならこの雰囲気に興味を惹かれない人はいないだろう。実際この本は、「神曲」に関係する絵画作品や、小説の舞台になっている場所のなど、オールカラーで写真が沢山入っており、パラパラ見ているだけでも悦に入ってしまうのである。その他私の手元には「神曲」が二種類あって、ひとつはギュスターヴ・ドレの挿画による抜粋版、もうひとつは「完全版」と称するもので、やはりドレの挿画が入っている。ドレの挿画はドレもみな、素晴らしいのである。
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そしてこの映画で謎の鍵を握る絵画として出てくるのが、ボッティチェリが描いた「地獄の見取り図」(ヴァチカン図書館蔵の「神曲」の挿画のひとつ)である。
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これだけでは分かりにくいかもしれないが、地獄の各層にいる死者や怪物を描いている。私はこのボッティチェリの手になる「神曲」の挿画について詳しく知るところではないが、この画家のいつもの精緻で華麗な筆遣いはあまり感じられず、むしろ稚拙なまでに惨たらしいヴィジョンを描いていて、それが却って鬼気迫るものになっている。映画の中では、壁に投影されるこの絵の中に最初のヒントが隠されていて、それをもとにラングドンと、彼と病院で知り合った女医であるシエナ・ブルックスの決死の冒険が始まるのである。
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いつもの通りネタバレは避けるが、ストーリー自体はさほど複雑ではない。人口が膨れ上がり、温暖化が進み、社会不安が募り、絶滅する動物種が急増しているこの地球において、現時点で人口を半分にすれば、むしろ人類の滅亡は防げるのだ、という過激な思想の持主の科学者が生物兵器を作り、それを巡って起こる争いを描いている。突然襲撃されたために過去48時間の記憶が明確でないラングドンに、容赦なく襲い掛かる危機また危機、そして深まる謎また謎というわけだ。クライマックスに至るまでに、いくつかのミスダイレクションが鮮やかに解きほぐされ、真相に驚愕のあまり呆然とするほどではないが、「お、なるほどそう来たか」と思わせる展開が心地よい。誰が敵で誰が味方なのか、見ている方は映画の描写に素直に沿って考えて行けばよいだろう。騙されるのも楽しいくらいの余裕を持って見るべきだ。

それにしても、この映画でラングドンは最初から最後まで、かなりひどい目に遭うのだが、最近「ハドソン川の奇跡」で重厚かつ存在感のある演技を見せたばかりのトム・ハンクスが、ここでは一転して、知的でもあり人間味あるユーモアも持つラングドン教授を喜々として演じているのを見るのは楽しい。いや、繰り返しだが、かなりひどい目には遭うのであるが(笑)。
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共演のシエナ役のフェリシティ・ジョーンズは、英国出身の33歳。どこかで見た顔だと思ったら、今劇場で予告編が流れている「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のヒロイン役だ。このシエナ役、大変に難しいと思うのだが、なかなか頑張って演じている。それほど美形ではないが、何か一生懸命さを感じさせて、印象は悪くない。
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そして私が感心するのは、名匠ロン・ハワードのスピーディかつ要領を得た演出である。上記の通りのミス・ダイレクションの数々を活かすには、登場人物たちの細かい表情や仕草が重要になり、また、カット割りを含めた全体の大きな流れが出来ていないと成功しないと思うが、この監督の優れた手腕によって、非常に手慣れた感じに仕上がっている。時にはアップを多用し、また時には観光名所を美しく撮り、主人公たちが襲撃されるシーンの迫真性も素晴らしい。ハードなシーンも多い映画だが、きっと撮影現場にはこんな感じで和やかさもあったのではないかと推測する。でも、トム・ハンクスは本当にひどい目に遭うんですけどね(笑)。
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このように、高く評価できる作品であったのだが、さて、私の憂鬱はまた戻ってくる。実際の世界は、これから一体どうなるのか。まさか本当に人類の半分を殺してしまうような超強力な生物兵器が簡単にできるとは思わないが、すべての人が幸福に暮らせるユートピアの実現もまた難しい。だが、ともあれ絶望に打ちひしがれるのではなく、未来に希望を持つことがまず大事であろう。唐突な例かもしれないが、私は、高校生の頃に新聞の不鮮明な写真でイスタンブールのシスターン(地下貯水池)にある、柱の下に刻まれたメデューサの像を見て、まさに鳥肌立つ興奮を感じ、いつかそれを見たいと念じていたところ、幸いにもこれまでの人生で2度、その地を訪れることができた。希望を持てば叶うこともあるのだ。そのメデューサ像の神秘的な雰囲気は、まさに期待通りであって、私の心に深く刻まれている。「007 ロシアより愛をこめて」でもロケ地として使われているが、この「インフェルノ」でも、映画の雰囲気作りに大きく貢献する場所として登場するのである。以下の写真で、手前のメデューサの首はさかさまに、奥のものは横向きになっていて、その理由は未だ判明していない。なんという神秘。
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世界にはこのような神秘的な歴史遺産が数多く残されている。政治の世界がどうであれ、このような場所にこれからも行くことを励みにすると、人生に希望が持てようというものだし、またそのような刺激を与えてくれる映画を、これからも見て行きたい。恐ろしい内容の「インフェルノ」から希望を探すという無謀な試みも、実際に現実世界で起こっている奇想天外さに比べれば、さほど奇異なものではないはずだ!!

by yokohama7474 | 2016-11-10 01:48 | 映画 | Comments(2)
Commented by 吉村 at 2016-11-11 14:55 x
私は原作に感心したので、楽しみにしていたんですが、終わり方の変更は納得いきませんでした。フィレンツェ、ベネチア、イスタンブールは大好物なんで、背景は堪能しましたが。一点安心したのは、原作では事実と異なりキャンバス画として描かれたヴァザーリの天井画が、正しく板絵として描かれた点です。あと、デスマスクの展示方法は全然違いますけどね。
Commented by yokohama7474 at 2016-11-11 23:36
> 吉村さん
はい。大好物は存じ上げておりますよ(笑)。映画の結末は原作と違うのですか?では、私も頑張って原作を読むこととします。パラッツォ・ヴェッキオの五百人広間は確か、もともとはダ・ヴィンチとミケランジェロの壁画があった場所ですよね。現在では著作でのみ名高いヴァザーリが、"Cerca Trova" (探せ、見つけろ) という謎めいたメッセージを残したことには、底知れぬ神秘があると思います。あー、フィレンツェ、また行きたいですねぇ。
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