よみがえれ! シーボルトの日本博物館 江戸東京博物館

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毎度おなじみの注意から入ろう。この展覧会は、東京での会期は既に終了してしまっている。だが、年明け2月には長崎で開催され、その後名古屋、大阪へ巡回することになっているので、ご興味おありの方は、そのいずれかに出掛けられるのがよいと思う。なかなか目にすることができない展示品が多いばかりか、これまで充分研究が進んでいなかった分野に関する展覧会であるから、大変興味深く見ることができることは請け合いだ。特に、ヨーロッパとアジアという異なった地域の交流に興味があれば(これが私の強い興味の対象なのであるが)、その面白さはまたひとしおである。

フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)の名は学校の歴史の教科書にも出てくるし、知らない日本人の方が少ないのではないだろうか。ドイツ人の医師で、長崎の出島に鳴滝塾を開いて蘭学を教えた。日本地図を国外に持ち出そうとして一旦は1828年に国外追放となったが、日本の開国後、1859年に再来日した。その彼は、実は大変な情熱をもって日本をヨーロッパに紹介しようとしていたのである。そのことはそれなりに知られてはいて、私も随分以前に、オランダのライデンの博物館にあるシーボルトが日本から持ち帰った大量の遺品についてのテレビ番組を見たことがある。だがそこでは、多くの収集品が倉庫に眠ったままで、充分な調査もされていないと紹介されていた記憶がある。この展覧会は、千葉の佐倉市にある国立歴史民俗博物館の主導のもと、2010年から2015年に亘って行われたシーボルト父子関係資料の総合的調査の成果を世に問うものである。

まずここで再確認しておきたいのは、シーボルトはバイエルン州ヴュルツブルク(いわゆるロマンティック街道の出発地点で、旧市街は世界遺産に登録されている)出身のドイツ人であるということだ。我々の常識に基づけば、江戸時代に日本が交流を維持したのは中国とオランダだけだ。それなのに、シーボルトがドイツ人とは、これは一体どうしたことか。彼は若い頃から東洋に興味があったのか、ドイツで医師として開業ののち、オランダ国王ウィレム1世の侍医からの斡旋を受け、オランダ領東インド(現在のジャワ島)所属の外科医としてバタヴィアに駐在。そこでオランダ領東インド総督の許可を得て、日本でオランダ商館医の地位を得て来日する運びとなったらしい。来日時に日本の通訳から、彼のオランダ語がおかしいと怪しまれたらしいが、「自分はオランダの山岳地帯の出身で訛りがある」と言って切り抜けたとのことだが、オランダは山岳地帯の全くない国なので、当時の日本人のオランダに対する理解度の低さが伺えて笑ってしまうエピソードである。

さてこの展覧会、シーボルトの肖像から始まっている。これはヴュルツブルクのメナニア学生団という団体に所属していた頃のスケッチ帖(1816年頃)で、右から2人目が、二十歳前後のシーボルトである。これ、なかなかいい雰囲気ではないか。例えば「ファウスト」とか、オペラではオッフェンバックの「ホフマン物語」の冒頭のような、学生たちが酒場で飲んでいる舞台のシーンを彷彿とさせる。あるいは、ブラームスの大学祝典序曲が頭の中に鳴り響くというべきか。ドイツの青春だ。
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彼の第一次滞在は1823年から1828年だから、27歳から32歳の頃ということになるが、日本で描かれた彼の肖像画はこれだ。
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あっはっは。珍しい西洋人の顔を見て、その高い鼻を一生懸命表現しようとした画家の気持ちを思うと、何か微笑ましい。まあもちろん、当時の異人さんに対する警戒心は、実は笑いごとではなかったのかもしれないが。一方のシーボルトも、オランダ人画家に日本人の肖像をスケッチさせている。これらは使用人たちであるようだが、なるほど、こちらは写実的に見える。当時の日本人はこういう顔をしていたのだろう。
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シーボルトは日本でタキという女性と共同生活を営み、娘を設けているが、それが後年、日本で初めて西洋医学を習得した女性医師となる楠本イネである。フォンの称号を持つ貴族の家系の人であるから、当然本国で立派な家族を持っているわけであり、タキさんはいわば蝶々夫人的な存在と言ってもよいだろうが、シーボルトはタキとイネの母子に愛情を注ぎ続けたようで、帰国後に出した手紙が何通か展示されている。これは1830年、オランダに帰国した年のクリスマスにライデンから出されたもの。筆跡は他人のものらしいが、日本語の文章自体はシーボルト本人によるものと考えられている。読んでもなんのことやら分からないが(笑)、最初の「一」にあるのは、「私は7月7日にオランダの港に錨を下した」であろうか。そのあと、「少し体調を崩したが今ではよくなった」と書いてあるように読める。間違っているかもしれませんが(笑)。ただ、シーボルトの愛情がにじみ出た書信であると思う。
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尚、シーボルトが営んだ蘭学の塾である鳴滝塾の精巧な模型が展示されている。いかなる経緯で作成されたものか分からないが、最近になって、ほかの図版との照合から、これが鳴滝塾の模型であると判明したものらしく、今回が日本初公開だ。この鳴滝塾のあった場所には今、シーボルト記念館があり、先日長崎旅行をした際に訪れたかったが、その時間がなかった。次回は是非その場所を訪れ、日本とヨーロッパの文明邂逅に想いを馳せたい。この鳴滝塾から、日本の近代医学や自然科学の創設を担った人材が輩出したのだ。
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シーボルトは日本到着後、早速積極的な学術調査に乗り出そうとしたようだ。だが日常においては行動は厳しく制限され、幕府の直轄領での薬草の採集を名目とした調査のみが可能であったらしい。ところが1826年、オランダ商館長の江戸参府への随行を命じられるという千載一遇のチャンスに恵まれ、その際に旅先での風景や人々の様子を記録する。これは、彼が帰国後に著した「日本」という書物に掲載された、江戸の鳥瞰図。19世紀であるから、日本でも既に遠近法は知られていたわけであろうし、これはもともと日本の浮世絵師が作成した図に基づいているようだ。だが、もともと日本人の美意識にはない光景であり、なんとも興味深い。
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江戸時代における西洋画というと、平賀源内、司馬江漢、亜欧堂田善、それに佐竹曙山や小野田直武らの秋田蘭画(サントリー美術館での展覧会が始まっている!!)という私のお気に入りの名前が並ぶわけであるが、出島出身で、このシーボルトお抱え絵師として活躍した画家もいるのである。その名は川原慶賀(かわはら けいが)。上に掲載した日本人の肖像画を描いたオランダ領東インド駐在のオランダ人画家、デ・フィレーネフェに西洋画を学んだと言われている。この展覧会には彼が描いた数多くの日本人のサンプルが展示されていて、なんとも興味深い。これは、「やくしや」(役者)と「むすめ」(町人の娘)。
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尚、私はもともとこの画家に興味があったので、たまたまこの展覧会に先立って以下の2冊の本を購入していたのであるが、パラパラ見ているだけでも当時の日本の雰囲気(平和でよい時代だ!!)が伝わってきて、なんとも興味深い。
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当時の民衆の姿や風物を描いた、これらのタイムカプセルのような作品が残されたのも、シーボルトのおかげである。なぜなら、日本人にとっての日常はまさに日常であって、特に記録に値するものではないところ、その日常は西洋人にとっては非日常であるがゆえに、つぶさに記録しようという意欲を呼び起こしたであろうからである。さらに言うなら、これを日本人画家に描かせたことの意義は大きい。西洋人なら、対象に対する知識のなさによって、珍妙な描き方になってしまうところ、日本人ならその心配がなく、対象の実在感を写し取ることができるからだ。その代わり、その日本人画家には充分な技量がないといけない。川原慶賀は芸術家として一流ということでもないかもしれないが、少なくともシーボルトの意を汲んで、洋風画法によって写実的に日本人の生活を画面に描き出したという点で、東西文明の邂逅という視点においては歴史的貢献を果たしたわけである。

さて、展覧会は、シーボルトが収集した日本に関する膨大な資料の一部の里帰りと、彼がヨーロッパでいかに日本を紹介するために懸命な努力をしたかについての情報が満載である。彼の二度目の来日は、日本が開国した後、1859年である。前年に締結された日蘭修好通商条約に基づき、彼に対する追放令は解除されていたらしい。すなわち、かつて追放された大好きな日本に、30年を経て還って来たことになる。この二度目の来日には、当時12歳の長男、アレクサンダーを随行していたとのこと。これは自身が創設した出島オランダ印刷所で製作された、「日本からの公開状」という小冊子。
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シーボルトは日本の文化習俗のみならず、動植物にも多大な興味を示し、「日本植物誌」や「日本動物誌」も編纂している。これは「日本植物誌」に掲載されたアジサイであるが、この植物は日本が原産。シーボルトはこれをヨーロッパに紹介する際、最愛の日本女性、おタキさんにちなんで、オタクサ(学名 Hydrangea Otaksa)と名付けた。
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これは「日本動物誌」の甲殻類のページから。イセエビだろうか。
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彼が一度国外追放の憂き目を見たのは、日本の地図を国外に持ち出そうとしたからだということは上に書いたが、実際、もし日本を攻めるのであれば地図は非常に重要な情報で、シーボルトも19世紀ヨーロッパの人間であってみれば、そのような軍事目的に利用できる情報の価値はよく心得ていたに違いない。彼の真意についてはいかなる説が有力であるのかは知らないが、いずれにせよ、彼は純粋に日本のことが好きで好きで仕方がなく、この未知の国についてすべてを知りたいという情熱が、すべての活動の根本になっていたように見受けられる。展覧会にはこのように、シーボルト自身が付箋を貼った地図(1840年製作なので、二度目の来日時の収集品である)も展示されている。これは、彼がヨーロッパでの「日本博物館」の展示のために使ったものと考えられている。
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さてでは、この展覧会の題名にもなっている「日本博物館」とは何だろう。実は彼は、自ら収集した日本の品々をヨーロッパに紹介することに心血を注いだ。最初の渡航から帰国した後の1832年、オランダのライデンの自宅において、収集品の最初の展覧会を開催。二度目の渡航から帰国後には、1863年にアムステルダム、翌年にはヴュルツブルク、1866年にはミュンヘンでそれぞれ日本に関する展覧会、自ら名付けたところによると、「日本博物館」を開いている。そして彼は結局、展覧会の開催地であるミュンヘンで風邪をこじらせ、1866年に70歳で世を去っているのである。この展覧会では、アムステルダムでの展示の再現が試みられていて興味深い。これが当時の雑誌における紹介。
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ここで描かれている日本の文物の実物が展示されている。例えば、真ん中に置かれた阿弥陀如来像。
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これは、ちょっと分かりにくいが、いちばん下の段の左の方に置かれていた、厨子入りの蛇身弁天像。グロテスクな姿だが、民間信仰の産物であって、やけに生々しい。
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下から二段目の右の方に置かれていた、麒麟香炉。これも、見る人たちにエキゾチックな感覚を与えたであろう。
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この「日本博物館」の再現展示のほかにも、シーボルトの膨大な収集品から、工芸品なども沢山展示されている。これは蒔絵の裁縫道具箱。
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だが、実はこの裁縫道具箱は、もともと海外輸出用に、外国人の趣向に合わせて作られたものらしい。なるほど、鎖国していたとはいえ、今ヨーロッパの宮殿などでは日本や中国の工芸品や陶磁器を多く見かけるということは、日本からの輸出も結構行われていたということだろう。実のところ、上に写真を掲げた彫刻なども、悪くはないが、日本で最高品質のものとは言い難く、また、収集品には日本人の日用品も多く含まれる。つまりシーボルトは、日本で比較的容易に手に入るものを片っ端から収集して行ったということだろう。必ずしも最高級の美術品でなくても、日本の文化をヨーロッパに紹介するという目的においては、大いに意味のあるコレクションであったと思われる。

展覧会では、彼が日本をヨーロッパに紹介する意義を主張して、コレクションの購入を施政者に訴えかけたことが説明されている。これは、あのワーグナーのパトロンとして名高いバイエルン王国のルートヴィヒ2世にあてた1864年の書簡。シーボルトはなかなかに逞しい人であったようなので、ヨーロッパ以外にも優れた文化があるという学術上の意義はもちろん、教育機関での利用や、貿易による経済振興も言及されているようだ。少なくとも、「侵略の価値がある」と書いてある気配は、なさそうですよ(笑)。
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ここにご紹介したのは展示品のほんの一部であるが、シーボルトの人となりを感じさせるものから、今や日本では失われてしまった風景習俗の記録、ヨーロッパ人の日本に対する興味、そして何より、これだけ離れたヨーロッパと日本との間の交流が、既に江戸時代に実現していた事実など、貴重な事柄を多々学ぶことのできる展覧会である。大変楽しませてもらいました。長崎でこの展覧会を見るのも、面白そうですねぇ。

by yokohama7474 | 2016-11-19 17:30 | 美術・旅行 | Comments(2)
Commented by コロコロ at 2017-05-27 09:43 x
こちらの記事、拝見しておりました。シーボルトも興味があってこの企画展に行くことができなかったため、その様子をいろいろな方のブログを通して拝見していました。シーボルトはドイツ人だったんだ・・・ 片言のオランダ語で乗り切っちゃったのね。という話、鮮明に頭に残っていました。

今、改めて拝見すると私が見ていたものとつながりが発見され・・・ 科学博物館のシーボルト展で展示されていた人物関係図と同じ写真を発見しました。シーボルトに興味はあっても、まだまだ知らないことばかりでした。この字人物相関を手元に置きながら、折々でつながっていくことを楽しみに・・・と思って撮影していました。

オランダ人画家が描いた日本人・・・・こんなふうに見えていたんだ・・・と思いながら、人物関係図を改めてみたらまさにこの絵が掲載されていました。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/korokoroblog/20170422/20170422191832.png

シーボルトの身の回りの世話役、熊吉で採取にも同行した人だとわかりました。こちらのブログを見た時は川原慶賀も知らなかったのでスルーでしたが、今は、知ってる!知ってる!と興味深く拝見しています。

シーボルトは出会うたびに違う横顔を見せます。其一の朝顔図屏風の記事の途中、脱線ネタで書いているのですが、
https://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/144279/

大江戸博物館の展示を見た方が、お滝さんは妾にすぎなかったということが書かれていて、そうだったのか・・・とその時は思っていました。ところが最近のテレビでそうではなかったという話を聞き、まだまだ謎多きシーボルト!と思っていました。改めてこちらを拝見すると、また違う横顔が見えてきたり。

この記事の前に、5万人突破の記事に書かれていましたが、「その時に感じたことを大事にしたい」という目的が同じだと思いました。受け止め方の変化は修正せず残しながら、その後の変遷を楽しむ。何かを知ると過去に見ていた記事の受け止め方もまた変わるのを感じました。理解できる範囲が広がっていることも感じます。
Commented by yokohama7474 at 2017-05-28 01:36
> コロコロさん
ご丁寧なコメントありがとうございます。歴史や文化の面白いところは、様々な事象が必然偶然によって絡み合っているところですよね。常に新たな発見があるから、この趣味はやめられないのだと思います。今後とも是非よろしくお願いします。
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