肉声 ジャン・コクトー「声」より (構成・演出・美術 : 杉本博司、作・演出 : 平野啓一郎、出演 : 寺島しのぶ、節付・演奏 : 庄司紗矢香) 2016年11月25日 草月ホール

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この公演を知ったのは、どこかのコンサートで配布されていたチラシであったと思う。以下のようなシンプルなものであった。
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なになに、「この秋あの4人がおくる"妾"・語り」とはどういうことだろう。ここに並んでいる4人の芸術家の名前は、私にとっては濃淡(?)あれども、いずれも芸術愛好家にはよく知られたもの。しかも、あのジャン・コクトーの「声」を題材にしたコラボレーションであるようだ。これは行くしかないだろうと思い、日程を調べたところ、唯一初日公演にだけ行くことができると判明。平野啓一郎の小説のいくつかを愛好する家人を誘って、出かけてみたのであった。

コクトーの「声」は、原題のフランス語を直訳すると「人間の声」であり、クラシックファンにとっては、フランシス・プーランク作曲のモノオペラによって知られている。かく言う私も、録音ではジュリア・ミゲネスの独唱、ジョルジュ・プレートルの指揮の演奏で、また生演奏ではジェシー・ノーマンが日本でシェーンベルクの「期待」と合わせて披露した公演で、この曲に親しんできた。加えて、堀江眞知子のソロ、秋山和慶指揮の日本語版(和訳は若杉弘)のCDも手元にある。オペラとしては非常に特殊で、舞台上で何度か電話のベルが鳴り、その電話に応対する女性がたったひとりの登場人物なのである。コクトーの台本が書かれたのは1930年。プーランクによるオペラ化(マリア・カラスを念頭に置いて作曲されたが彼女による歌唱は実現しなかった)は1959年。ある種のモダニズムに彩られながら、フランス独特の陰鬱な色恋沙汰のアンニュイな雰囲気をたたえた作品である。徐々に狂気をはらんで行く女性の精神状態が、セリフだけで描かれた究極の作品と言える。ただ今回はこのコクトーの戯曲を、芥川賞作家である平野啓一郎が翻案したものを、寺島しのぶが一人で演じ、ヴァイオリニストの庄司紗矢香が音楽を演奏するという趣向。もともとの原案は、世界的な美術家である杉本博司によるものであるらしい。これが杉本の肖像と、彼の典型的な作風を示すモノクロ写真。
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会場は青山の草月ホール。このホールにはかなり久しぶりの訪問だ。随分以前はここで「東京の夏音楽祭」のコンサートやレクチャーが行われていて結構通ったし、ベルクのオペラの映画なども楽しく(?)ここで見たものだ。また、もちろん先代の生け花草月流家元、勅使河原宏は、私にとっては尊敬する映画監督。
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会場には花輪がいくつも飾られており、本作の創造者4名のうち舞台に登場しない杉本と平野は客席に姿を見せているし、俳優の奥田瑛二もいる。あ、こんな花輪もあるではないか。
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上演時間80分のこの芝居はいかなる内容かというと、一言で言えばコクトーの原作とは全く異なっている。共通点と言えば、女優ひとりのモノローグであることくらいである(笑)。舞台は1940年の夏と1945年3月。すなわち、日本が戦争に突き進んで行く時代と、既に空襲を経て敗色が濃くなっている時代である。ル・コルビュジェ風のモダニズム建築に住む愛人が主人公で、彼女が男からの電話を受けてひたすらひとりで喋るというもの。事前のネットニュースでは、庄司のヴァイオリンは、無声映画時代の音楽のように芝居を伴奏するとあったが、それは全くの誤報で、冒頭、中間、ほぼラストに登場し、セリフのない箇所で3回、無伴奏ヴァイオリンを演奏するというもの。これが開演前のステージ。杉本自身の解説によると、ここに投影されている建物は堀口捨己という建築家(1895-1984)の設計であり、彼は実際に資産家の施主のために愛人宅を設計しているという。そこに住む愛人は、フェンシングと水泳を趣味とする当時のモダンガールであったらしい。そのようなキャラクター設定は本作でも採用されている。
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そんなわけで、事前の説明は一通り済んだので、芝居の内容について語らねばならない。正直なところ、私にとってはこの上演は、その意欲的な試みの意義は理解できるものの、残念ながら内容について共感するには至らなかった。いくつか理由を挙げよう。
・寺島しのぶは終始バインダーのようなものを見ながらセリフを喋っており、これは一人芝居というよりは朗読だ。しかも、私が気付いた限りでは3回トチっていた。生の舞台なので、トチるのが悪いと言う気は毛頭なく、演技にはさすがのものがあると思った瞬間もあったが、あまりに単調とも思われた。
・演出として杉本と平野の両方の名が記載されているが、実際には動きはほとんどなく、舞台背景に投影されるスライドが、家の外観から、中から外を見た写真に変わる程度。寺島は時折立って歩くなどの最小限の演技はあったが、そこには演出と呼べるほどのものは感じられなかった。
・平野の脚本には、妾の大胆さと人生への割り切り、またその反動の人間的な感情が表現されていて、理解できる部分もあったが、品のない描写には共感できない。恐らくそれは、笑いがないからだ。例えば三島由紀夫の通俗作品における下品なネタには、どこか笑いの要素がある場合が多い。一方ここで平野が選んでいる言葉の数々は、三島の作品と比べて、品のなさを突き抜けて人間の真実を赤裸々に表すところにまで至っているか否か。
・音楽がない。これでは間がもたない。いやもちろん、庄司のヴァイオリンは3度に亘って響き渡ったが、芝居そのものとは分断されていて、私としては、同じ音楽をコンサートホールで聴きたかったと思う。以下のような非常に凝った曲目で、意欲的な自作を含め、いずれも私にとって初めて聴くものであったのだが・・・。
 1. エリック・タンギー (1968年フランス生まれ) : ソナタ・ブレーヴから第2楽章
 2. 庄司紗矢香 : 間奏曲
 3. オネゲル : 無伴奏ヴァイオリン・ソナタから第2楽章
因みに彼女は今回、通常のコンサートのように髪を束ねてピンクのドレスを着るといういで立ちではなく、上の写真の通り、髪を下し、黒一色の衣装であった。鳴っている音は、表現主義風というか、しばしばわざとかすれぎみのようにも聞こえたが、さすがの安定感であり、特にオネゲルは高水準の演奏であった。

ここで題名が「声」ではなく「肉声」とされているのは理由があるだろう。すなわちここで描かれているのは、原作のような、電話という機械を通した声の伝達における届かない思いというよりは、電話の向こうにいる男と主人公の女がかつて交わした「肉」を伴った行為でありコミュニケーションであるからであろう。二人の逢瀬の際、実際に肉を通して交わされたはずの感情の残滓に、実は男も女も(それぞれ別のかたちで)しがみついているのだ。だが残酷なことに、戦争という個人を遥かに超えた大きな出来事の中で、彼らの肉はいつ形を失うか分からない。ラストシーンの意味は明確に説明されないが、恐らくはいずれ死すべき運命にある人間の持つ感情への、ある意味の賛歌なのではないだろうか。そのようなことは、私も頭ではそれなりに整理できるのだが、では、それが現代日本においていかなる意味を持つかと点を思うと、急に醒めてしまうのだ。1940年代の妾さんの言葉から、明日に生きる勇気を見出すことは、残念ながら私にはできなかった。

だが、私としては、久しぶりに演劇に接する機会。もともとこのような試みにはリスクがあるし、私とは異なる感想を抱いた人たちもいたと思う。そう考えると、このような機会を今後も極力楽しみたいと考えるのである。ジャン・コクトー自身が見たら、一体どうコメントするだろうか。きっと、「私には、男女の機微は本当は分からないんだよ・・・」と言うのではないか(笑)。
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by yokohama7474 | 2016-11-26 01:23 | 演劇 | Comments(0)
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