速水御舟の全貌 日本画の破壊と創造 山種美術館

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日本画史上に燦然とその名を輝かせている夭折の画家、速水御舟(はやみ ぎょしゅう、1894-1935)については、昨年7月5日の記事でも、世田谷美術館での関連展覧会をご紹介した。その展覧会には、御舟周辺の画家たちの作品も展示されていて、彼の活動の前後まで含めて展望する機会であった。一方、現在東京恵比寿の山種美術館で開催されているこの展覧会(今週末まで)は、2点の重要文化財を含む代表作が勢揃いするなど、この画家の画業を広範に辿ることができる非常に貴重な機会なのである。例によって例のごとく、会期終了間際になってのアップであるが、この記事をご覧になる方が、ひとりでも多く会場に足を運ばれることを願う次第である。因みにこの山種美術館、120点もの御舟作品を蔵する「御舟美術館」であるが、この展覧会は多くの所蔵者からの出展を含む80点からなるものだ。これが御舟。真面目そうな人である。
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速水御舟は東京浅草生まれ。本名は蒔田栄一であるが、後に速水家の養子となり、速水姓を名乗ることとなる。14歳で実家近くの案雅堂画塾というところに入門した。この画塾の主催者は松本楓湖(ふうこ)という、歴史画で知られた画家であったらしい。自由な雰囲気を持っていたこの画塾で出会った先輩が、今村紫紅(しこう 1880-1916)である。紫紅も日本画史上に燦然と輝く天才であるが、35歳で死去。御舟と紫紅とは、近代日本画が確立していく過程でともに試行錯誤した夭逝の天才であるが、ともに官立の美術学校で教育を受けておらず、幼少から画塾で学んだという点が興味深い。この展覧会では、御舟少年時代の作品も並んでいるが、これは17歳のときに古典絵巻の一部を模写した「瘤取之巻」(こぶとりのまき)。闊達な線に驚かされる。
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これはその翌年の制作になる「萌芽」。今村紫紅の南画風なところもあると思うが、これはどう見ても何かの模写や誰かの真似などではなく、画家自身の描きたいものを描いたのであろう。尼僧の全く写実的ではない顔と、周りに生えた、これまた現実離れのした植物たちの幻想性。当時の大富豪であり芸術家たちのパトロンであった原三渓が気に入って購入し、以降御舟のよき理解者となったきっかけを作った作品だそうである。
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これは1917年、23歳のときの「黄昏」。写実性よりも幻想性に依っている点は上の作品と共通しているものの、絵の持つ雰囲気は全然違う。青が大変美しいが、御舟自身、「群青中毒にかかった」と語った頃の作品である。これまた日本画史上に残る大画家である小林古径(当時34歳)が気に入って購入したという経緯を持つ。そのように考えると、御舟は若い頃から理解者に恵まれていたことが分かる。もちろん才能がないとそうはならないが、短い命と引き換えに、何か運命的なものに背中を押されて画業に邁進して行ったということであろう。
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これはその翌年の「洛北修学院村」の部分。スタイルは上の作品と共通しているが、まるでシャガールのようなメルヘンめいたこの幻影はどうだろう。御舟は実際に修学院村の寺に住んで、その記念としてこの作品を描いたという。村の農民たちの生活が描かれているが、庶民の生活への温かい視線というよりも、風景に溶け込む人々の生活の尊さを感じさせる。原三渓の旧蔵品だ。
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ところがその2年後、1920年に御舟は驚くような作品を発表する。現在では東京国立博物館の所蔵になる「京の舞妓」である。これはまさに、洋画家岸田劉生言うところの「でろりとした」絵画ではないか。
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上のメルヘン風の絵画とこれほど異なる不気味な絵があるだろうか!!御舟自身の言葉によると、「人間の浅ましい美しさ」と「陰の奥に存在する真実」を舞妓に見出して描いたとのこと。当時未だ26歳のこの画家の作品を、押しも押されぬ大家であった横山大観は激しく非難し、御舟の院展除名すら求めたという。一方、こちらは洋画壇の中心人物であった安井曾太郎は、御舟の「実在表現」の姿勢を高く評価したとのこと。なるほど、それはよく分かる気がする。この作品、壺や舞妓の衣装などは精密に描かれているのに、その顔は怨恨に満ちたかのような強烈なデフォルメがなされている。その意味では、上に掲げた「萌芽」と、技法は違えど共通点があるのではないだろうか。目に見えるものを綺麗に描くことには、御舟は興味がなかったのだ。それがやがて究極の作品「炎舞」につながって行くのである。これからその過程を辿ることになるが、これは「京の舞妓」の翌年、1921年に描いた「菊花図」。実は昨年7月5日の「速水御舟とその周辺」展の記事でもご紹介した。今確認すると、あっなんだ、そのときも岸田劉生と「でろり」について既に語っているではないか!!なのでここでは多言を弄さず、この菊の花の不気味な存在感をお楽しみ下さいと申し上げよう。今回の図録の解説によると、御舟と劉生は実際に交流があったとのことで、劉生の御舟への影響は明らかなのである。
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同じ1921年の作「鍋島の皿に柘榴」。この絵はある意味で極めて写実的ではあるが、皿を上から覗いているのに、柘榴は真横から描いていて、架空の情景なのである。セザンヌを思わせるところもあるが、一見つややかに描かれた対象物の「でろり」感は、セザンヌとは全く異なるものだ。
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これは御舟の意外な一面を示すもの。1923年の「灰燼」だ。制作年で明らかな通り、これは関東大震災の直後の光景。地震発生時に御舟は上野の院展会場にいたが、自宅に向かう途中で家族の無事が判明すると、文具店でスケッチブックを購入して瓦礫の街を写生して歩いたという。この絵には悲惨な感じはなく、むしろキュビズム風の実験精神が見えるように思うが、現実を超えた災害に向ける画家の鋭い視線も感じることができる。
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そして1925年。あの名作が誕生する。山種美術館の至宝、重要文化財の「炎舞」である。私としては、対面が確かこれが3回目。前回は未だ移転前の千鳥ヶ淵にあった旧山種美術館であった。そのときの展示方法は正直言って感心しなかったが、今回は素晴らしい。漆黒の闇に怪しく浮かび上がる炎を、見事な展示方法で演出している。
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私のように日本の古美術が好きな人間にとっては、この炎は明らかに仏画を思わせる。この絵が宗教性を感じさせるのはそういう点も関係していよう。ご参考までに、青蓮院の国宝、青不動の画像をお目にかける。因みにこの奇跡の絵画は、今では京都の将軍塚というところにお堂ができて、館内で少し距離を隔ててとはいえ、いつでも拝観できる。
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さてこの「炎舞」、軽井沢に3ヶ月間滞在した際に、毎晩のように焚き火を起こし、そこに群がる蛾を観察したことから生まれた。渦を巻いて上昇する炎の力と、それに翻弄され、チリチリと羽を焦がしながらも、短い生を無言で生きる蛾の不規則な動き。誰もが食い入るように見入ってしまう作品だ。実はこれに近い雰囲気の作品を御舟はもう1点描いている。「炎舞」の翌年1926年に描かれた「昆虫二題」のうちの「粧蛾舞戯(しょうがぶぎ)」。これも山種美術館の所蔵である。
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確かに雰囲気は近いが、だが底知れぬ怪しさという点では、「炎舞」には及ばない。そもそも、「炎舞」というシンプルな題名に比較して、なんとも説明的な題名ではないか(笑)。きっと御舟自身、自分の描いてしまった作品を恐れていたのではないだろうか。だが御舟の創造性の素晴らしさは、このような一定の雰囲気にとどまらず、貪欲に多様な作風を試みていることだろう。例えばこれは、「炎舞」と同じ1925年の軽井沢滞在中に描かれた「樹木」。こちらは量感たっぷりな樹木を描いていて、蛾の集う夜の世界とは全く異なるが、やはり現実を離れた幻想性という点では、題材としての共通点はあると思う。
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この「炎舞」を描いた時点から、御舟に残された時間はあと10年。だが彼の探求心は新たな境地に彼を導いたのだ。1928年の作品、やはり山種美術館蔵の「翠苔緑芝(すいたいりょくし)」。四曲一双の金屏風である。
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一見して琳派風の装飾的な画面。黒猫と白兎の対比も面白い。だが、翌年1929年の作品はもっと素晴らしい。重要文化財、これも山種美術館所蔵の「名樹散椿(めいじゅちりつばき)」。全体像と一部のアップの写真を掲げよう。
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この作品は京都のその名も椿寺と呼ばれる寺にあった樹齢四百年の木を素材にしたもの。だがここでは相変わらず写実というよりも、生き物のようなただならぬ迫力の創出に画家の主眼があるように思われる。先般、NHKの日曜美術館で紹介されていたが、この作品の背景には、金箔でできる正方形の升目や、金泥でできる色のむらがなく、完全に均質な金になっていて、装飾性が際立っている上に、なんとも品格がある。それを可能にした技法は、御舟が編み出したという独特の手法、「撒きつぶし」である。金の粉を、にかわを塗った紙の上にまき散らし、丁寧に手でそれを延ばして行く手法で、金箔の10倍の金を使用するという。御舟はその命を削って、この美麗かつ迫力ある作品を創り出したのである。

その後御舟は、1930年に渡欧している。イタリア政府主催のローマ日本美術展覧会(上記の「名樹散椿」も出展された)の式典出席の後、フランス、スペイン、イギリス等を10ヶ月に亘って歴訪している。因みにこのローマへの派遣は横山大観も一緒だったようだが、例の「京の舞妓」での激怒は、このときまでには鎮まっていたのであろうか(笑)。これはフレンツェで描いた「塔のある風景」。おー、これはまた、安野光雅かと思ってしまうような叙情性と現代性だ。
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渡欧から帰国後の御舟は、人物像の模索にとりかかる。これは1932年の「花ノ傍(かたわら)」。うーん、今度は、モダニズムあふれる清新な作品ではないか。今度はあの、「京の舞妓」を誉めたという安井曾太郎を思わせる作風だ。常に新たなものにチャレンジする御舟の旺盛な創作意欲に、心打たれるではないか。
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そして御舟は、若い頃取り組んだ模写の世界にも戻っている。これは1934年に描かれた、池上本門寺の「日蓮上人像」の模写である。
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周知の通り本門寺は、日蓮が旅の途中で倒れて世を去った場所で、日蓮宗の聖地のひとつ。この肖像画のオリジナルは惜しくも戦争で焼失してしまって現存しないが、御舟が模写したということは、本門寺の秘宝にふさわしい由緒正しいものであったのだろう。この鬼気迫る表情に、日蓮という人の強固な意志がみなぎっているではないか。模写でありながらその霊力まで写し取ったような御舟の気迫に圧倒される。

そして、御舟の命は翌年、1935年で突然途絶えてしまう。腸チフスであった。絶筆となった「円かなる月」。皇居前の松にかかる月を描いたものであるらしい。習作を経て最初に仕上げた作品は、日記には「松図失敗改作に決す 心動揺を覚えずにいられぬ」とあることから、一旦破棄されたことが分かっており、この2作目は6日間で仕上げたとのこと。もちろん彼はこれが最後の作品になるとは思っていなかったに違いない。だが、「炎の舞」ではあれだけ濃く、それだけに強い吸引力のあった闇が、ここでは薄ら明るい月夜であり、「名樹散椿」ではあれだけ逞しく繁茂していた木の枝が、ここでは細く弱々しい。変わらぬものを持ちながらもスタイルを変遷させてきた御舟が最後にこの世に残したものは、ある種の枯淡の境地を示す小さな作品であった。
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このように速水御舟の画業には驚くべき面が多々あり、今後も人々に訴えかける作品群であると思う。40年の短い生涯でこれだけの実績を残した画家はそうはいないだろう。「炎舞」だけが御舟ではなく、だが一方で彼の才能を凝縮させた奇跡的な作品が「炎舞」であったのだということを、改めて実感することとなった。未だご覧になっていない方は、今週末、山種美術館に走られたし!!

by yokohama7474 | 2016-11-28 23:46 | 美術・旅行 | Comments(0)