小田野直武と秋田蘭画 サントリー美術館

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秋田蘭画(あきたらんが)をご存知だろうか。秋田は文字通り東北の秋田県のことだろう。蘭画とは?植物のランの絵のこと?そう言えば上のポスターには何やら花が描かれている。これってラン?と植物音痴の私などは言ってしまいそうだが(笑)、いえいえ、私は知っている。ここで言う「蘭画」の蘭とは、植物のランではなく、オランダ、つまり阿蘭陀の蘭であり、つまり、蘭画の意味するところは西洋画という意味だ。つまり秋田蘭画とは、秋田で制作された西洋風絵画のこと。展示物が「秋田蘭画」だけでは「飽き足らんが」ね、というオヤジギャグを放つ方もおられるかもしれない。だがこれは、本当にほかに類を見ない素晴らしい芸術であり、とてもオヤジギャグだけで片付けるわけには行かないものなのである。

そもそも私が秋田蘭画について知るところとなったのは、以前、ある大変面白い展覧会に出かけたときである。手元にその図録を出してきて確認すると、それは2000年のこと。日本美術に関する興味深く意欲的な展覧会を数多く開いてきた板橋区立美術館における「秋田蘭画 憧憬の阿蘭陀」展である。
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今回サントリー美術館で展観したこの展覧会の冒頭あいさつに、「16年ぶりとなる秋田蘭画の展覧会」とあったので、つまりはこの2000年の展覧会以降、秋田蘭画を単独のテーマとした展覧会は開かれてこなかったことになる。それは本当にもったいないことであり、これを機会に江戸時代に描かれた特殊な絵画群への興味が喚起されればよいのだが。私はこのブログでも度々書いてきた通り、西洋と東洋の邂逅に多大なる興味を抱いている人間であって、この秋田蘭画などは、まさによだれの出るような大好物なのだ。

そもそも中央から遠く離れた秋田藩において、鎖国中の江戸時代に西洋画が描かれたのはなぜかというと、展覧会の題名にもなっている小田野直武(おだの なおたけ、1749-1780)という画家が秋田の角館(かくのだて)出身であるという事情による。あの有名な江戸時代のマルチタレント、平賀源内が、鉱山の発掘(!!)のために1773年に角館を訪れたときに才能を見出され、その年に江戸に出て西洋画法を学んだのである。そして直武は郷里秋田の藩主である佐竹曙山(さたけ しょざん、1748-1785)、その一族で角館城代の佐竹義躬(さたけ よしみ、1749-1800)らにその技法を教えた。主として彼ら3人が制作した西洋風の絵画を、秋田蘭画と呼んでいるのである。この展覧会の副題に「世界に挑んだ7年」とあるのは、直武が江戸に出た1773年から死去する1780年までの7年間を指しているのであろう。直武はわずか30歳、曙山も38歳で亡くなっており、活動期間は短かったが、西洋風の画法を取り入れた先進性は、その後の日本美術に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。

いや、そもそも、日本人なら誰でも、歴史の教科書で小田野直武の作品を目にしたことがあるはず。それは、杉田玄白らによって訳された「ターヘル・アナトミア」、邦題「解体新書」の挿絵を描いたのが彼だからだ。この表紙、見覚えがあるだろう。
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もちろん表紙のみならず、詳細な解剖図の挿絵はすべて、直武の手になるものだ。
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写真もコピーも、もちろんスキャナーもない時代、西洋の書物を翻訳して出版するということは、挿絵は誰かが日本で描いてそれをもとに版木を作成するということ。見たものをそのまま描くということは、単純そうでいて、そもそもの物の見方や描き方の技術が異なる場合には、言わば常識の部分から変わってくるわけだから、至難の業であろう。だが、解体新書の出版は1774年。直武が江戸に出た翌年のこと。つまりは、江戸に着くなり模写の準備に取り掛かったわけである。あるいは、(どこにもそうは書いておらず、私の勝手な妄想だが)杉田玄白の親友であった平賀源内は、もともとこの挿絵を描ける若い才能ある画家を探していて、秋田で白羽の矢が立ったのがこの直武であったという可能性も、あるのではないだろうか。杉田玄白の人となりについて詳しく知るところではないが、78歳頃の1811年に描いた自画像はこれである。上部の賛も自分で書いているから、まさに自画自賛。
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なにやらひょうきんな仕草だが、玄白が夢の中で狐に扮して今様を謡った様子を描いたものらしい。先端の学問である蘭学を鎖国の日本で主導した玄白はまた、夢のような現世を大らかに笑い飛ばす鷹揚さの持主であったのだろうか。老年に至った頃に、早くしてこの世を去った16歳年下の小田野直武のことを回想するようなこともあったのかもしれないと想像する。人生、時には狐に憑かれて踊らないとやっていられないということか。

さて展覧会は、洋画以前の直武の作品に始まる。左下に書かれている通り、これは英一蝶(はなぶさいっちょう)の原画を写したもの。明らかに練習用の手すさびであるが、その墨の線の活き活きとしていること。
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これは粉本の「神将図」。裏にも絵が描かれているので、これも練習なのである。筆の勢いが素晴らしい。
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この「蒼鷹摶禽図」(そうようはくきんず)などは、狩野派の雰囲気であるが、既にして写実に迫ろうという画家の意気込みが見て取れる。
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これは「柘榴図」。うーん、素晴らしい写実性だし、後年の情念の表出が既に表れている上、博物誌的な興味も呼び起こす絵画である。
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さて展覧会は、日本における西洋画の曙光を示す作品が目白押しだ。これは、ルンフィウスというオランダの博物学者による「アンボイナ島奇品集成」。
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ここで言うアンボイナとはアンボン島のことで、今のインドネシア領である。甲殻類や貝類、化石等の図版を多く含んでおり、日本では「紅毛介譜」と呼ばれて、平賀源内も所持していたことが分かっているらしい。実はたまたま、つい先日NHKのBSで再放送していた2003年の番組で、ロシアのピョートル大帝がいかにしてサンクト・ペテルブルクを建都したかという極めて興味深いテーマを扱っていたが、その番組の中、エルミタージュ美術館の書庫で彩色つきのこの絵の原画が見つかり、荒俣が大興奮していた。ちなみに原画を描いたのは、ピョートルがドイツからロシアに招いたメーリアンという女性画家兼自然科学者であったらしい。以下、その番組からの写真。文化の伝播とは非常に力強いものであり、そこに好奇心さえあれば、様々な障害を乗り越えて文化は伝わって行くのである。
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日本に入ってきた西洋の図版のもうひとつの例をご紹介する。これはヤン・ヨンストンの「動物図譜」から、ライオンの雄雌である。
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このうち雄の方を日本人が写したものがこれだ。やはり平賀源内に師事した森島中良という人の手になるもの。当時の日本人が見たこともないライオンを、日本古来の獅子ではない形態で表そうという意欲的な試みだ。
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この絵も大変興味深いのであるが、作者不詳ながら、8代将軍吉宗がオランダ商館に発注した油彩画の模写であるらしい。当時は本所にあった五百羅漢寺に下賜されたものであるとのこと。保存状態はよくないが、強い好奇心に駆られて、珍しい西洋文物に学ぼうとする画家の姿勢が見て取れる。
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江戸時代に流行した「眼鏡絵」というジャンルがある。45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して覗いてみる風景画の一種。ここには西洋的な遠近法が採用されていた。これは佐竹藩の上屋敷を描いたもの。やはり秋田には、西洋的なものを学ぼうとした人たちがいたのである。でもこのシュールなタッチ、作品の本来の用途を超えて、現代人に訴えかけるものがあると思うのだ。
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さてここまで、秋田蘭画の前哨戦としての西洋風絵画を見てきたが、実は秋田蘭画のルーツにはもうひとつあって、それは沈南蘋(しんなんびん)という画家のスタイルなのである。彼は中国人であるが、長崎に2年間滞在して写実的な花鳥画を指南した。つまり、西洋画ではないものの、独特の写実性を志向した一派があり、それもまた秋田蘭画に影響を与えているのである。この展覧会には沈南蘋自身の作品は出展されていないが、いわゆる南蘋派の作品があれこれ展示されている。これは沈南蘋の弟子であり、やはり長崎に滞在した中国人画家、鄭培(ていばい)による「風牡丹図」。題名通り、風に揺れる牡丹の花を描いていて、独特の情緒がある。
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南蘋派のスタイルで数々の作品を残した宋紫石(そうしせき)は、この中国風の名前にもかかわらず、日本人だ。この「鷹図」にも神韻縹緲たる写実性が漂っている。
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今回初めて知った画家、松林山人(しょうりんさんじん)。長崎生まれの画家であるとのことだが、この「牡丹図巻」は素晴らしいではないか。この牡丹、まるで生きているかのような不気味な生命力に富んでいて、まさに秋田蘭画と共通する先進性が満ちている。江戸時代中期のものとは信じられない。
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さて、秋田蘭画の立役者、小田野直武の作品に戻ろう。これは「品川沖夜釣」。眼鏡絵として作成されたものだが、品川を描いているということは、彼が江戸に滞在したときのものであろう。うーん、東洋と西洋の狭間で生み出されたキッチュな作品である。
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直武の眼鏡絵をあとふたつ。「梅屋敷図」と「江の島図」。なんだか楽しくなってくるではないか。
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展覧会には直武の写生帖がいろいろ展示されていて興味深い。この絵には、「小田の」という署名もあるのだが、これはつまり、このような写生についても自身の作品であるという自負を持っていたということだろう。「の」の字がひらがなであるのも何か楽しい。また、アジサイもリアルである。
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これは「獅子図」。上で見たヤン・ヨンストンの作品に基づくものの、オリジナルとは角度が違っていて、独自の表現を試みていたものと考えられる。素晴らしい実験精神ではないか!
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直武の実験の例をもうひとつ。これは「洋人調馬図」。もとになったにはヨハン・エリアス・リーディンガーというドイツ人の版画であるが、背景の木々を省略するなどして、主題を突き詰めようとする姿勢が見受けられる。なんとも興味深い。
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さてそれではいよいよ、本格的な秋田蘭画をご紹介しよう。これは直武による「鷺図」。16年前の板橋区立美術館での展覧会の図録の表紙になっていたものだ。描かれている題材は日本的なものであるが、その技法が西洋風であり、これぞ東西文明の融合であろう。
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直武の最良の作品の数々においては、描かれる対象(多くは植物である)がまるで動いているかのような異様な生命力である。これは「岩に牡丹図」。なんという真に迫る表現だろう。
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そして秋田蘭画の特色は、ひとりの画家の創作スタイルを、殿様が学んだことである。これも、上下の秩序が明確であった江戸時代においては稀有なことであろう。以下、直武の「蓮図」と、秋田藩主佐竹曙山の「紅蓮図」。殿様の気合が感じられよう。
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佐竹曙山の写生帖も実に瞠目すべきものである。これなどは、生きたトカゲではなく標本である。近代的博物学の精神に則るものであろう。
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曙山の「燕子花にナイフ図」。このナイフは西洋のものであろうし、その点での物珍しさもあるが、ただの写実にとどまらない存在感こそが、実にユニークなものであると思う。
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秋田蘭画のもうひとりの中心人物、佐竹義躬の「松にこぶし図」。やはり写実の奥に何やら不気味な生命力が感じられる。
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ここで小田野直武畢生の傑作をご紹介する。重要文化財に指定されている、「不忍池図」。ここではまさに南蘋派と西洋画法の融合が見られ、ちょっとほかでは見ることのできないなんとも生々しい花の生命力が見る者を圧倒する。この鉢植え、今にも動き出して何かを語り出しそうである。また、細部においては花に近づく小さな虫などの細密な描写もあり、まさに直武の代表作にふさわしい。
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そして展覧会は、秋田蘭画の中心人物たち以外の興味深い作品の展示に移る。これは田代忠国の「卓文君図」。題名の通り中国の人物を題材としているが、その細長い容姿は、あたかもヨーロッパのマニエリスムのようではないか。ここにあるのは写実ではなく、デフォルメである。ただ何かを模倣するだけでない、創造的な姿勢を伺うことができる。
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作者田中忠国(1757-1830)はやはり秋田人で、曙山に仕えたらしい。一説には直武とともに、西洋画法を平賀源内から直接伝授されたと言われているが、真偽のほどは定かではない。直武のようなスーパーな才能でないあたりが、私としてはなんとも憎めないのである。以前もどこかの展覧会で見た記憶のあるこの「三聖人図」のキッチュさは、本当に楽しい。ちなみにこの三聖人とは、以前は孔子、老子、聖母マリアと言われていたが、最近の研究では、道教でいう福星、禄星、寿星が描かれているという説が有力になっているらしい。三人合わせて福禄寿ですな(笑)。一度見たら忘れることのない絵である。
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これも珍しい作品だが、荻津勝孝(おぎつ かつたか)の「張良・韓信図」。こんな劇画タッチの江戸絵画は見たことがない。荻津は1746年生まれと、直武と同世代であるが、秋田における絵画制作にはこのような多様性があったことを知ることは、なんともワクワクするような思いなのである。
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江戸時代の洋風絵画と言えば、一般的に知られたよりメジャーな画家は、司馬江漢(しば こうかん)であろう。彼も1747/48年生まれと、直武と同世代。平賀源内と交流し、小田野直武に西洋画法を学んだとされるが、確たることは分からないらしい。この「七里ヶ浜図」は、秋田蘭画のおどろおどろしさのない平明なもので、かなり持ち味を異にしている。その点が好き嫌いの分かれ目になるだろう。
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江漢といえばこのような遠近法を伴った風景画という印象が強いが、以下の「異国工場図」のような面白い作品も手掛けている。これはまるでカリカチュアではないか。このような感覚を学ぶ機会が江戸時代の日本にあったとすると、なかなか日本も捨てたものではない(笑)。
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これもまた珍しい作品。1800年頃に描かれた石川大浪の「乱入図」。台湾においてオランダ東インド会社の施設に日本の朱印船船長が乱入した事件を題材にしているらしい。遠近法には狂いがあるように見えるが、描かれた建物は完全に西洋のものだ。日本人の日常にない風景を想像で描いたものであれば、これぞまさに想像上の東西文明の対決!!石川大浪、一体どんな人物であったのだろうか。
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ほかにもまだまだ興味深い作品が展示されていて、16年前の板橋区立美術館での展覧会に比較すると、格段に展示の幅が広がっている。そういえば、この秋田蘭画は歴史に埋もれてしまっていたところ、その再評価を行ったのは秋田の角館出身の日本画家、平福百穂(ひらふく ひゃくすい)なのである。私は5年ほど前に角館を訪問した際、百穂の美術館にも足を運んだが、その時には不覚にして、彼と秋田蘭画の結びつきには気づかなかった。ある時代の文化的な遺産が歴史を経て人々に訴えかけるには、やはり多かれ少なかれ立役者が必要である。百穂自身の作品自体があまり秋田蘭画との共通性がないだけに、画家の持つ懐の深さを思い知らされる。
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なお、展覧会の副題の「世界に挑んだ7年」に、私は少し違和感を感じる。もちろん、狭い島国で得られる情報に飽き足らず、西洋の先進文明を学んだ人たちが残した業績なのであるが、彼らに「世界に挑む」という大仰な思いがあったかどうか。私はむしろ、上述の通り、抑えられない強い好奇心に突き動かされ、面白いから夢中になって制作に励んだ人たちであったのだろうと思う。もともと「世界」という遠い目標があって、そこに向けて努力するという発想は、どうも日本人の奥深い部分に根強く残っていると思うが、そのような義務感めいたものを秋田蘭画から感じることはできない。そこには実り豊かな7年間があり、それを引き継いだ流れもあったということ。それだけで充分興味深いではないか。秋田蘭画だけでは飽き足らんが、とは言わせませんよ!!

by yokohama7474 | 2016-12-25 11:00 | 美術・旅行 | Comments(0)
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